禁断の近代史へ『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』を読んで!
以前からお話していますように、右寄りの考え方を持っている私(だからと言って、戦争肯定論者でも戦前の大陸侵攻が正しかったとも考えておりません。)は、公平な歴史ブログの観点から、議論を呼ぶと思われる近代史(第二次世界大戦前後)を避けてきました。
天皇皇后両陛下が慰霊された事で、戦闘方法方針の転換期と成ったぺリリュー島には、興味を持っていましたが、今回書店で、日本軍兵卒の視点からペリリューの『徹底持久』戦を描いたコミック『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』という、漫画本が目に留まり読んでみたところ、片寄りのない事実に近い物語の中で、いかに戦争が恐ろしく、繰り返してはいけない事であり、私の子どもの様な若い青年が、地獄の戦闘にさらされて何を見たのか、等の観点から心を打つものが有りましたので、是非ともご紹介したいと思いタブーを、一時的に解禁することにしました。ペリリュー島の戦いを知らない若い人達に是非とも読んで頂きたいと思います。
それでは、『市郎右衛門』の自分史ブログ(笑)をお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【ペリリュー島の戦いとは】
ペリリューの戦い(英: Battle of Peleliu)は、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から11月27日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘のことです。アメリカ側の作戦名は『ステールメイトII作戦(Operation Stalemate II、stalemateは「膠着」の意味)』。
1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島が陥落し、絶対国防圏が破られた日本は、疲弊した戦力を回復し、日本本土の防備を固めるために、時間を稼がねばなりませんでした。そのため、援軍の見込みのない太平洋の島々では、守備隊が強力な陣地を築き、長期にわたって徹底抗戦する戦術に変化していきました。
戦争:太平洋戦争(大東亜戦争)
年月日:1944年9月15日~11月27日
場所:パラオ諸島 ペリリュー島
結果:アメリカ軍の勝利
大日本帝国指揮官 中川州男
アメリカ合衆国指導者 ウィリアム・リュパータス、ポール・ミュラー
『戦力』
「大日本帝国」
歩兵第2連隊
歩兵第15連隊2個大隊
など10,900 (内軍属3,000~)
戦車17輌
稼働航空機少数
「アメリカ合衆国」
47,561(他海軍も含めると54,000)
戦車117輌
航空機1800機
『損害』
「大日本帝国」
戦死 10,695
捕虜 202
生存34
「アメリカ合衆国」
戦死2,336
戦傷8,450
戦病者2500以上
ペリリューはこれまで行われていた、「万歳突撃」を廃止し、最後の一兵卒までが徹底交戦するという、消耗戦を日本軍が最初に採用したことで知られています。要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術はアメリカ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになります。 ペリリュー戦は第1海兵師団(海兵隊最大最強部隊)が壊滅した唯一の戦いでもあります。
【背景日本側の事情】
パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていました。日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出しています。道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引くなどの、ライフラインも整備しています。
南洋興発などの企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達でした。
国際連盟規約に基づく委任統治領の軍備制限により、パラオへ要塞など軍事的な根拠地を構築することは禁止されて、パラオ本島(バベルダオブ島)に民生用として小規模な飛行場があるだけでしたが、国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められます。1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には1200m滑走路2本が交差して上空からは誘導路含め 4 の字に見える飛行場が完成します。 そしてペリリュー島の300m北隣のカドブス島にも滑走路1本が造られ、両島の間には長い桟橋が伸びていて橋として渡ることができました(戦闘の破壊から免れたコンクリート製橋脚の一部が2010年現在でも遺されています。)。1943年9月30日絶対国防圏の設定、10月11日付「作戦航空基地ニ関スル陸海軍中央協定」により、防衛体制の整備が進められていったのでした。
内南洋での日本海軍根拠地に対してアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラックを、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させます。3月31日古賀峯一連合艦隊司令長官は連合艦隊司令部をミンダナオ島ダバオへ移そうとして海軍乙事件が起きてしまいます。海軍乙事件とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件です。事件の際に、日本軍の最重要軍事機密文書がアメリカ軍に渡ってしまっています。
中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワ、マーシャル、トラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがありました。大本営はその状況から、アメリカ軍はパラオ経由でフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、アメリカ軍へ反撃を加える構想を練り上げていました。
ニミッツ軍とマッカーサー軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとします。しかし海軍乙事件での連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定に変わり、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部の三角地帯の内側に有るパラオは、グアムやサイパンの後方支援基地としても、パラオは当時の日本軍にとって戦略的価値が急浮上していました。
日本陸軍は絶対国防圏を守るため、中部太平洋方面防衛の第31軍の作戦地域にパラオを含め、関東軍最強と呼ばれてマリアナ諸島への配備を予定していた第14師団(照兵団)を1944年4月に東松5号船団によってパラオへ派遣しました。
第14師団麾下の水戸歩兵第2連隊が中核となってペリリュー島の守備に当たらせ、パラオ本島とマラカル島には状況に応じて機動的に運用できる予備兵力として高崎歩兵第15連隊を基幹とした兵力を配置しています。彼らは大本営よりアメリカ軍の戦法についての情報伝達を受け、水際の環礁内の浅瀬に乱杭を打ち、上陸用舟艇の通路となりそうな水際には敵が上陸寸前に敷設できるよう機雷を配備して兵士を訓練し、サンゴ礁で出来ていてコンクリート並に硬い地質を利用して500以上に及ぶといわれる洞窟には坑道を縦横に掘り回して要塞化するなど、持久戦に備えた強固な陣地を築きアメリカ軍の上陸に備えました。
