奇祭『婆々焼き祭り』と承久の乱の顛末!哀しみの幸姫②
兵庫県但馬地方に在住の方々でも、豊岡市日高町松岡地区「十二所神社」で行われる『婆々焼き祭り』という奇祭をご存知の方は少ないでしょう。
4月14日に毎年行われるこの奇祭は、承久の乱にまつわる、悲しい物語の語り部です。
先ず、祭の模様を御覧いただきましょう。
【婆々焼祭り概要】
松岡の御柱祭(婆々焼祭り)豊岡市日高町松岡で行われる。
市指定無形民俗文化財。
十二所神社前の円山川河川敷(台風で河川敷が削られて、私が子供の頃と場所が少しずれているような気がします。)で夕刻、老婆に見立てた藁(わら)人形を焼きます。
祭りの由来は、1221年、但馬(豊岡市高屋)に雅成親王(後鳥羽上皇第四皇子)が、承久の乱に連座して流刑となり、その後を追って、雅成親王の妻、幸姫が京の都からやってきました。
その時、幸姫は懐妊の身で急に産気づき、この松岡の近くで王子を生み落としましたと伝承されます。
しかし、産後の肥立ちが悪く、一刻も早く親王のところまで行きたいと、ある老婆に「高屋(雅成親王御在所)まであと何日かかりますか?」とたずねたところ、老婆は意地悪く「高屋まで九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で(九日市・豊岡・一日市は地名です)、合わせて20日はかかる」と答えました。
これを聞いた幸姫は、「3日歩けば気力が尽きてしまうほどなのに、これ以上到底生きる望みがありません。」と、王子を残し円山川に身を投げてしまいました。
実際には松岡~高屋までは10キロ足らず、半日も有れば充分な距離です。
更に身を投げた円山川の水運を使えば2時間も有れば当時でも行けそうです。
その後、毎年洪水が起き、村人を苦しめたため、 人々は幸姫様のたたりと、嘘をついた老婆を引きずり出し、火あぶりにして焼き殺し、幸姫様の御霊を産土神とし、十二所神社に祀りました。
その霊を祀ったのが祭の始まりと伝えられています。
竹と藁で鉢型の土台を作り、その上部に「御柱松(おたいまつ)」を立て、老婆に見立てた藁人形をくくりつけ、焼き捨てるという奇祭です。
いくら罪を犯した?といっても、おばあさんを800年にわたって焼いているなんて、恐ろしい祭りだと思われませんか?。
小さな子供達も見学にきていましたが、松岡の皆さんは、子供達にどんなお話を語っておられるのか?気になりましたが、火祭りということで、「婆」「厄」を表し、「厄を払い、地域を清める民俗行事」つまりは「虫送り」と一体化しているように思えます。
日本人は、「死者に罪なし」の精神性を持ち合わせていますから、婆の罪を攻め続けるのではなく、自然に対する畏怖の気持ちが、800年以上にわたり長くこの奇祭を存続させているのではないでしょうか?
