奇祭『婆々焼き祭り』と承久の乱の顛末!雅成親王の憂鬱①
皆さん、歴史お好ですか~?
歴史という、「今も執筆され続ける壮大な時の流れの物語」。
その大河を遡り、禁断のifを推察する、スリルに満ちたエンターテイメント。
深い河淵の底や、切り立った岩肌の上は、未だ解明されない多くの謎に満ちています。
この、大長編スペクタクルストーリーに魅了されない人はいないですよね?(そこまで~笑)。
歴史好きの皆さん方、知識内の点であった記憶がある時、ふとつながって一本の線に変わり、改めて歴史物語の本質に気が付く楽しみを体験された事は有りませんか?
私はラッキーなことに、時々あるんです。つい先日も、小学生の時に見た町内の『婆々焼祭り』なる奇祭、中学生の社会(歴史)で勉強した『承久の乱』の「御恩と奉公」、高校生の友達の家の近くで見た、兵庫県豊岡市高屋『黒木御所跡』の石碑、年を取りそれらが、後鳥羽上皇の御歌「 人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく 世を思ふ故(ゆゑ)に もの思ふ身は 」をふとした切っ掛けで調べたことから、点の記憶でしかなかったものが、一本の線で繋がったとき、頭の中でシナプスに電流が流れるのを感じました(笑)。
さて、但馬の国、豊岡市日高町松岡地区「十二所神社」前の円山川河川敷で行われる、御柱(おとう)祭り通称『婆々焼祭り』という奇祭をご存知の方は但馬在住の方々でも少ないでしょう。
4月14日に毎年行われるこの奇祭は、承久の乱にまつわる、悲しい物語が有るのです(涙💧)。
『十二所神社』
所在地 兵庫県豊岡市日高町松岡字宮後228
【御祭神】
伊邪那岐命
配祀神 伊邪那美命・天児屋根命
【先ずは、「承久の乱」の概要を説明しましょう】
承久の乱は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、源氏の血筋が途絶え、これをチャンスと見た後鳥羽上皇が時の執権、北条義時追討の声を上げ、鎌倉幕府に対して、討幕の兵を挙げて敗れた兵乱の事です。
承久の変(乱なのか変と呼ぶべきかは議論が有ります)、承久合戦ともいいます。
日本史上初めて、朝廷の勅や院宣に逆う軍事行動によって朝廷に反乱軍が勝利した事件です。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになりました。
鎌倉幕府の源氏一門(御門葉)の重鎮であった大内惟信は後鳥羽上皇に味方し敗死し、源頼朝が最も信頼を置いていた平賀氏・大内氏は没落することになります(幕府側も一枚岩ではなかったのですね)。
きっかけを、もう少し詳しくお話しましょう。
源平の戦いで平氏を滅亡させた源頼朝は、その後、鎌倉に幕府を開き、自らは征夷大将軍に就任(1180年~1192年頃)します。 (子供の教科書を読んでいると、昔覚えた「いい国」作ろう鎌倉幕府の1192年は今「いい箱」作ろう鎌倉幕府1185年となっていてびっくりしました)
当時は、後白河法皇が亡くなり、源頼朝と親しい九条兼実が朝廷の中心であった為、幕府と朝廷の関係は良好でした。
しかし、征夷大将軍の任命からわずか7年。1199年に源頼朝が馬から落ち怪我をしたのが災いし、亡くなってしまいます。
その後を継いだのは、息子の源頼家でしたが、この18歳の青年、評判がすこぶる悪く、有力御家人達の権力争いを背景とした政変もあり結局、失脚してしまいます。
更には、1204年に叔父の北条時政により暗殺されてしまいます。
その後を継いだのは、わずか12歳の源実朝でしたが、1219年に頼家の子である公暁によって鶴岡八幡宮にて暗殺、さらにその公暁も殺害されてしまい、ついに源氏の正当な血筋が途絶えてしまいます。
文武に秀でた後鳥羽上皇にとっては、千載一遇のチャンスと思ったでしょう。