日本海軍も、西カロリンにアメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬頃に進攻してくると予想して、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、ペリリュー島飛行場にも第61航空戦隊の、零式艦上戦闘機(第263海軍航空隊と第343海軍航空隊)、月光(第321海軍航空隊)、彗星(第121海軍航空隊と第523海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(第761海軍航空隊)が分遣されています。
アメリカ軍の動きは速く、6月11日マリアナへ来襲、6月15日サイパン島に上陸しています。日本海軍は敗戦を重ね、この時点でパラオ防衛の戦略的価値は、単にアメリカ軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていた。
【アメリカ側の事情】
太平洋方面のアメリカ軍首脳部は、マリアナ攻略戦の最中に今後の進撃ルートの再検討を始めた。アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督は「マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖とアメリカ陸軍航空軍による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」のを目指していた。アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将は「ニューギニア西方に位置するモルッカ諸島のモロタイ島からフィリピンのミンダナオ島、レイテ島を経由して、日本本土侵攻」をも視野に入れていた。するとアーネスト・キング海軍作戦部長が「南方資源地帯と日本本土の間のシーレーンを遮断し、フィリピンは迂回して台湾に上陸、中国大陸沿岸部の到達を目指すべきで、最終的に日本本土を攻略」と主張し陸海軍の混乱は収拾がつかなくなっています。
結局フランクリン・ルーズベルト大統領の指示によりアメリカ統合参謀本部がフィリピン侵攻に至る作戦計画を作成して、混乱は収拾されました。計画では「1944年9月15日マッカーサーの陸軍主体の連合国南西太平洋方面軍が担当するモロタイ島攻略実施。海軍主体の連合国中部太平洋方面軍が担当して同日パラオのペリリュー島とアンガウル島、10月5日ウルシー環礁の攻略実施。11月15日ミンダナオ島へ、12月20日レイテ島へ上陸」という予定で、9月11日の第2回ケベック会談でイギリスのウィンストン・チャーチル首相に対して発表されます。
パラオ侵攻についてウィリアム・ハルゼー中将は「ペリリュー攻略はタラワの戦いのように多大な損害を強いられるだろうし、アメリカ機動部隊の空襲でパラオの日本軍飛行場と航空戦力はもはや脅威ではないからパラオは迂回すべきである」と正確に情勢判断しており、艦隊泊地として利用価値のあるウルシー攻略を優先するようニミッツへ意見具申していましたが、ニミッツはマッカーサーの陸軍と張り合う立場上から「ミンダナオ島から800kmしか離れていないパラオから日本軍が、アメリカ軍のフィリピン攻略部隊へ航空攻撃を仕掛けてくる懸念がある。」「フィリピン進行への航空作戦の拠点ともなる前進基地を確保する。」という理由づけで、パラオ攻略作戦を計画して実行に移すこととなります。 それは海軍の肩を持つルーズベルトの指示で練られ、イギリスなど同盟国にも説明済で準備も進められているパラオ侵攻計画を覆すことにもなるハルゼーの意見が到底受け入れられる筈も無かったのです。
ペリリュー島の上陸部隊は、ガダルカナル島の戦いによりアメリカ軍最強とうたわれ、ニューブリテン島西部でのグロスター岬の戦いも経験し、日本軍相手に敵前上陸とそれに続く激しい攻防戦での戦訓を得ていて、強大化され士気も旺盛な第1海兵師団が担当することとなります。師団長ウィリアム・リュパータス海兵少将は、ガダルカナル戦当時は准将で同師団の副師団長としてツラギ上陸部隊を指揮し、その後のニューブリテン島では師団長として戦闘を経験した強者でした。
【戦力比較】
『日本軍』
「陸軍」
総員 約10,500名
第14師団歩兵第2連隊(連隊長:中川州男 大佐)
第14師団派遣参謀:村井權治郎少将海軍
「海軍」
西カロリン航空隊司令:大谷龍蔵大佐
「朝鮮人労働者」
3000人(当時は日本人)
「日本側装備」
小銃5,066挺
九六式軽機関銃200挺
九二式重機関銃58挺
九七式中迫撃砲(長)ほか火砲約200門
九五式軽戦車17両
『アメリカ軍』
総員 48,740名
第1海兵師団 24,234名
第81歩兵師団 19,741名
付属海軍部隊 4,765名
「アメリカ側装備」
小銃、自動小銃41,346挺
機関銃1,434挺
拳銃3,399挺
火砲729門
戦車117両
バズーカ砲180基
戦艦5隻(ペンシルバニア、メリーランド、ミシシッピ、テネシー、アイダホ)
重巡洋艦5隻(インディアナポリス、ルイビル、ミネアポリス、ポートランド)
軽巡洋艦4隻(クリーブランド、デンバー、ホノルル)
駆逐艦14隻
日本側の朝鮮人労働者数(軍属)を兵数としてカウントするべきか否かは議論の余地があるが、実質的に日本軍の兵力はアメリカ軍の6分の1以下だったと言える。また戦力差については航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃等を考慮するとアメリカ側が少なくとも数十~数百倍の火力で日本軍を圧倒しています。
【戦闘経過】
戦闘経過については長くなりますので、簡単に説明させてください(本を読んでいただけるとよくわかります)。日本軍約1万名が玉砕、米軍の死傷率も史上最も高く「忘れられた戦場」と呼ばれるパラオ諸島・ペリリュー島。「こんな島、3日もあれば占領できる」と豪語した米軍を、日本軍は6分の1の兵力で、73日間にわたり釘付けにしました。昭和19年9月、サイパン、テニアン、グアムを攻略した米軍の次の目標はペリリュー島飛行場でした。フィリピン総攻撃態勢を敷く米軍にとって、放置すれば日本軍航空機がフィリピン攻略の邪魔となり、占領すれば飛行基地として使用できる。ペリリュー島の戦いは「東洋一」といわれた飛行場の争奪戦でした。
9月15日早朝、南北9キロ東西3キロの小島にガダルカナル上陸以来、その精強をうたわれたウィリアム・M・ルパータス少将率いる米海兵隊の第1海兵師団2万8000名が上陸を開始。ルパータス少将は「こんな小さな島は3日間もあれば占領できる」と豪語し、2個師団約4万名の海兵、陸軍部隊をつぎ込みました。
迎え撃つのは関東軍最強と呼ばれた第14師団(照兵団)麾下の歩兵水戸第2連隊(連隊長・中川州男大佐)、高崎第15連隊を中心とする守備隊9838名。中川大佐は隆起珊瑚礁の島の至る所にある自然の洞窟を縦横無尽に拡張して要塞化していました。米軍上陸前、3日間にわたるすさまじい艦砲射撃や航空機爆撃にさらされ、豊かなジャングルは消え、辺りは一面、瓦礫の山となりました。
守備隊は、自殺的な突撃である、いわゆる「バンザイ攻撃」を行わず、1発1殺、1人1殺を貫いた。この敢闘に米第1海兵師団は敗北、特に上陸第1陣を担った第1海兵連隊は惨敗し、後方基地に撤退しました。それでも、最後には玉砕必至とみていた中川大佐は、内地にこう連絡していました。
通信断絶の顧慮大となるをもって最後の電報は左記の如く致したく承知相成(あいなり)たし
一 軍旗を完全に処し奉(たてまつ)れり
二 機秘密書類は異狀なく処理せり
