真田信繁(幸村)死す!『安居神社』へお詣りして来ました。 - 「高天原の縁側日記」
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2016/02/22

真田信繁(幸村)死す!『安居神社』へお詣りして来ました。

「安居神社」は、慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣の時、真田信繁(幸村)が最後を迎えた場所として有名です。

安居神社8
(真田幸村陣没の旧跡とあります)

菅原道真が九州太宰府に左遷されるおりに、船の風待ちの為に休息をとった場所から、安居天満宮とも呼ばれます。

安居神社1


安居神社2


慶長年間以前からあった神社ですが、創建された年はよく分かっておらず、少彦名神(すくなびこな)が祭られており、天慶五年(942)から菅原道真が祭られるようになったといわれています。
桜が美しく、歌川(安藤)広重も浮世絵の題材に使用しています。

現在は観光地というより、ごく普通の神社(はっきり言って場所も解りにくい?)ですが、真田信繁(幸村)終焉の地として、多くの歴史ファンか訪れるスポットになっています。

安居神社3



【豊臣家最後の作戦】

ここで、少し大阪夏の陣の豊臣軍最後の作戦についてお話します。

冬の陣の結果大阪城の堀割は全て(本丸周り以外)埋められてしまったために、豊臣軍は少数(三分の一ともいわれています)にもかかわらずらず野戦を余儀なくされます。

真田丸が取り崩され、廃棄せざるを得なかった信繁は、冬の陣で徳川家康が本陣としていた、茶臼山を第二の真田丸として整備します。

元々、茶臼山自体が古墳であり水堀も有りますし、家康が本陣と定めた位ですから、陣地としては打ってつけの場所であったと考えられます。

茶臼山1


茶臼山2
(茶臼山古墳、当日整備のため立ち入り禁止でした。残念)


しかしながら、豊臣軍は前日6月7日の道明寺の戦いで、善戦はしたものの 多勢に無勢の上に、連携の不備や天候(濃霧で集合時間がずれてしまった)までもが裏目に出て敗北してしまいます。

後藤基次(又兵衛)・薄田兼相らを失ってしまった豊臣軍は、士気を鼓舞するため豊臣秀頼の出馬を強く願うと同時に、決死の作戦に出ます。

真田信繁(幸村)は大野治房・明石全登・毛利勝永と共に作戦を立案します。


それは、右翼として真田隊を茶臼山へ、左翼として毛利隊を四天王寺付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して、徳川軍をおびき寄せて、家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回待機させ、合図と共にこれを側面から突撃させるという作戦だったと、されているます。

経過は、毛利勝永隊が先に戦闘を始めてしまったために、十分に徳川軍をおびき寄せることができずに、信繁は家康本隊だけに、的を絞った突撃戦を決行することになってしまいます。

しかしながら、先に銃撃を仕掛け戦闘を始めた毛利勝永は、先手を打った勢いに乗り、徳川軍先鋒大将の本多忠朝勢を壊滅させ、忠朝を討ち取り一番手を突破します。

また毛利勝永隊に追随して前進して来た木村重成(惜しむらく、前日の八尾・若江合戦で打死にしています)の残余兵である木村宗明らが、本多勢の救援に駆けつけた小笠原秀政、小笠原忠脩勢を側面から攻撃。

この不意打ちで忠脩は討死、秀政は重傷を負い戦場離脱しますが、後に死亡しています。


残る二番手の<榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠澄の三隊も暫く持ち堪えるものの混乱に巻き込まれ崩壊、これらの敗兵がなだれ込んだ三番手も、同様の事態に陥り、徳川家康本陣は丸出しとなります。

信繁は、自隊を先鋒・次鋒・本隊など数段に分け、天王寺口の松平忠直隊と一進一退の激戦を続けていましたが、「紀州(浅野長晟)が裏切った」という虚報(真田忍軍が幕府軍に紛れて発したともいわれます)に松平勢が動揺するのに乗じて突破をはかると、毛利隊などに苦戦する徳川家康の本陣へ強行突破を図り、三度に渡り本陣へ猛突撃を加えました。

この乾坤一擲の攻勢に、家康本陣は恐慌状態に陥り、後退を余儀なくされます。

三方ヶ原の戦い以降一度も倒れたことのない家康の馬印も倒れたと記録されています。

さらに騎馬で逃げる家康自身も切腹を幾度もなく口走ったといわれます(一説には平野方面に逃げたと言われています)。

また、旗本の中には三里も逃げたものがいたとも言われています。


しかしながら、死力を尽くした信繁の突撃も最後には力尽きて、この安居神社で休んでいるところを発見されて、打ち取られたとされています。

安居神社には真田信繁終焉の地にさなだ松(二代目)がありますが、そこが信繁が打ち取られた場所(少し離れた場所との情報も有るようです)とされています。

安居神社5


安居神社4


家康をして『日の本一の兵』とまで言わしめた(事実は島津家の発言の様ですが)、真田信繁(幸村)の人気が衰えないのもうなずけるところです。

安居神社7


【もしものお話し】

真田信繁(幸村)・毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があった程の激戦です。

もし豊臣側にもう少しの政治手腕があったなら・・・

もし前日の濃霧が発生していなかったら・・・

もし豊臣秀頼が信繁等の呼び掛けに応じ出陣し、全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら・・・

もし明石全登の別働隊の奇襲作戦が成功していたら・・・

もし家康が側近の翻意を聞かなかったら・・・


状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれませんね~。

やはり歴史は、もしもを想像出来るから面白いですよね。

真田信繁(幸村)ゆかりの場所を、色々巡りましたがこれで終わり?にさせて頂きます。

三年のご愛顧感謝します。

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コメント

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はじめまして

こんばんは。はじめまして。戦国時代を追いかけて(略)の管理人つねまると申します。
当方、大阪在住で、但馬地域や丹波が好きでうろうろしております。出石神社の狛犬さんが大好きです。
真田氏関連の史跡、いつもにも増して訪問される方が増えそうですね。
前記事の真田丸のお話、面白かったです。
一次資料にあたるのは当然ながら、現地に立つことで得られるものは大きいですね。
道明寺・誉田の戦いでも古墳が点在しておりますし、畿内あちこちの古墳は戦国時にどれ程陣として使われたのか、とても興味があります。