これが、承久の乱の始まりです。
その時、登場するのが源頼朝の妻である北条政子です。
「尼将軍」政子は、頼朝が築いた「ご恩と奉公」の大切さを説きます。
それは、頼朝政権を支えた仕組みでした。
頼朝は戦で活躍した御家人にほうびとして土地をあたえました。
これが頼朝に対する「ご恩」に成ります。
これに対し御家人は、戦のとき「いざ鎌倉!」とかけつけ戦いました。これが「奉公」です。
政子は声を上げてうったえます。
『 あなた達、よく聞きなさい!頼朝様が平氏を滅ぼし関東に幕府を開いてから、あなた方の役職や収入は随分と上がって生活が楽になったではありませんか!その恩は山よりも高く、海よりも深いのではないのですか?その恩を忘れ、彼方側につきたいというのであれば、別に止めはしませんこの場から出てきなさい! 』
そう涙ながらに訴えたのです(まるで見ていたかのようです。笑) 。
御家人たちは深く感動し、再び団結します。
北条政子の訴えで結束を固めた幕府軍の強さは凄まじく、わずか1ヶ月で乱は鎮圧。
後鳥羽上皇をはじめ、3上皇は各地に配流され、関係した公家たちも処罰されました。
そして、上皇側の領土も没収され、その領土は功績のあった御家人たちに配られ、以後、幕府の力は更に強固なものとなるのです。
長々とご静読ありがとうございました(笑)。
この時、血脈の絶えた幕府から最初に打診が有ったのが、(後鳥羽上皇第四皇子)雅成親王を征夷大将軍に迎え鎌倉幕府を存続することでした。
雅成親王も但馬は現豊岡市高屋に流され(一度は京都に戻りますが)、但馬でさびしくお亡くなりに成ってしまいます。
この事が、『婆々焼き祭り』なる奇祭とどう繋がるのか、次の機会にお話致しましょう。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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歴史という、「今も執筆され続ける壮大な時の流れの物語」。
その大河を遡り、禁断のifを推察する、スリルに満ちたエンターテイメント。
深い河淵の底や、切り立った岩肌の上は、未だ解明されない多くの謎に満ちています。
この、大長編スペクタクルストーリーに魅了されない人はいないですよね?(そこまで~笑)。
歴史好きの皆さん方、知識内の点であった記憶がある時、ふとつながって一本の線に変わり、改めて歴史物語の本質に気が付く楽しみを体験された事は有りませんか?
私はラッキーなことに、時々あるんです。つい先日も、小学生の時に見た町内の『婆々焼祭り』なる奇祭、中学生の社会(歴史)で勉強した『承久の乱』の「御恩と奉公」、高校生の友達の家の近くで見た、兵庫県豊岡市高屋『黒木御所跡』の石碑、年を取りそれらが、後鳥羽上皇の御歌「 人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく 世を思ふ故(ゆゑ)に もの思ふ身は 」をふとした切っ掛けで調べたことから、点の記憶でしかなかったものが、一本の線で繋がったとき、頭の中でシナプスに電流が流れるのを感じました(笑)。
さて、但馬の国、豊岡市日高町松岡地区「十二所神社」前の円山川河川敷で行われる、御柱(おとう)祭り通称『婆々焼祭り』という奇祭をご存知の方は但馬在住の方々でも少ないでしょう。
4月14日に毎年行われるこの奇祭は、承久の乱にまつわる、悲しい物語が有るのです(涙💧)。
『十二所神社』
所在地 兵庫県豊岡市日高町松岡字宮後228
(こ、これは?千木の形十二所の名前、第三皇子?縁起としてはどうでしょう。)
【御祭神】
伊邪那岐命
配祀神 伊邪那美命・天児屋根命
【先ずは、「承久の乱」の概要を説明しましょう】