右の場合、サクラを連送(サクラサクラ)するにつき報告相成たし
各地で敢闘するも、米艦隊に包囲され、補給路を断たれた守備隊は弾薬も食料も途絶え、11月24日、中川大佐らが自決、電文が打たれました「サクラ、サクラ、サクラ 我が集団の健闘を祈る」。11月27日、米軍が全島を占領し戦闘が終結します。しかし戦死2336名、戦傷者8000名以上を出した米軍に甚大な損害を与えました。3日間で終わるはずの戦いは上陸後、73日間に及んでいます。
守備隊の抗戦は米軍の予想をはるかに上回る敢闘であり、ペリリュー島神社に建立された碑には米太平洋方面艦隊司令長官C・W・ニミッツの言葉も刻まれています。
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
――米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ
ペリリュー島の戦いがあったのは、すでに日本の戦局が悪化していた1944年9月15日からの73日間。日本軍が、それまでの自決覚悟で一斉突入して玉砕する「万歳突撃」をやめ、持久戦で時間稼ぎをするよう方針転換がなされた最初の戦いとなりました。兵士らは塹壕に潜んでゲリラ戦を続け、約1万人が亡くなっています。最後まで戦って生き残った日本兵はわずか34人。米海兵隊の死傷率も、史上最も高い約60%に上っています。その犠牲の多さと過酷さから、ほとんど語られることのない、「忘れられた戦い」と言われていました(私も両陛下の慰霊が行われるまで知ることはありませんでした)。
NHKスペシャルを見たのも、ペリリュー島の戦いを知るきっかけとなりました。
NHKスペシャル 狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~
昨年、NHKがこの戦いを撮影したフィルム113本を米国立公文書館などで見つけ、両軍の元兵士らへのインタビューと併せて、ドキュメンタリー番組として放送した。約13時間の映像は、米軍のカメラマンたちが撮影したもの。銃弾が飛び交う接近戦の状況や、死傷した両軍兵士の姿、さらには当時は最新兵器だった火炎放射器で日本兵が籠もる塹壕を焼き尽くす様子なども、カラー映像で映し出された。この番組『NHKスペシャル 狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~』は、今でもNHKのサイトから見ることができます(視聴料は3日間で216円)。
活字メディアや現在の映像ではなかなか伝わりにくい、戦争のむごたらしさを映し出した映像には慄然とさせられました。双方の軍人の累々とした死体。すでに戦いを放棄している日本兵にも、容赦なく銃弾が撃ち込まれます。放置された日本兵の遺体にハエがむらがる映像が映し出す映像は本当に無残なものです。
恐怖のあまり、精神状態がおかしくなった米兵の姿も映されています。精神が錯乱して大声を上げた兵士が、相手方に居場所を知られてしまわないよう、味方に射殺された、と語る元兵士の証言。手足を縛られ、自軍に殺害されたと見られる日本兵の遺体もありました。「投降は許されなかった」など、そうした制裁があったことを裏付ける日本兵生存者の証言もあります。こうした映像や証言は、どれだけの費用をかけてつくった映画やドラマでも、とうてい伝えきれないほどの衝撃力を持っています。映像の力と体験者の証言の意味をあらためて感じさせられる番組でした。
【戦いの終わり】
ペリリュー島上陸と同日にマッカーサーが率いる南西太平洋方面軍の陸軍部隊がモロタイ島に上陸し、ニミッツの海軍主体の中部太平洋方面軍との間で張り合う格好でしたが、モロタイ島攻略は米側死傷者44名と軽微な損害だけで簡単に終了します。海兵隊がペリリュー島から交代した頃には、アメリカ軍のフィリピン攻略の中継地点にモロタイ島が利用されており、レイテ沖海戦が行われていて、日米の主要な戦場は既にフィリピンに移っていました。アメリカ海軍のマッカーサーへの対抗上からも、また海兵隊のアメリカ軍部内での存在意義を示す(つまり「敵前強行上陸を行って前進根拠地を確保する戦力である」と証明する)意味からも、早期攻略が為し得なかったことでアメリカ軍にとってのペリリュー攻略は、もう戦略的価値はなくなっていました。
11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐(歩兵第2連隊長)は拳銃で自決。村井権治郎少将(第14師団派遣参謀)、飯田義栄中佐(歩兵第15連隊第2大隊長)が割腹自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われました。 こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついにアメリカ軍はペリリュー島の占領を果たすこととなります。南カロリン諸島の司令官J・W・リーブス少将は「ペリリュー島で、予定を大幅に超過したものの、敵の組織的抵抗を崩壊させて、作戦を成功に導けたことに心からお祝い申し上げる。」と第81歩兵師団(ワイルド・キャット師団)に労いの言葉をかけたが、第1海兵師団リュパータス師団長の「激しいが短い、長くて4日」の作戦は結果として73日もかかったことになりました。
戦闘終了後、ワイルド・キャット師団の兵士が、最後の最後まで激しく抵抗した日本軍の司令部壕に恐る恐る入ると、中川大佐と村井少将の遺体を発見しました。二人の遺体は所持品により確認され、敬意をもって丁重に埋葬されます。ワイルドキャット師団のペリリューの戦闘報告書には「日本軍守備隊は、祖国の為に、全員忠実に戦死せり」と書かれました。ペリリュー守備隊の異例の奮闘に対して昭和天皇から嘉賞(今でいえば佳賞ですが当時天皇陛下からの直接褒められるわけですから、そりゃ士気も上がりますよね。)11度、上級司令部から感状3度が与えられ、中川は死後に2階級特進し陸軍中将となります。
司令部全滅後も他の陣地に籠っていた関口中尉以下50名がアメリカ軍の掃討作戦をかわし遊撃戦を展開しました。1945年1月には関口中尉が戦死し、山口少尉を最高位として34名が生き残っていました。その34名はアメリカ軍の食糧貯蔵庫を襲撃し3年分の食糧を確保すると手製の蛮刀と手榴弾で武装し、アメリカ軍の遺棄物資や手作りの生活用品を用いながら2年近く洞窟内で生きながらえたが、1947年4月22日に澄川道男少将の誘導により米軍へ投降しました(勿論戦争は1945年8月15日敗戦)。この生き残りの34人は後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成しておられるそうです。
【ペリリュー戦は何だったのか?】
アメリカ海兵隊の評価は「日本軍はアメリカ軍に多大な犠牲を負わせる事によって、長期に渡る遅滞・流血戦術を実行する事に成功した。ペリリューで被った多大なコストは、日本に向けて太平洋を進む連合軍に大きな警鐘を鳴らした。海空で圧倒的優勢であり、莫大な量の艦砲射撃やナパーム弾を含む爆撃と4倍(実質6倍)にもなる兵力差であったにも拘わらず、日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器及び小火器の弾薬を要した。この戦いは数か月後には硫黄島と沖縄での、日本軍の見事に指揮された防御戦術に繋がる事となった。」と中川大佐による、アメリカ軍になるべく多くの出血を強い、長い期間ペリリュー島に足止めする作戦が成功し、日本軍の頑強な抵抗が、後の硫黄島戦と沖縄戦の前哨戦となったと評価しています。
