海を無くした海賊達!『九鬼水軍』
時代が、私の頭の中のように前後して申し訳ありませんが、タイムマシーンに乗り込んだ気分でお楽しみ下さい(;^_^A
あの信長を苦しめた石山本願寺の攻防戦で、最終的に巨大な鉄甲船用いて毛利(小早川)、村上水軍を徹底的に撃ち破った九鬼水軍について、少しお話しましょう。
写真などは家から近い三田(みたではありません「さんだ」です。)九鬼家関連の物です。
さてと、三重県志摩地方に本拠地を持っていた九鬼水軍ですが、早くから織田信長に仕え信長の水軍の中心を担っていきます。
織田水軍または志摩水軍とも呼ばれます。
【九鬼水軍の躍進】
早くから織田信長に仕え、九鬼嘉隆は天正6年11月6日(1578年12月4日)第二次木津川口の戦いで、巨大な鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)六隻を用いて600隻に及ぶ毛利、村上水軍を破り、織田信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取しました。
本能寺の変で織田信長が倒れた後は、織田信勝に着きますが、小牧長久手の戦いの後、羽柴秀吉方に寝返り、天正13年(1585年)、従五位下、大隅守に叙位任官されます。
九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄・慶長の役では水軍の主力として功を挙げました。
このような戦功の結果、 九鬼嘉隆は後に和歌山に領地を貰い、紀伊半島の制海権を与えられ、5万石の大名になります。
この後、嘉隆は息子守隆に家督を譲って隠居します。
こうした経歴から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとりました。
【お家の存亡を掛けた関ヶ原の戦い】
石田三成挙兵の報を受け、徳川家康の上杉討伐に参加していた守隆は急遽志摩に戻ります。
そして西軍方で桑名城に篭城した氏家行広・行継らを破り、東軍最初の勝報を挙げます。
一方で、石田三成に加担要請され西軍についていた嘉隆は、娘婿である堀内氏善と守隆が城主の鳥羽城を占拠してしまいます。
この後、守隆と嘉隆は城外で合戦するも決着はつ来ませんでした。(嘉隆は西軍に、守隆は東軍に分れることは、西軍・東軍のどちらが勝っても家名を存続させるための策略だったといわれています。これは、真田家が信之と繁之が両軍に別れて家を守ろうとした経緯に似ています。)
嘉隆は、9月15日に関ヶ原で西軍敗北が伝わると、嘉隆は鳥羽城を放棄して答志島に退去・逃亡したため、騒乱は収束します。
守隆は桑名城戦での功で鳥羽城を安堵され、嘉隆の助命嘆願を訴えたところ、徳川家康より許しを得ますが、その使者が嘉隆の元に到着した時には、もうすでに和具の洞仙庵にて自刃した後でした。(享年59歳)
【江戸時代のお家内紛】
守隆は鳥羽城主として5万6000石を持っていましたが、仏門に帰していた五男九鬼久隆を還俗させ、後継者にしようとしたところ、三男である九鬼隆季から猛反発をうけ、家督争いとなります。
守隆の死後も家督争いは続き、この騒動を見ていた幕閣(江戸幕府)により、九鬼家は代々領土を守ってきた志摩国の領地を失い、九鬼久隆は摂津国三田九鬼家3万6000石に、九鬼隆季は丹波国綾部九鬼家2万石に移されます。ここに九鬼水軍はその水軍力を失い、陸に上がる(三田・綾部も内陸で海はありません)こととに成りましたが、九鬼氏はこの後も廃藩置県までの期間を生き抜くこととなります。
三田市の九鬼家の遺跡?を見てきました。「海を無くした海賊」とは何となく惨めな感じが否めませんが、綾部・三田共に徳川家のDNAを養子に迎えることで、江戸時代を生き抜いています。
その他の大名家にもいえることですが、血統よりも、お家大事が殆どで、現代人の私達感覚とかなりかけ離れている気がします。
現代的に考えると会社の様です。能力のある社長を迎えたり、顔の利く親会社から天下る感覚なのかもしれません。
最後の余談なのですが、神戸随一のお嬢様学校と呼ばれる、神戸女学院大学ですが、明治の初めに三田九鬼家の殿様が尽力されて作られた学校なんですよね。
海賊の末裔が創った学校で関西一のお嬢様が誕生しているというのも面白いと思いませんか?(爆)。
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あの信長を苦しめた石山本願寺の攻防戦で、最終的に巨大な鉄甲船用いて毛利(小早川)、村上水軍を徹底的に撃ち破った九鬼水軍について、少しお話しましょう。
写真などは家から近い三田(みたではありません「さんだ」です。)九鬼家関連の物です。
さてと、三重県志摩地方に本拠地を持っていた九鬼水軍ですが、早くから織田信長に仕え信長の水軍の中心を担っていきます。
