稀代の名軍師『竹中半兵衛』寂しく三木に眠る! - 「高天原の縁側日記」
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2016/01/13

稀代の名軍師『竹中半兵衛』寂しく三木に眠る!

孤高の天才軍師!日本の諸葛孔明ともいわれる、竹中半兵衛重治のお墓に行ってきました。

場所は、兵庫県三木市!三木城包囲攻略戦、羽柴秀吉本陣近くの山裾の畑側です。

三木城秀吉陣跡
(山頂が本陣に成ってました)

三木城を望む
(秀吉本陣より望む、右中ほどが三木城跡です)

あの、竹中半兵衛の墓がこんな所に?と思わずにはおられないロケーションです。

竹中半兵衛墓3

竹中半兵衛墓1
(周りは畑ですよ、畑!)

竹中半兵衛墓2
(やっぱり寂しく思えます)

当時の時代背景ですが、織田軍中国攻め司令官、羽柴秀吉小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍も有り、播磨を平定した矢先の1778年(天正6年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗を翻します。

備前、宇喜多直家の動向も未だに不明な時、秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形に成り、中国攻めを一時的に中断し(これにより上月城の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍吉川元春らに攻められて上月城は開城、尼子勝久は切腹し尼子氏は断絶、猛将山中鹿之助も謀殺されています)、別所氏攻略に取りかかります。

別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反攻した説も有ります)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。

羽柴秀吉は周りの支城を落とした後、あの有名な兵糧攻め(戦わずして勝つ!秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となります)、三木日干し戦術を取ります。

この籠城は、荒木重村小寺政職の離反応援も加わって、2年にも及びます。

そんな最中、名軍師!今孔明と詠われた竹中半兵衛重治が36歳の若さで陣没してしまうのです。

竹中半兵衛といえば、十数名であの難攻不落の稲葉山城を攻略したにもかかわらず、さっさと斎藤龍興に返上して隠居してしまった事で有名ですね。

稲葉山2
(一時的に竹中半兵衛が奪った記載がありました)

稲葉山1
(稲葉山城「岐阜城」模擬天守、景色が素晴らしく、天下に号令をかけたくなる気持ちが解りました!お土産に「天下布武」のTシャツ買ってしまいました!)

美濃攻略を進めたい織田信長は家臣の秀吉を使い、竹中半兵衛をどうにか織田軍に迎えようとしますが、首を縦にふろうとはしません。

秀吉が三顧の礼を取り、織田信長ではなく、秀吉配下ならとの条件で、迎えたのはよく知られたお話です(創作も有ると思われますが)。

黒田勘兵衛と並んで、両兵衛と呼ばれ秀吉の天下取りに多大な、貢献を果たした竹中半兵衛、出身の岐阜にも墓は有るようですが、時代背景を考えると、こちらに眠っておられるのではないでしょうか。

三木市ももう少し、観光資源と考えて、丁重にお祀りしても良いと思うのですが。

三木城の現在は又別の機会にお話しましょう。

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