アメリカ軍内では日本軍の頑強な抵抗への評価が高い一方で、ペリリュー島攻略のメリットがその莫大な損失に見合うものだったのか?と言う疑問が今日でも投げかけられています。 陸軍第323連隊が無血占領したウルシー環礁が天然の良港で、ペリリュー島より遥かに基地を構築するのに非常に適した島であり、アメリカ海軍はここに巨大な前線基地を構築し、その後の硫黄島戦や沖縄戦での重要な拠点となりました。一方、当初の目的であったフィリピン戦への航空支援基地としての役割についても、ペリリュー島の飛行場が整備されフィリピンへの支援ができるようになったのはダグラス・マッカーサーがレイテ島に上陸してから1ヶ月も経った後の事であり、その時点では大きな戦略的価値を失っています。その為、アメリカ国内においても、ペリリュー戦はほとんど顧みられる事はなく、同時期に行われたフィリピン戦やヨーロッパ戦線のマーケット・ガーデン作戦などのニュースが新聞紙面を飾っていました。第1海兵師団戦史担当者も「激しく戦って、たくさんやられて、見返りが少ない。第一海兵師団ではいつもの事だよ。」と自虐気味に振り返っています。
アメリカ軍高官の中でも第3艦隊のウィリアム・ハルゼー提督が「(パラオの攻略は)あまりに価値に見合わない対価を払わされたと考えている。」と当初からペリリュー島を含むパラオ攻略に反対であった自分の考えは正しかったと主張し、上陸部隊を艦砲射撃で支援したオルデンドルフ少将も「パラオ攻略作戦は疑問の余地なく実施されるべきではなかった。」と辛辣な評価をしています。また、ダグラス・マッカーサー元帥は、ペリリュー攻略が自らのフィリピン攻略作戦の支援になると考え、海兵第1師団の上陸直前に「海兵隊諸君の勝利は、フィリピン上陸作戦の成功をより確固たるものにするはずであり、私は海軍ならびに海兵隊諸君らの作戦に全幅の信頼を置くものである。」と録音にて全軍に演説した程に作戦当初は入れ込んでいたが、戦後に「中部太平洋ではそれほど運がよくなく、パラオ諸島攻略に8,000名以上の死傷者を出した。」と他人事のように振り返っています。
一方でステールメイトII作戦の最高責任者であった太平洋方面軍司令チェスター・ニミッツ元帥は「(ペリリュー島の利便が)2,000名の戦死者を含む10,000名のアメリカ軍死傷者に見合うものであったかどうかについては疑問の余地があるかも知れないが、一方、パラオが日本軍の手に完全に残された場合、マッカーサーのフィリピン進撃に対して真の脅威になったであろうことには疑問の余地はない。」とその意義を強調しています。
ペリリュー戦で実際に戦った兵士の感想として、負傷したトム・ボイル二等兵は、ペリリュー戦の意義を戦後50年近く経ってから「人生締めくくりの今に振り返ってみるとそれなりに貴重な体験だった。でも惨めな体験でもあった。でも、あまり誰にでも勧められるものではないよ。なぜなら生き残る事が難しいからね」と回想しています。
【損害編集】
『日本軍』
戦死者 10,695名
捕虜 202名
最後まで戦って生き残った者34名
『アメリカ軍』
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
この他に戦病になった者が数千名いた(第81歩兵師団だけで2,500名以上はいる第1海兵師団も含めると5,000以上居るという説があります)
『一般人民』
陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされます。差別を助長し日本軍を美化する気持ちではありませんが、太平洋戦争で初めて非戦闘員である現地の住民を他の島に避難させて、一般人の死者を一人も出さなかった稀有な戦いでもあります。優しい日本軍の兵隊になついた地元の人達が一緒に残って戦う、と願い出た人々もいたようですが、「貴様ら土人と一緒に戦えるか!」と守備隊長中川大佐が一喝し、島民全員を船に乗せ退去させています。その際最後まで手を振っていたのは、中川大佐ご本人だったそうです。
戦果だけで判断すると、死傷者の合計で互角日本軍がいかに善戦したか分かります。参考になるか疑問ですが、数学的解析方法があります。「ランチェスターの法則」と呼ばれるものです。ペリリュー戦の後に同じく徹底抗戦が行われた硫黄島を解析した数値があります。
J.H.エンゲルE1954は、戦争における戦死者数を数理モデルにもとづいて記述したランチェスターの二次法則に従って、硫黄島の戦いの戦死者数を解析し、実データと比較しています。この結果、実際の死傷者の時間変化を表すグラフと理論から導かれる死傷者数のグラフがわずかな誤差で一致する事を確認できます。
硫黄島の戦いにおいては、日本兵1人の戦闘能力と米兵の1人戦闘能力の比を表す交換比Eをこのモデルに従って計算して見ると以下の値を得ることが出来ます、日本軍は不利な状況下にありながらも5倍もの交換比で善戦した事が分かる数値です。つまり日本軍人の戦闘力はアメリカ軍人の五倍となります。
E = 5.132
【『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』について】
戦争漫画にも関わらず、キャラクターがかわいらしいぶん、現地の過酷さや当時の状況が不思議とリアルに伝わってくるような気がしました。漫画家の武田さんがしっかりと取材されているので是非ペリリュー戦争の現実を知ってもらいたいです。ゲルニカはチョコレートの唐辛子の時にも少しだけ説明しましたが、スペインのバスク地方の都市です。ピカソの「ゲルニカ」でも有名ですね。スペイン内戦中の1937年4月26日には、フランシスコ・フランコらの反乱軍による北方作戦の一環としてゲルニカ爆撃が行われました。同軍のエミリオ・モラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、ドイツ空軍遠征隊であるコンドル軍団の爆撃隊がその支援として空襲を行っています(その悲劇を描いたのがピカソの「ゲルニカ」です)。
戦後70年を超え、当事者の直接体験を聞くことが難しくなる中で、私たちよりもさらに下の若い世代に伝えていくことはさらに難しいと思います。そのために、しっかりと事実を知って、生存者の話を聞くということを丹念にやっておられるからこそリアルに感じられる漫画なのだと思います。
【最後に一言】
まず、私の力では近代史を取り上げるのはやはりやめた方が良いと考えました。まだ無理です。
ペリリュー島戦はほぼ決着がつき、太平洋戦争全体状況を考えてもにアメリカ軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていました(これも飛行場が使用できるという状況下です。)。しかし、戦闘がやむことはありませんでした。米軍による殺戮は続き、日本兵は投降も玉砕も許されず、最後まで抗戦を余儀なくされました。両軍の兵士は何のために、最後まで闘ったのでしょう。ペリリュー島での死は、何の意味があったのでしょうか。
特攻隊員を題材にした「永遠の0」小説が大ヒットし、映画にもなりました。作品自体は、何も戦争を賛美するために作られたわけではありません。また、知覧特攻平和記念会館や靖国神社遊就館などに展示された、死を前にした兵士が家族に宛てた手紙などは、見るたびに心打たれずにはいられません。当然その死になんらかの意味を与えなければという気持ちにさせられます。しかし私たちは、「悲しくも美しい物語」や「崇高な自己犠牲の物語」だけでなく、人々の意味のない死を強いた「無残な現実」も、もっと継承していかないといけないのではないでしょか。
そのためには、とても心苦しいことではあるけれど、戦争での死について、もう一度考え直すべきだと思います。戦争によって、人々は狂気に駆り立てられ、意味のない死へと追い立てられました。その究極の姿が、ペリリュー島の戦いだと思います。そこでの死の無意味さを直視し、戦争とは何かを考えることによって初めて、彼らの死にも本当の意味が出てくるのではないかと考えるのです。
