京都御所の鬼門を鎮守する、『おさるさん』のお話! - 「高天原の縁側日記」
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2016/02/09

京都御所の鬼門を鎮守する、『おさるさん』のお話!

恵方巻の時に、京都御所の鬼門の角が欠けている?お話で、写真を使おうと思っていたのですが、年末にPCが壊れて保存写真も飛んで行ってしまった様子なので、岩清水八幡宮の写真を使わせて頂きましたが、やはり本物でなきゃ駄目でしょう!ということで、7日(日曜日)撮影してきました。

御所鬼門


御所の築地塀が折れ曲がった、鬼門の屋根裏に、木彫りの猿がいるの見えますか?

烏帽子をかぶり御幣をかついだこのおさるさん、御所の鬼門を守る比叡山延暦寺の地主神、日吉山王神社の使いです。 北東の方向(丑寅「うしとら」の方角)は悪い鬼が入ってくると信じられ、表鬼門とされてきました。

猿は、難が去る(猿)とかけて、鬼門を守る魔除けなのです。

しかしながら、夜な夜な抜け出して悪さをするので、逃げないように、金網で囲まれて逃げ出せないようにされてしまったそうです

猿が辻


この猿の名前から、鬼門が有る辺りを、猿が辻とよぶのですが、守る猿を閉じ込めたせいなのか?高札にも有るように江戸時代末期に事件も起きているようですね。

猿が辻高札


【猿ヶ辻の変】

当時、このあたりは公家屋敷の軒の混んだ、昼でも薄暗いところだったといいます。

朔平門外の変(さくべいもんがいのへん)とも言われます。江戸時代末期の文久3年5月20日(1863年7月5日)、尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻で暗殺された事件です。

一殿上人の暗殺に留まらず、当時の中央政局に大きな影響を与え、同年の八月十八日の政変 、文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)が起きる切っ掛けになりました。

文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津・薩摩を中心とした公武合体派が、長州を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件です。

文久の政変堺町門の変とも呼ばれる。

たかが猿一匹されどですね。

流石に京都は歴史の宝庫です!

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