兵を失わずして勝つ?羽柴秀吉VS別所長治「三木の干殺し戦」 - 「高天原の縁側日記」
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2016/03/15

兵を失わずして勝つ?羽柴秀吉VS別所長治「三木の干殺し戦」

以前にUPした、竹中半兵衛の墓の最後でお約束した『三木城趾』を紹介します。

昨年三木城址を訪ねたのですが、場所がわからずに、コンビニで聞くと、店長らしいおじさんが、丁寧に教えてくださったのですが、「うちの殿様ももう少しうまくやればな~」とおっしゃって、滅んでしまった地元の英雄『』を懐かしむ言葉に驚かされました。

三木城址6(以外?と大きいです)




前回、三木城攻略作戦について、お話させて頂きましたが、簡単におさらいします。

時代背景ですが、織田軍中国地方攻め司令官、羽柴秀吉小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。

備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、 秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し(これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、猛将山中鹿之助も謀殺されています。)、別所氏攻略に取りかかります。

別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反発した説も有ります。)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。

三木城址7(中心部だけ保存されています)

上月城を不本意ながら見限った事により、羽柴秀吉は三木城攻略に全力を注ぎます。
しかし、正攻法ではこの城は簡単には攻略できないと判断し、三木城を孤立させ兵糧攻めすることを決意します。

三木城址4

三木城址5(合戦絵図、夫人の活躍場面もあります)


羽柴秀吉は、周囲の支城をひとつひとつ落とすと共に、補給路の封鎖をはかり、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります。)、戦術を取ります。

この籠城は、荒木重村小寺政職の離反応援も加わって、二年近くの長きに及びます。

毛利方も対信長の重要な拠点となる、三木城をなんとか助けようと、兵糧を三木城に送り込む事に力を注ぎますが、そのつど秀吉に阻まれます。

食料の届かない城内(領民も参加の籠城でした。)では、草はおろか、草木の根や虫、蛇、ネズミ、牛や馬まで食べつくし、飢え死にする者が続出したと記録されています。

天正8年(1580年)1月、三木城内の食料が完全に底をついた事を見越して、織田軍は三木城内の支城を攻撃、6日に長治の弟友之が守る宮ノ上砦を、11日に長治の叔父、吉親が守る鷹尾山城を攻略、残るは本城のみとなります。

14日、長治の叔父、重棟(重宗とも)の城中への勧告により、城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件がでます。
17日に長治一族が切腹(吉親は抗戦しようとして城兵に殺害)、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了します。

三木城址1

三木城址2

三木城址3
(辞世の句碑、『今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思へば』 「 自分が死ぬことにより、長年親しんできた多くの 領民の命が救われると思えば何の恨み もない」。別に一族の物もありました。)

この戦いは、その凄まじいまでの城内の様子から「三木の干殺し」といわれるようになりました。

城兵や領民の命を助けるために、自ら切腹を選んだ、長治の遺徳が三木の皆さんの中に、名君として残っていることを感じた。三木城趾訪問でした。

三木城雲龍寺
(菩提寺「雲龍寺」)
別所長治首塚
(首塚!夫婦仲良く眠られています。花も綺麗で地元の人々の気持ちがわかりますね。)


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