織田水軍または志摩水軍とも呼ばれます。
【九鬼水軍の躍進】
早くから織田信長に仕え、九鬼嘉隆は天正6年11月6日(1578年12月4日)第二次木津川口の戦いで、巨大な鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)六隻を用いて600隻に及ぶ毛利、村上水軍を破り、織田信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取しました。
本能寺の変で織田信長が倒れた後は、織田信勝に着きますが、小牧長久手の戦いの後、羽柴秀吉方に寝返り、天正13年(1585年)、従五位下、大隅守に叙位任官されます。
九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄・慶長の役では水軍の主力として功を挙げました。
このような戦功の結果、 九鬼嘉隆は後に和歌山に領地を貰い、紀伊半島の制海権を与えられ、5万石の大名になります。
この後、嘉隆は息子守隆に家督を譲って隠居します。
こうした経歴から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとりました。
【お家の存亡を掛けた関ヶ原の戦い】
石田三成挙兵の報を受け、徳川家康の上杉討伐に参加していた守隆は急遽志摩に戻ります。
そして西軍方で桑名城に篭城した氏家行広・行継らを破り、東軍最初の勝報を挙げます。
一方で、石田三成に加担要請され西軍についていた嘉隆は、娘婿である堀内氏善と守隆が城主の鳥羽城を占拠してしまいます。
この後、守隆と嘉隆は城外で合戦するも決着はつ来ませんでした。(嘉隆は西軍に、守隆は東軍に分れることは、西軍・東軍のどちらが勝っても家名を存続させるための策略だったといわれています。これは、真田家が信之と繁之が両軍に別れて家を守ろうとした経緯に似ています。)
嘉隆は、9月15日に関ヶ原で西軍敗北が伝わると、嘉隆は鳥羽城を放棄して答志島に退去・逃亡したため、騒乱は収束します。
守隆は桑名城戦での功で鳥羽城を安堵され、嘉隆の助命嘆願を訴えたところ、徳川家康より許しを得ますが、その使者が嘉隆の元に到着した時には、もうすでに和具の洞仙庵にて自刃した後でした。(享年59歳)
【江戸時代のお家内紛】
守隆は鳥羽城主として5万6000石を持っていましたが、仏門に帰していた五男九鬼久隆を還俗させ、後継者にしようとしたところ、三男である九鬼隆季から猛反発をうけ、家督争いとなります。
守隆の死後も家督争いは続き、この騒動を見ていた幕閣(江戸幕府)により、九鬼家は代々領土を守ってきた志摩国の領地を失い、九鬼久隆は摂津国三田九鬼家3万6000石に、九鬼隆季は丹波国綾部九鬼家2万石に移されます。ここに九鬼水軍はその水軍力を失い、陸に上がる(三田・綾部も内陸で海はありません)こととに成りましたが、九鬼氏はこの後も廃藩置県までの期間を生き抜くこととなります。
三田市の九鬼家の遺跡?を見てきました。「海を無くした海賊」とは何となく惨めな感じが否めませんが、綾部・三田共に徳川家のDNAを養子に迎えることで、江戸時代を生き抜いています。
その他の大名家にもいえることですが、血統よりも、お家大事が殆どで、現代人の私達感覚とかなりかけ離れている気がします。
現代的に考えると会社の様です。能力のある社長を迎えたり、顔の利く親会社から天下る感覚なのかもしれません。
最後の余談なのですが、神戸随一のお嬢様学校と呼ばれる、神戸女学院大学ですが、明治の初めに三田九鬼家の殿様が尽力されて作られた学校なんですよね。
海賊の末裔が創った学校で関西一のお嬢様が誕生しているというのも面白いと思いませんか?(爆)。
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コメント
九鬼さん
おおお、三田の九鬼様。船のお稽古をしたという池を見て、じーんっと致しましたよー。
お墓参りに一度行きたいです。ありがとうございます。
熊野本宮大社の九鬼宮司が毎年書く今年の一文字、なかなか味がありますよー。
2016-07-03 08:36 つねまる URL 編集
Re: 九鬼さん
こちらこそ勉強させていただいております。
> おおお、三田の九鬼様。船のお稽古をしたという池を見て、じーんっと致しましたよー。
> お墓参りに一度行きたいです。ありがとうございます。
そうですよね~歴史好きの方には、ご理解いただけると思いました。
是非三田市にいらしてください。お待ちしております?(笑)
> 熊野本宮大社の九鬼宮司が毎年書く今年の一文字、なかなか味がありますよー。
ありがとうございます。京都清水しか知りませんでした。
去年は清水寺で投票させていただきました。
熊野本宮大社注目しておきます~!
2016-07-03 10:29 市良右衛門 URL 編集