歴史って本当にこわいですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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天皇皇后両陛下が慰霊された事で、戦闘方法方針の転換期と成ったぺリリュー島には、興味を持っていましたが、今回書店で、日本軍兵卒の視点からペリリューの『徹底持久』戦を描いたコミック『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』という、漫画本が目に留まり読んでみたところ、片寄りのない事実に近い物語の中で、いかに戦争が恐ろしく、繰り返してはいけない事であり、私の子どもの様な若い青年が、地獄の戦闘にさらされて何を見たのか、等の観点から心を打つものが有りましたので、是非ともご紹介したいと思いタブーを、一時的に解禁することにしました。ペリリュー島の戦いを知らない若い人達に是非とも読んで頂きたいと思います。
それでは、『市郎右衛門』の自分史ブログ(笑)をお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




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【ペリリュー島の戦いとは】
ペリリューの戦い(英: Battle of Peleliu)は、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から11月27日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘のことです。アメリカ側の作戦名は『ステールメイトII作戦(Operation Stalemate II、stalemateは「膠着」の意味)』。
1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島が陥落し、絶対国防圏が破られた日本は、疲弊した戦力を回復し、日本本土の防備を固めるために、時間を稼がねばなりませんでした。そのため、援軍の見込みのない太平洋の島々では、守備隊が強力な陣地を築き、長期にわたって徹底抗戦する戦術に変化していきました。
戦争:太平洋戦争(大東亜戦争)
年月日:1944年9月15日~11月27日
場所:パラオ諸島 ペリリュー島
結果:アメリカ軍の勝利
大日本帝国指揮官 中川州男
アメリカ合衆国指導者 ウィリアム・リュパータス、ポール・ミュラー
『戦力』
「大日本帝国」
歩兵第2連隊
歩兵第15連隊2個大隊
など10,900 (内軍属3,000~)
戦車17輌
稼働航空機少数
「アメリカ合衆国」
47,561(他海軍も含めると54,000)
戦車117輌
航空機1800機
『損害』
「大日本帝国」
戦死 10,695
捕虜 202
生存34
「アメリカ合衆国」
戦死2,336
戦傷8,450
戦病者2500以上
ペリリューはこれまで行われていた、「万歳突撃」を廃止し、最後の一兵卒までが徹底交戦するという、消耗戦を日本軍が最初に採用したことで知られています。要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術はアメリカ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになります。 ペリリュー戦は第1海兵師団(海兵隊最大最強部隊)が壊滅した唯一の戦いでもあります。
【背景日本側の事情】
パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていました。日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出しています。道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引くなどの、ライフラインも整備しています。
南洋興発などの企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達でした。
国際連盟規約に基づく委任統治領の軍備制限により、パラオへ要塞など軍事的な根拠地を構築することは禁止されて、パラオ本島(バベルダオブ島)に民生用として小規模な飛行場があるだけでしたが、国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められます。1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には1200m滑走路2本が交差して上空からは誘導路含め 4 の字に見える飛行場が完成します。 そしてペリリュー島の300m北隣のカドブス島にも滑走路1本が造られ、両島の間には長い桟橋が伸びていて橋として渡ることができました(戦闘の破壊から免れたコンクリート製橋脚の一部が2010年現在でも遺されています。)。1943年9月30日絶対国防圏の設定、10月11日付「作戦航空基地ニ関スル陸海軍中央協定」により、防衛体制の整備が進められていったのでした。
内南洋での日本海軍根拠地に対してアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラックを、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させます。3月31日古賀峯一連合艦隊司令長官は連合艦隊司令部をミンダナオ島ダバオへ移そうとして海軍乙事件が起きてしまいます。海軍乙事件とは、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件です。事件の際に、日本軍の最重要軍事機密文書がアメリカ軍に渡ってしまっています。
中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワ、マーシャル、トラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがありました。大本営はその状況から、アメリカ軍はパラオ経由でフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、アメリカ軍へ反撃を加える構想を練り上げていました。
ニミッツ軍とマッカーサー軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとします。しかし海軍乙事件での連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定に変わり、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部の三角地帯の内側に有るパラオは、グアムやサイパンの後方支援基地としても、パラオは当時の日本軍にとって戦略的価値が急浮上していました。
日本陸軍は絶対国防圏を守るため、中部太平洋方面防衛の第31軍の作戦地域にパラオを含め、関東軍最強と呼ばれてマリアナ諸島への配備を予定していた第14師団(照兵団)を1944年4月に東松5号船団によってパラオへ派遣しました。
第14師団麾下の水戸歩兵第2連隊が中核となってペリリュー島の守備に当たらせ、パラオ本島とマラカル島には状況に応じて機動的に運用できる予備兵力として高崎歩兵第15連隊を基幹とした兵力を配置しています。彼らは大本営よりアメリカ軍の戦法についての情報伝達を受け、水際の環礁内の浅瀬に乱杭を打ち、上陸用舟艇の通路となりそうな水際には敵が上陸寸前に敷設できるよう機雷を配備して兵士を訓練し、サンゴ礁で出来ていてコンクリート並に硬い地質を利用して500以上に及ぶといわれる洞窟には坑道を縦横に掘り回して要塞化するなど、持久戦に備えた強固な陣地を築きアメリカ軍の上陸に備えました。
