真田信繁VS伊達政宗!真田軍旗が残る『 志紀長吉神社 』
真田信繁(幸村)ゆかりの『志紀長吉神社』に行ってきました。
志紀長吉神社ホームページ
慶長20年(1615)大坂夏の陣、道明寺の戦い退却時に、真田信繁(幸村)が志紀長吉神社 「日蔭大明神」に戦勝を祈願し、みずから軍旗と刀剣を奉納しました。
刀剣は終戦後没収、軍旗はそのまま神社で保存しています。
神社の馬場にて休息した大鳥居そばには、信繁(幸村)休息所の碑が建立されています。
【六文銭軍旗 (真田信繁奉納)】
赤地に黒の六文銭の旗は、あまりに有名な真田家の軍旗。
「大阪夏の陣図屏風」にも、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられました。
六文銭(六道銭)は三途の川の渡し賃(通行料)とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものでした。
真田家は家紋に六文銭を用いることで、戦闘や日頃の駆け引きであっても、死さえもいとわない、決死の覚悟を表したと言われています。
神社に奉納されている軍旗には、銃弾の穴が二つ開いていますが、伊達軍からの銃弾の跡とされています。
奉納軍旗は一般公開されています。
例年正月2・3日5月4日 午前10時~午後4時
平成28年のみ毎月第3日曜日も公開しているそうですが、私が訪れたのは、第1日曜日でした(残念)。
【信繁が志紀長吉神社に立ち寄った大阪夏の陣の戦いとは】
慶長20年5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が行われました。
寄せ集め軍勢である豊臣方は、緊密な連絡を取ることができず(当日は濃霧が発生して集合時間にずれがおきたともいわれています)、後藤基次(又兵衛)隊2,800は単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、松平忠明ら2万以上の敵勢に攻撃を受け、後藤基次は討死してしまいます。
次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死しました。
さらに遅れて真田信繁(幸村)、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長(小十郎)隊の進軍を押し戻します。
しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して撤退を決めます。
幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃はしませんでした。
道明寺合戦では真田信繁(幸村)は、退却時のしんがりを務めます。
そのとき残した言葉がとても有名ですね!「関東勢百万と候へ、男はひとりもなく候」
意味は(関東武者は百万居ても、男子は一人も居ないものだな) 。
徳川軍を嘲笑し悠然と去って行ったといわれています。
男前ですね~(*^^*)
ただ、伊達家の片倉重長にはなにかしら感じる所が有ったのか、その日の夜に長女、次男以外数名の子供たちを、信頼して送り届けています。
長女阿梅(おうめ) は片倉重長の後添いと成っていますし、次男は伊達家で真田の姓を名乗っています(信繁の血脈も現在まで続いたということですね)。
ところで、神社で六文銭の勝ち守を購入したのですが。
真田信繁(幸村)は神社祈願の翌日残念ながら、亡くなってしまったんです。
御利益を疑うわけでは有りませんが、受験生の娘に渡すのを躊躇しているのは何故でしょうね(笑)。
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志紀長吉神社ホームページ
慶長20年(1615)大坂夏の陣、道明寺の戦い退却時に、真田信繁(幸村)が志紀長吉神社 「日蔭大明神」に戦勝を祈願し、みずから軍旗と刀剣を奉納しました。
刀剣は終戦後没収、軍旗はそのまま神社で保存しています。
(大河ドラマの影響は大きいです。)
神社の馬場にて休息した大鳥居そばには、信繁(幸村)休息所の碑が建立されています。
(お隣のお家も騒がしくて大変かもしれません。)
(気持ちはよくわかりますが、六文銭ですからね!)
【六文銭軍旗 (真田信繁奉納)】
赤地に黒の六文銭の旗は、あまりに有名な真田家の軍旗。
「大阪夏の陣図屏風」にも、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられました。
六文銭(六道銭)は三途の川の渡し賃(通行料)とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものでした。
真田家は家紋に六文銭を用いることで、戦闘や日頃の駆け引きであっても、死さえもいとわない、決死の覚悟を表したと言われています。
神社に奉納されている軍旗には、銃弾の穴が二つ開いていますが、伊達軍からの銃弾の跡とされています。
奉納軍旗は一般公開されています。
例年正月2・3日5月4日 午前10時~午後4時
平成28年のみ毎月第3日曜日も公開しているそうですが、私が訪れたのは、第1日曜日でした(残念)。
(神社のHPからお借りしました)
【信繁が志紀長吉神社に立ち寄った大阪夏の陣の戦いとは】
慶長20年5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が行われました。
寄せ集め軍勢である豊臣方は、緊密な連絡を取ることができず(当日は濃霧が発生して集合時間にずれがおきたともいわれています)、後藤基次(又兵衛)隊2,800は単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、松平忠明ら2万以上の敵勢に攻撃を受け、後藤基次は討死してしまいます。
次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死しました。
さらに遅れて真田信繁(幸村)、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長(小十郎)隊の進軍を押し戻します。
しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して撤退を決めます。
幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃はしませんでした。
道明寺合戦では真田信繁(幸村)は、退却時のしんがりを務めます。
そのとき残した言葉がとても有名ですね!「関東勢百万と候へ、男はひとりもなく候」
意味は(関東武者は百万居ても、男子は一人も居ないものだな) 。
徳川軍を嘲笑し悠然と去って行ったといわれています。
男前ですね~(*^^*)
ただ、伊達家の片倉重長にはなにかしら感じる所が有ったのか、その日の夜に長女、次男以外数名の子供たちを、信頼して送り届けています。
長女阿梅(おうめ) は片倉重長の後添いと成っていますし、次男は伊達家で真田の姓を名乗っています(信繁の血脈も現在まで続いたということですね)。
ところで、神社で六文銭の勝ち守を購入したのですが。
真田信繁(幸村)は神社祈願の翌日残念ながら、亡くなってしまったんです。
御利益を疑うわけでは有りませんが、受験生の娘に渡すのを躊躇しているのは何故でしょうね(笑)。
三年のご愛顧感謝します.
新規ブログが始まりました。
癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる
99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」
~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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