ほんの一時間程ですが、中々面白い?お祭りを観ることが出来ました。
次回幸姫の墓所についても少しお話をさせて頂きます。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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4月14日に毎年行われるこの奇祭は、承久の乱にまつわる、悲しい物語の語り部です。
先ず、祭の模様を御覧いただきましょう。
【婆々焼祭り概要】
松岡の御柱祭(婆々焼祭り)豊岡市日高町松岡で行われる。
市指定無形民俗文化財。
十二所神社前の円山川河川敷(台風で河川敷が削られて、私が子供の頃と場所が少しずれているような気がします。)で夕刻、老婆に見立てた藁(わら)人形を焼きます。
祭りの由来は、1221年、但馬(豊岡市高屋)に雅成親王(後鳥羽上皇第四皇子)が、承久の乱に連座して流刑となり、その後を追って、雅成親王の妻、幸姫が京の都からやってきました。
その時、幸姫は懐妊の身で急に産気づき、この松岡の近くで王子を生み落としましたと伝承されます。
しかし、産後の肥立ちが悪く、一刻も早く親王のところまで行きたいと、ある老婆に「高屋(雅成親王御在所)まであと何日かかりますか?」とたずねたところ、老婆は意地悪く「高屋まで九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で(九日市・豊岡・一日市は地名です)、合わせて20日はかかる」と答えました。
これを聞いた幸姫は、「3日歩けば気力が尽きてしまうほどなのに、これ以上到底生きる望みがありません。」と、王子を残し円山川に身を投げてしまいました。
実際には松岡~高屋までは10キロ足らず、半日も有れば充分な距離です。
更に身を投げた円山川の水運を使えば2時間も有れば当時でも行けそうです。
その後、毎年洪水が起き、村人を苦しめたため、 人々は幸姫様のたたりと、嘘をついた老婆を引きずり出し、火あぶりにして焼き殺し、幸姫様の御霊を産土神とし、十二所神社に祀りました。
その霊を祀ったのが祭の始まりと伝えられています。
竹と藁で鉢型の土台を作り、その上部に「御柱松(おたいまつ)」を立て、老婆に見立てた藁人形をくくりつけ、焼き捨てるという奇祭です。
いくら罪を犯した?といっても、おばあさんを800年にわたって焼いているなんて、恐ろしい祭りだと思われませんか?。
小さな子供達も見学にきていましたが、松岡の皆さんは、子供達にどんなお話を語っておられるのか?気になりましたが、火祭りということで、「婆」「厄」を表し、「厄を払い、地域を清める民俗行事」つまりは「虫送り」と一体化しているように思えます。
日本人は、「死者に罪なし」の精神性を持ち合わせていますから、婆の罪を攻め続けるのではなく、自然に対する畏怖の気持ちが、800年以上にわたり長くこの奇祭を存続させているのではないでしょうか?
ほんの一時間程ですが、中々面白い?お祭りを観ることが出来ました。
次回幸姫の墓所についても少しお話をさせて頂きます。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
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コメント
No title
> 台風で河川敷が削られて、
数年前の23号ですかね…あれは酷かった…
水没した盆地、立て掛けられた畳、
砂埃で前が見えない道路、今でも覚えています。
あのワールドカップ(パチ屋)が
リアルに進水式しちゃいましたからね(苦笑)
ちなみに実家の付近では、家の前にある溝に
オオサンショウウオが数百匹打ち上げられるという
異様な光景が広がってたんですよ・・・:
さて、本題の「婆々焼き祭り」ですが、
お婆さんの性悪っぷりがも・・・(苦笑)
こういった行事は題材が残酷だったりしますけど、
それが現代に残っているのは素晴らしい文化だと思います。
この行事も決してメジャーな行事ではありませんが
こういったコアな行事こそ後世に残したいですよね!
> 「厄を払い、地域を清める民俗行事」
だからこそ今まで続いてきたというか、
この考察は的を射ているように感じました。
2016-04-20 03:49 taka :a URL 編集
Re: No title
そうそう台風23号!私の実家も妻の実家も被害は受けませんでした。
しかしながら、但馬全体では甚大な被害が起きました。
同級生の中には実家が使えなくなり、もう但馬には帰られない友人もいます。
但馬は今では、人口も少なく過疎化も進み、さみしい?地域になっていますが、
神社の数は、全国(旧国)五位の多さなんですよ、
それだけ古い文化が残っているということですね。
但馬が全行的にもっとメジャーになる日を夢見ているのですが(笑)
2016-04-21 05:06 市良右衛門 URL 編集
こわーい
こわーい。でもこの感じがまた、古くからのお祭りならではの味わいですね。
わら人形には心底びびりましたが。
但馬地域は深く知れば知るほど面白いですね。
2016-04-21 19:45 つねまる URL 編集
Re: こわーい
但馬は古い文化と自然に恵まれた本当に良い地域です。
神社の数でもほかの旧国に負けておりませんし、
兵庫県は古墳の数でも全国一位ですが、
まだまだ発掘されていない古墳も私が知る限りでも、数多くあります。
これからも、但馬をよろしくお願いいたします。
(お前ごときが何を偉そうになんですが、笑)
2016-04-24 07:27 市良右衛門 URL 編集