日本海軍も、西カロリンにアメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬頃に進攻してくると予想して、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、ペリリュー島飛行場にも第61航空戦隊の、零式艦上戦闘機(第263海軍航空隊と第343海軍航空隊)、月光(第321海軍航空隊)、彗星(第121海軍航空隊と第523海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(第761海軍航空隊)が分遣されています。
アメリカ軍の動きは速く、6月11日マリアナへ来襲、6月15日サイパン島に上陸しています。日本海軍は敗戦を重ね、この時点でパラオ防衛の戦略的価値は、単にアメリカ軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていた。
【アメリカ側の事情】
太平洋方面のアメリカ軍首脳部は、マリアナ攻略戦の最中に今後の進撃ルートの再検討を始めた。アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督は「マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖とアメリカ陸軍航空軍による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」のを目指していた。アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将は「ニューギニア西方に位置するモルッカ諸島のモロタイ島からフィリピンのミンダナオ島、レイテ島を経由して、日本本土侵攻」をも視野に入れていた。するとアーネスト・キング海軍作戦部長が「南方資源地帯と日本本土の間のシーレーンを遮断し、フィリピンは迂回して台湾に上陸、中国大陸沿岸部の到達を目指すべきで、最終的に日本本土を攻略」と主張し陸海軍の混乱は収拾がつかなくなっています。
結局フランクリン・ルーズベルト大統領の指示によりアメリカ統合参謀本部がフィリピン侵攻に至る作戦計画を作成して、混乱は収拾されました。計画では「1944年9月15日マッカーサーの陸軍主体の連合国南西太平洋方面軍が担当するモロタイ島攻略実施。海軍主体の連合国中部太平洋方面軍が担当して同日パラオのペリリュー島とアンガウル島、10月5日ウルシー環礁の攻略実施。11月15日ミンダナオ島へ、12月20日レイテ島へ上陸」という予定で、9月11日の第2回ケベック会談でイギリスのウィンストン・チャーチル首相に対して発表されます。
パラオ侵攻についてウィリアム・ハルゼー中将は「ペリリュー攻略はタラワの戦いのように多大な損害を強いられるだろうし、アメリカ機動部隊の空襲でパラオの日本軍飛行場と航空戦力はもはや脅威ではないからパラオは迂回すべきである」と正確に情勢判断しており、艦隊泊地として利用価値のあるウルシー攻略を優先するようニミッツへ意見具申していましたが、ニミッツはマッカーサーの陸軍と張り合う立場上から「ミンダナオ島から800kmしか離れていないパラオから日本軍が、アメリカ軍のフィリピン攻略部隊へ航空攻撃を仕掛けてくる懸念がある。」「フィリピン進行への航空作戦の拠点ともなる前進基地を確保する。」という理由づけで、パラオ攻略作戦を計画して実行に移すこととなります。 それは海軍の肩を持つルーズベルトの指示で練られ、イギリスなど同盟国にも説明済で準備も進められているパラオ侵攻計画を覆すことにもなるハルゼーの意見が到底受け入れられる筈も無かったのです。
ペリリュー島の上陸部隊は、ガダルカナル島の戦いによりアメリカ軍最強とうたわれ、ニューブリテン島西部でのグロスター岬の戦いも経験し、日本軍相手に敵前上陸とそれに続く激しい攻防戦での戦訓を得ていて、強大化され士気も旺盛な第1海兵師団が担当することとなります。師団長ウィリアム・リュパータス海兵少将は、ガダルカナル戦当時は准将で同師団の副師団長としてツラギ上陸部隊を指揮し、その後のニューブリテン島では師団長として戦闘を経験した強者でした。
【戦力比較】
『日本軍』
「陸軍」
総員 約10,500名
第14師団歩兵第2連隊(連隊長:中川州男 大佐)
第14師団派遣参謀:村井權治郎少将海軍
「海軍」
西カロリン航空隊司令:大谷龍蔵大佐
「朝鮮人労働者」
3000人(当時は日本人)
「日本側装備」
小銃5,066挺
九六式軽機関銃200挺
九二式重機関銃58挺
九七式中迫撃砲(長)ほか火砲約200門
九五式軽戦車17両
『アメリカ軍』
総員 48,740名
第1海兵師団 24,234名
第81歩兵師団 19,741名
付属海軍部隊 4,765名
「アメリカ側装備」
小銃、自動小銃41,346挺
機関銃1,434挺
拳銃3,399挺
火砲729門
戦車117両
バズーカ砲180基
戦艦5隻(ペンシルバニア、メリーランド、ミシシッピ、テネシー、アイダホ)
重巡洋艦5隻(インディアナポリス、ルイビル、ミネアポリス、ポートランド)
軽巡洋艦4隻(クリーブランド、デンバー、ホノルル)
駆逐艦14隻
日本側の朝鮮人労働者数(軍属)を兵数としてカウントするべきか否かは議論の余地があるが、実質的に日本軍の兵力はアメリカ軍の6分の1以下だったと言える。また戦力差については航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃等を考慮するとアメリカ側が少なくとも数十~数百倍の火力で日本軍を圧倒しています。
【戦闘経過】
戦闘経過については長くなりますので、簡単に説明させてください(本を読んでいただけるとよくわかります)。日本軍約1万名が玉砕、米軍の死傷率も史上最も高く「忘れられた戦場」と呼ばれるパラオ諸島・ペリリュー島。「こんな島、3日もあれば占領できる」と豪語した米軍を、日本軍は6分の1の兵力で、73日間にわたり釘付けにしました。昭和19年9月、サイパン、テニアン、グアムを攻略した米軍の次の目標はペリリュー島飛行場でした。フィリピン総攻撃態勢を敷く米軍にとって、放置すれば日本軍航空機がフィリピン攻略の邪魔となり、占領すれば飛行基地として使用できる。ペリリュー島の戦いは「東洋一」といわれた飛行場の争奪戦でした。
9月15日早朝、南北9キロ東西3キロの小島にガダルカナル上陸以来、その精強をうたわれたウィリアム・M・ルパータス少将率いる米海兵隊の第1海兵師団2万8000名が上陸を開始。ルパータス少将は「こんな小さな島は3日間もあれば占領できる」と豪語し、2個師団約4万名の海兵、陸軍部隊をつぎ込みました。
迎え撃つのは関東軍最強と呼ばれた第14師団(照兵団)麾下の歩兵水戸第2連隊(連隊長・中川州男大佐)、高崎第15連隊を中心とする守備隊9838名。中川大佐は隆起珊瑚礁の島の至る所にある自然の洞窟を縦横無尽に拡張して要塞化していました。米軍上陸前、3日間にわたるすさまじい艦砲射撃や航空機爆撃にさらされ、豊かなジャングルは消え、辺りは一面、瓦礫の山となりました。
守備隊は、自殺的な突撃である、いわゆる「バンザイ攻撃」を行わず、1発1殺、1人1殺を貫いた。この敢闘に米第1海兵師団は敗北、特に上陸第1陣を担った第1海兵連隊は惨敗し、後方基地に撤退しました。それでも、最後には玉砕必至とみていた中川大佐は、内地にこう連絡していました。
通信断絶の顧慮大となるをもって最後の電報は左記の如く致したく承知相成(あいなり)たし
一 軍旗を完全に処し奉(たてまつ)れり
二 機秘密書類は異狀なく処理せり
右の場合、サクラを連送(サクラサクラ)するにつき報告相成たし
