稀代の名軍師『竹中半兵衛』寂しく三木に眠る!
孤高の天才軍師!日本の諸葛孔明ともいわれる、竹中半兵衛重治のお墓に行ってきました。
場所は、兵庫県三木市!三木城包囲攻略戦、羽柴秀吉本陣近くの山裾の畑側です。

(山頂が本陣に成ってました)

(秀吉本陣より望む、右中ほどが三木城跡です)
あの、竹中半兵衛の墓がこんな所に?と思わずにはおられないロケーションです。


(周りは畑ですよ、畑!)

(やっぱり寂しく思えます)
当時の時代背景ですが、織田軍中国攻め司令官、羽柴秀吉が小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。
備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し(これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、猛将山中鹿之助も謀殺されています)、別所氏攻略に取りかかります。
別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反攻した説も有ります)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。
羽柴秀吉は周りの支城を落とした後、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります)、三木日干し戦術を取ります。
この籠城は、荒木重村や小寺政職の離反応援も加わって、2年にも及びます。
そんな最中、名軍師!今孔明と詠われた竹中半兵衛重治が36歳の若さで陣没してしまうのです。
竹中半兵衛といえば、十数名であの難攻不落の稲葉山城を攻略したにもかかわらず、さっさと斎藤龍興に返上して隠居してしまった事で有名ですね。

(一時的に竹中半兵衛が奪った記載がありました)

(稲葉山城「岐阜城」模擬天守、景色が素晴らしく、天下に号令をかけたくなる気持ちが解りました!お土産に「天下布武」のTシャツ買ってしまいました!)
美濃攻略を進めたい織田信長は家臣の秀吉を使い、竹中半兵衛をどうにか織田軍に迎えようとしますが、首を縦にふろうとはしません。
秀吉が三顧の礼を取り、織田信長ではなく、秀吉配下ならとの条件で、迎えたのはよく知られたお話です(創作も有ると思われますが)。
黒田勘兵衛と並んで、両兵衛と呼ばれ秀吉の天下取りに多大な、貢献を果たした竹中半兵衛、出身の岐阜にも墓は有るようですが、時代背景を考えると、こちらに眠っておられるのではないでしょうか。
三木市ももう少し、観光資源と考えて、丁重にお祀りしても良いと思うのですが。
三木城の現在は又別の機会にお話しましょう。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナーを「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇


場所は、兵庫県三木市!三木城包囲攻略戦、羽柴秀吉本陣近くの山裾の畑側です。

(山頂が本陣に成ってました)

(秀吉本陣より望む、右中ほどが三木城跡です)
あの、竹中半兵衛の墓がこんな所に?と思わずにはおられないロケーションです。


(周りは畑ですよ、畑!)

(やっぱり寂しく思えます)
当時の時代背景ですが、織田軍中国攻め司令官、羽柴秀吉が小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。
備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し(これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、猛将山中鹿之助も謀殺されています)、別所氏攻略に取りかかります。
別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反攻した説も有ります)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。
羽柴秀吉は周りの支城を落とした後、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります)、三木日干し戦術を取ります。
この籠城は、荒木重村や小寺政職の離反応援も加わって、2年にも及びます。
そんな最中、名軍師!今孔明と詠われた竹中半兵衛重治が36歳の若さで陣没してしまうのです。
竹中半兵衛といえば、十数名であの難攻不落の稲葉山城を攻略したにもかかわらず、さっさと斎藤龍興に返上して隠居してしまった事で有名ですね。

(一時的に竹中半兵衛が奪った記載がありました)

(稲葉山城「岐阜城」模擬天守、景色が素晴らしく、天下に号令をかけたくなる気持ちが解りました!お土産に「天下布武」のTシャツ買ってしまいました!)
美濃攻略を進めたい織田信長は家臣の秀吉を使い、竹中半兵衛をどうにか織田軍に迎えようとしますが、首を縦にふろうとはしません。
秀吉が三顧の礼を取り、織田信長ではなく、秀吉配下ならとの条件で、迎えたのはよく知られたお話です(創作も有ると思われますが)。
黒田勘兵衛と並んで、両兵衛と呼ばれ秀吉の天下取りに多大な、貢献を果たした竹中半兵衛、出身の岐阜にも墓は有るようですが、時代背景を考えると、こちらに眠っておられるのではないでしょうか。
三木市ももう少し、観光資源と考えて、丁重にお祀りしても良いと思うのですが。
三木城の現在は又別の機会にお話しましょう。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナーを「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇



コメント