承久の乱は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、源氏の血筋が途絶え、これをチャンスと見た後鳥羽上皇が時の執権、北条義時追討の声を上げ、鎌倉幕府に対して、討幕の兵を挙げて敗れた兵乱の事です。
承久の変(乱なのか変と呼ぶべきかは議論が有ります)、承久合戦ともいいます。
日本史上初めて、朝廷の勅や院宣に逆う軍事行動によって朝廷に反乱軍が勝利した事件です。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになりました。
鎌倉幕府の源氏一門(御門葉)の重鎮であった大内惟信は後鳥羽上皇に味方し敗死し、源頼朝が最も信頼を置いていた平賀氏・大内氏は没落することになります(幕府側も一枚岩ではなかったのですね)。
きっかけを、もう少し詳しくお話しましょう。
源平の戦いで平氏を滅亡させた源頼朝は、その後、鎌倉に幕府を開き、自らは征夷大将軍に就任(1180年~1192年頃)します。 (子供の教科書を読んでいると、昔覚えた「いい国」作ろう鎌倉幕府の1192年は今「いい箱」作ろう鎌倉幕府1185年となっていてびっくりしました)
当時は、後白河法皇が亡くなり、源頼朝と親しい九条兼実が朝廷の中心であった為、幕府と朝廷の関係は良好でした。
しかし、征夷大将軍の任命からわずか7年。1199年に源頼朝が馬から落ち怪我をしたのが災いし、亡くなってしまいます。
その後を継いだのは、息子の源頼家でしたが、この18歳の青年、評判がすこぶる悪く、有力御家人達の権力争いを背景とした政変もあり結局、失脚してしまいます。
更には、1204年に叔父の北条時政により暗殺されてしまいます。
その後を継いだのは、わずか12歳の源実朝でしたが、1219年に頼家の子である公暁によって鶴岡八幡宮にて暗殺、さらにその公暁も殺害されてしまい、ついに源氏の正当な血筋が途絶えてしまいます。
文武に秀でた後鳥羽上皇にとっては、千載一遇のチャンスと思ったでしょう。
これが、承久の乱の始まりです。
その時、登場するのが源頼朝の妻である北条政子です。
「尼将軍」政子は、頼朝が築いた「ご恩と奉公」の大切さを説きます。
それは、頼朝政権を支えた仕組みでした。
頼朝は戦で活躍した御家人にほうびとして土地をあたえました。
これが頼朝に対する「ご恩」に成ります。
これに対し御家人は、戦のとき「いざ鎌倉!」とかけつけ戦いました。これが「奉公」です。
政子は声を上げてうったえます。
『 あなた達、よく聞きなさい!頼朝様が平氏を滅ぼし関東に幕府を開いてから、あなた方の役職や収入は随分と上がって生活が楽になったではありませんか!その恩は山よりも高く、海よりも深いのではないのですか?その恩を忘れ、彼方側につきたいというのであれば、別に止めはしませんこの場から出てきなさい! 』
そう涙ながらに訴えたのです(まるで見ていたかのようです。笑) 。
御家人たちは深く感動し、再び団結します。
北条政子の訴えで結束を固めた幕府軍の強さは凄まじく、わずか1ヶ月で乱は鎮圧。
後鳥羽上皇をはじめ、3上皇は各地に配流され、関係した公家たちも処罰されました。
そして、上皇側の領土も没収され、その領土は功績のあった御家人たちに配られ、以後、幕府の力は更に強固なものとなるのです。
長々とご静読ありがとうございました(笑)。
この時、血脈の絶えた幕府から最初に打診が有ったのが、(後鳥羽上皇第四皇子)雅成親王を征夷大将軍に迎え鎌倉幕府を存続することでした。
雅成親王も但馬は現豊岡市高屋に流され(一度は京都に戻りますが)、但馬でさびしくお亡くなりに成ってしまいます。
この事が、『婆々焼き祭り』なる奇祭とどう繋がるのか、次の機会にお話致しましょう。
(どんなお祀り?ワクワク)
いつも応援ありがとうございます。
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