各地で敢闘するも、米艦隊に包囲され、補給路を断たれた守備隊は弾薬も食料も途絶え、11月24日、中川大佐らが自決、電文が打たれました「サクラ、サクラ、サクラ 我が集団の健闘を祈る」。11月27日、米軍が全島を占領し戦闘が終結します。しかし戦死2336名、戦傷者8000名以上を出した米軍に甚大な損害を与えました。3日間で終わるはずの戦いは上陸後、73日間に及んでいます。
守備隊の抗戦は米軍の予想をはるかに上回る敢闘であり、ペリリュー島神社に建立された碑には米太平洋方面艦隊司令長官C・W・ニミッツの言葉も刻まれています。
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
――米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ
ペリリュー島の戦いがあったのは、すでに日本の戦局が悪化していた1944年9月15日からの73日間。日本軍が、それまでの自決覚悟で一斉突入して玉砕する「万歳突撃」をやめ、持久戦で時間稼ぎをするよう方針転換がなされた最初の戦いとなりました。兵士らは塹壕に潜んでゲリラ戦を続け、約1万人が亡くなっています。最後まで戦って生き残った日本兵はわずか34人。米海兵隊の死傷率も、史上最も高い約60%に上っています。その犠牲の多さと過酷さから、ほとんど語られることのない、「忘れられた戦い」と言われていました(私も両陛下の慰霊が行われるまで知ることはありませんでした)。
NHKスペシャルを見たのも、ペリリュー島の戦いを知るきっかけとなりました。
NHKスペシャル 狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~
昨年、NHKがこの戦いを撮影したフィルム113本を米国立公文書館などで見つけ、両軍の元兵士らへのインタビューと併せて、ドキュメンタリー番組として放送した。約13時間の映像は、米軍のカメラマンたちが撮影したもの。銃弾が飛び交う接近戦の状況や、死傷した両軍兵士の姿、さらには当時は最新兵器だった火炎放射器で日本兵が籠もる塹壕を焼き尽くす様子なども、カラー映像で映し出された。この番組『NHKスペシャル 狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~』は、今でもNHKのサイトから見ることができます(視聴料は3日間で216円)。
活字メディアや現在の映像ではなかなか伝わりにくい、戦争のむごたらしさを映し出した映像には慄然とさせられました。双方の軍人の累々とした死体。すでに戦いを放棄している日本兵にも、容赦なく銃弾が撃ち込まれます。放置された日本兵の遺体にハエがむらがる映像が映し出す映像は本当に無残なものです。
恐怖のあまり、精神状態がおかしくなった米兵の姿も映されています。精神が錯乱して大声を上げた兵士が、相手方に居場所を知られてしまわないよう、味方に射殺された、と語る元兵士の証言。手足を縛られ、自軍に殺害されたと見られる日本兵の遺体もありました。「投降は許されなかった」など、そうした制裁があったことを裏付ける日本兵生存者の証言もあります。こうした映像や証言は、どれだけの費用をかけてつくった映画やドラマでも、とうてい伝えきれないほどの衝撃力を持っています。映像の力と体験者の証言の意味をあらためて感じさせられる番組でした。
【戦いの終わり】
ペリリュー島上陸と同日にマッカーサーが率いる南西太平洋方面軍の陸軍部隊がモロタイ島に上陸し、ニミッツの海軍主体の中部太平洋方面軍との間で張り合う格好でしたが、モロタイ島攻略は米側死傷者44名と軽微な損害だけで簡単に終了します。海兵隊がペリリュー島から交代した頃には、アメリカ軍のフィリピン攻略の中継地点にモロタイ島が利用されており、レイテ沖海戦が行われていて、日米の主要な戦場は既にフィリピンに移っていました。アメリカ海軍のマッカーサーへの対抗上からも、また海兵隊のアメリカ軍部内での存在意義を示す(つまり「敵前強行上陸を行って前進根拠地を確保する戦力である」と証明する)意味からも、早期攻略が為し得なかったことでアメリカ軍にとってのペリリュー攻略は、もう戦略的価値はなくなっていました。
11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐(歩兵第2連隊長)は拳銃で自決。村井権治郎少将(第14師団派遣参謀)、飯田義栄中佐(歩兵第15連隊第2大隊長)が割腹自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われました。 こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついにアメリカ軍はペリリュー島の占領を果たすこととなります。南カロリン諸島の司令官J・W・リーブス少将は「ペリリュー島で、予定を大幅に超過したものの、敵の組織的抵抗を崩壊させて、作戦を成功に導けたことに心からお祝い申し上げる。」と第81歩兵師団(ワイルド・キャット師団)に労いの言葉をかけたが、第1海兵師団リュパータス師団長の「激しいが短い、長くて4日」の作戦は結果として73日もかかったことになりました。
戦闘終了後、ワイルド・キャット師団の兵士が、最後の最後まで激しく抵抗した日本軍の司令部壕に恐る恐る入ると、中川大佐と村井少将の遺体を発見しました。二人の遺体は所持品により確認され、敬意をもって丁重に埋葬されます。ワイルドキャット師団のペリリューの戦闘報告書には「日本軍守備隊は、祖国の為に、全員忠実に戦死せり」と書かれました。ペリリュー守備隊の異例の奮闘に対して昭和天皇から嘉賞(今でいえば佳賞ですが当時天皇陛下からの直接褒められるわけですから、そりゃ士気も上がりますよね。)11度、上級司令部から感状3度が与えられ、中川は死後に2階級特進し陸軍中将となります。
司令部全滅後も他の陣地に籠っていた関口中尉以下50名がアメリカ軍の掃討作戦をかわし遊撃戦を展開しました。1945年1月には関口中尉が戦死し、山口少尉を最高位として34名が生き残っていました。その34名はアメリカ軍の食糧貯蔵庫を襲撃し3年分の食糧を確保すると手製の蛮刀と手榴弾で武装し、アメリカ軍の遺棄物資や手作りの生活用品を用いながら2年近く洞窟内で生きながらえたが、1947年4月22日に澄川道男少将の誘導により米軍へ投降しました(勿論戦争は1945年8月15日敗戦)。この生き残りの34人は後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成しておられるそうです。
【ペリリュー戦は何だったのか?】
アメリカ海兵隊の評価は「日本軍はアメリカ軍に多大な犠牲を負わせる事によって、長期に渡る遅滞・流血戦術を実行する事に成功した。ペリリューで被った多大なコストは、日本に向けて太平洋を進む連合軍に大きな警鐘を鳴らした。海空で圧倒的優勢であり、莫大な量の艦砲射撃やナパーム弾を含む爆撃と4倍(実質6倍)にもなる兵力差であったにも拘わらず、日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器及び小火器の弾薬を要した。この戦いは数か月後には硫黄島と沖縄での、日本軍の見事に指揮された防御戦術に繋がる事となった。」と中川大佐による、アメリカ軍になるべく多くの出血を強い、長い期間ペリリュー島に足止めする作戦が成功し、日本軍の頑強な抵抗が、後の硫黄島戦と沖縄戦の前哨戦となったと評価しています。
アメリカ軍内では日本軍の頑強な抵抗への評価が高い一方で、ペリリュー島攻略のメリットがその莫大な損失に見合うものだったのか?と言う疑問が今日でも投げかけられています。 陸軍第323連隊が無血占領したウルシー環礁が天然の良港で、ペリリュー島より遥かに基地を構築するのに非常に適した島であり、アメリカ海軍はここに巨大な前線基地を構築し、その後の硫黄島戦や沖縄戦での重要な拠点となりました。一方、当初の目的であったフィリピン戦への航空支援基地としての役割についても、ペリリュー島の飛行場が整備されフィリピンへの支援ができるようになったのはダグラス・マッカーサーがレイテ島に上陸してから1ヶ月も経った後の事であり、その時点では大きな戦略的価値を失っています。その為、アメリカ国内においても、ペリリュー戦はほとんど顧みられる事はなく、同時期に行われたフィリピン戦やヨーロッパ戦線のマーケット・ガーデン作戦などのニュースが新聞紙面を飾っていました。第1海兵師団戦史担当者も「激しく戦って、たくさんやられて、見返りが少ない。第一海兵師団ではいつもの事だよ。」と自虐気味に振り返っています。
アメリカ軍高官の中でも第3艦隊のウィリアム・ハルゼー提督が「(パラオの攻略は)あまりに価値に見合わない対価を払わされたと考えている。」と当初からペリリュー島を含むパラオ攻略に反対であった自分の考えは正しかったと主張し、上陸部隊を艦砲射撃で支援したオルデンドルフ少将も「パラオ攻略作戦は疑問の余地なく実施されるべきではなかった。」と辛辣な評価をしています。また、ダグラス・マッカーサー元帥は、ペリリュー攻略が自らのフィリピン攻略作戦の支援になると考え、海兵第1師団の上陸直前に「海兵隊諸君の勝利は、フィリピン上陸作戦の成功をより確固たるものにするはずであり、私は海軍ならびに海兵隊諸君らの作戦に全幅の信頼を置くものである。」と録音にて全軍に演説した程に作戦当初は入れ込んでいたが、戦後に「中部太平洋ではそれほど運がよくなく、パラオ諸島攻略に8,000名以上の死傷者を出した。」と他人事のように振り返っています。
一方でステールメイトII作戦の最高責任者であった太平洋方面軍司令チェスター・ニミッツ元帥は「(ペリリュー島の利便が)2,000名の戦死者を含む10,000名のアメリカ軍死傷者に見合うものであったかどうかについては疑問の余地があるかも知れないが、一方、パラオが日本軍の手に完全に残された場合、マッカーサーのフィリピン進撃に対して真の脅威になったであろうことには疑問の余地はない。」とその意義を強調しています。
ペリリュー戦で実際に戦った兵士の感想として、負傷したトム・ボイル二等兵は、ペリリュー戦の意義を戦後50年近く経ってから「人生締めくくりの今に振り返ってみるとそれなりに貴重な体験だった。でも惨めな体験でもあった。でも、あまり誰にでも勧められるものではないよ。なぜなら生き残る事が難しいからね」と回想しています。
【損害編集】
『日本軍』
戦死者 10,695名
捕虜 202名
最後まで戦って生き残った者34名
『アメリカ軍』
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
この他に戦病になった者が数千名いた(第81歩兵師団だけで2,500名以上はいる第1海兵師団も含めると5,000以上居るという説があります)
『一般人民』
陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされます。差別を助長し日本軍を美化する気持ちではありませんが、太平洋戦争で初めて非戦闘員である現地の住民を他の島に避難させて、一般人の死者を一人も出さなかった稀有な戦いでもあります。優しい日本軍の兵隊になついた地元の人達が一緒に残って戦う、と願い出た人々もいたようですが、「貴様ら土人と一緒に戦えるか!」と守備隊長中川大佐が一喝し、島民全員を船に乗せ退去させています。その際最後まで手を振っていたのは、中川大佐ご本人だったそうです。
戦果だけで判断すると、死傷者の合計で互角日本軍がいかに善戦したか分かります。参考になるか疑問ですが、数学的解析方法があります。「ランチェスターの法則」と呼ばれるものです。ペリリュー戦の後に同じく徹底抗戦が行われた硫黄島を解析した数値があります。
J.H.エンゲルE1954は、戦争における戦死者数を数理モデルにもとづいて記述したランチェスターの二次法則に従って、硫黄島の戦いの戦死者数を解析し、実データと比較しています。この結果、実際の死傷者の時間変化を表すグラフと理論から導かれる死傷者数のグラフがわずかな誤差で一致する事を確認できます。
硫黄島の戦いにおいては、日本兵1人の戦闘能力と米兵の1人戦闘能力の比を表す交換比Eをこのモデルに従って計算して見ると以下の値を得ることが出来ます、日本軍は不利な状況下にありながらも5倍もの交換比で善戦した事が分かる数値です。つまり日本軍人の戦闘力はアメリカ軍人の五倍となります。
E = 5.132
【『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 』について】
戦争漫画にも関わらず、キャラクターがかわいらしいぶん、現地の過酷さや当時の状況が不思議とリアルに伝わってくるような気がしました。漫画家の武田さんがしっかりと取材されているので是非ペリリュー戦争の現実を知ってもらいたいです。ゲルニカはチョコレートの唐辛子の時にも少しだけ説明しましたが、スペインのバスク地方の都市です。ピカソの「ゲルニカ」でも有名ですね。スペイン内戦中の1937年4月26日には、フランシスコ・フランコらの反乱軍による北方作戦の一環としてゲルニカ爆撃が行われました。同軍のエミリオ・モラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、ドイツ空軍遠征隊であるコンドル軍団の爆撃隊がその支援として空襲を行っています(その悲劇を描いたのがピカソの「ゲルニカ」です)。
戦後70年を超え、当事者の直接体験を聞くことが難しくなる中で、私たちよりもさらに下の若い世代に伝えていくことはさらに難しいと思います。そのために、しっかりと事実を知って、生存者の話を聞くということを丹念にやっておられるからこそリアルに感じられる漫画なのだと思います。
【最後に一言】
まず、私の力では近代史を取り上げるのはやはりやめた方が良いと考えました。まだ無理です。
ペリリュー島戦はほぼ決着がつき、太平洋戦争全体状況を考えてもにアメリカ軍のフィリピン侵攻の足がかりに利用されるのを防ぐという意味しかなくなってしまっていました(これも飛行場が使用できるという状況下です。)。しかし、戦闘がやむことはありませんでした。米軍による殺戮は続き、日本兵は投降も玉砕も許されず、最後まで抗戦を余儀なくされました。両軍の兵士は何のために、最後まで闘ったのでしょう。ペリリュー島での死は、何の意味があったのでしょうか。
特攻隊員を題材にした「永遠の0」小説が大ヒットし、映画にもなりました。作品自体は、何も戦争を賛美するために作られたわけではありません。また、知覧特攻平和記念会館や靖国神社遊就館などに展示された、死を前にした兵士が家族に宛てた手紙などは、見るたびに心打たれずにはいられません。当然その死になんらかの意味を与えなければという気持ちにさせられます。しかし私たちは、「悲しくも美しい物語」や「崇高な自己犠牲の物語」だけでなく、人々の意味のない死を強いた「無残な現実」も、もっと継承していかないといけないのではないでしょか。
そのためには、とても心苦しいことではあるけれど、戦争での死について、もう一度考え直すべきだと思います。戦争によって、人々は狂気に駆り立てられ、意味のない死へと追い立てられました。その究極の姿が、ペリリュー島の戦いだと思います。そこでの死の無意味さを直視し、戦争とは何かを考えることによって初めて、彼らの死にも本当の意味が出てくるのではないかと考えるのです。
歴史って本当にこわいですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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