織田家の血脈は残った?「柏原藩陣屋跡」
ほぼ天下を実質手中にしたといっても良い織田信長でしたが、明智光秀の謀叛によってその人生をの幕を閉じることに成ります。信長の死と共に、信長に連なる織田家は次の天下人となった豊臣秀吉や、徳川家康によって没落の一途を辿ります。そんな、織田家においても、したたかに戦国時代や江戸時代を生き抜いた末裔も居るのでご紹介したいと思います。
今日ご紹介するのは、兵庫県丹波市柏原町を支配した柏原藩の織田家です。城下町のゆるやかな坂を上ると、人の背丈ほどの白壁に囲まれた陣屋跡に行きつきます。かつて織田信長の子孫が治めた柏原藩の政庁です。内部に長屋のような空間を備えた国指定文化財「長屋門」をくぐると、檜皮葺きの玄関を持つ「表御殿」が威厳を放ちます。
柏原藩は信長の兄弟信包と、後に信長の次男信雄の子孫が柏原藩主として、転封されています。城は有りませんが柏原藩陣屋が有り、一部が保存されたり再建されたりしています。
【織田家(信秀・信長系列)って?】
「信長公記」によると、織田信長の家系は、尾張守護でもある管領の斯波武衛家の家臣で、応仁の乱における斯波氏の内紛に派生する混乱のため分裂し、それぞれが主家の斯波氏を凌ぎ戦国大名化した家系です。戦国時代において、清洲三奉行(織田信長の家系はこの三奉行の一家に過ぎません。)が仕える清洲織田氏(大和守家)は清洲城を本拠に守護斯波氏を奉じ尾張下4郡を支配下に治めており、もう一つの岩倉織田氏(伊勢守家)は岩倉城を本拠とし尾張上4郡を治めていました。つまり、織田家(信長)は尾張の守護代でもなく、尾張半分の守護代家老三奉行の一つに過ぎない訳です。
天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると、織田家有力家臣の勢力争いとなります。最終的に羽柴秀吉が織田家中をまとめますが、織田家当主とされた織田秀信(織田三法師、織田信忠の嫡男、信長の孫)成長後も政権は織田家に返されることはありませんでした。しかし織田家の本国である岐阜城は返却され美濃の領主とされました。
関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信は改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われています。しかし、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家、旗本、尾張藩や明石藩家老などとして存続しました。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいます。現在でも直系子孫は続いているんです。明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列しました。
フィギュアスケートで有名な織田信成さんも、信長の子孫を自称されていま。。織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)にあたると自称しされています。
【丹波柏原藩史信包流】
織田信長の弟・信包は慶長3年(1598年)6月、伊勢国安濃津から柏原3万6000石に移封されます。これが柏原藩の立藩でした。信包は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、戦後は改易されずに済み(名門の血脈を惜しまれたのか?)、大坂城で豊臣秀頼に仕えました。慶長19年(1614年)、信包は大坂冬の陣直前に死去しています。
その後、信包の孫で第3代藩主・織田信勝の時代に治水工事や新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められましたが、信勝は慶安3年(1650年)5月17日に嗣子が無いまま死去してしまい、ここに柏原藩は廃藩となり、その所領は幕府領(天領)となります。
【丹波柏原藩史信雄流】
元禄8年(1695年)4月14日、信長の次男(三男ともいわれます)、織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことにより、柏原藩が再度?立藩されました。
これは大和宇陀藩2万9000石の藩主であった信休の父・織田信武が元禄7年(1694年)に発狂して家臣の田中五郎兵衛らを殺して自らも自害するという「宇陀崩れ」を起こしたため、処罰としてその子である信休が減移封されることとなったためです。ちなみに宇陀崩れ(うだくずれ)とは、江戸時代に大和国の宇陀松山藩で起こったお家騒動の事です。
宇陀松山藩三代織田長頼の時、弟の長政に福知村ほか8か村3000石を分与した。4代織田信武の代に至り藩の財政は窮乏し、打開策をめぐって重臣が対立します。1694年(元禄7年)、信武は、創業功臣の裔である重臣生駒三左衛門、田中五郎兵衛を討ち果たして自らも自害を遂げました。このため翌年、後継の織田信休は丹波国氷上郡柏原藩2万石に減封のうえ国替となり、宇陀松山藩は廃藩となり終焉しました。
信休は藩財政窮乏の中で藩政の基盤固めに努めましたが、大洪水や旱魃などが相次ぎ、元禄9年(1696年)には年貢軽減を求める愁訴が起こります。その後も柏原藩では藩財政の窮乏化が進み、藩内では要人をはじめとする61人の解雇(リストラ)、藩士の俸禄削減、藩札の発行などの諸改革を断行しましたが効果はなく、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆が起こりました。
第五代藩主・織田信守はこのような中で奢侈(身分不相応に金を費やす事)に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨みました。しかも信守が愛妾の保野を寵愛して政務にまで関与させた結果、藩主の地位をめぐっての争い(秘命騒動や保野騒動)が起こり、藩政は大いに乱れることとなりました。
第六代藩主・織田信古の代には先代の信守のツケに加えて藩札の発行により藩経済が大混乱し、天保4年(1833年)には遂に百姓の怒りが爆発して、打ち壊し騒動が発生しています。このような中で第八代藩主となった織田信敬は、小島省斎と協力して倹約を主とする藩政改革を断行します。そして藩内で文武を奨励し、藩校として又新館を設立しました。
第九代藩主・織田信民は信敬の遺志を受け継いで新たに藩校・崇広館を設立し、小島省斎と共に藩政改革に臨んでいます。現在「柏原藩陣屋跡」は表御殿が残り、お台所等は地表面に表示されています。奥部分は小学校の敷地に組み込まれました。
【織田家の血脈】
織田氏の諸藩では、信雄の系統は柏原藩の他に天童藩が、織田長益(有楽斎)の系統は柳本藩、芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続しています。有楽斎の系統は他に味舌藩、野村藩が存在しましたが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶しています。
【柏原藩歴代藩主】
代・氏名・官位・在職期間・享年・備考の順に記載。
『織田信包流・外様 3万6000石』
①織田信包(おだ のぶかね)
従三位左近衛中将
慶長3年~慶長19年(1598年~1614年)72?
父は織田信秀。織田信長の実弟。
②織田信則(おだ のぶのり)
従四位下刑部大輔
慶長19年~寛永7年(1614年~1630年)31
③織田信勝(おだ のぶかつ)
従五位下上総介
寛永7年~慶安3年(1630年~1650年)28
無継嗣のため改易。
『幕府領(天領)』
慶安3年(1650年)~元禄8年(1695年)
『織田信雄流・外様 2万石』
①織田信休(おだ のぶやす)
従五位下近江守
元禄8年~享保7年(1695年~1722年)45
父は大和宇陀松山藩4代藩主の織田信武。
大和宇陀松山藩から転封。
②織田信朝(おだ のぶとも)
従五位下出雲守
享保7年~元文2年(1722年~1737年)29
③織田信舊(おだ のぶひさ)
従五位下山城守
元文2年~天明3年(1737年~1783年)74
前藩主信朝の実弟。
④織田信憑(おだ のぶより)
従四位下出雲守
天明3年~文政10年(1783年~1827年)91
実父は高家旗本・織田信栄。
宝暦8年(1758年)に前藩主信旧の養子となる。
⑤織田信守(おだ のぶもり)
従五位下山城守
文政10年~文政12年(1827年~1829年)69
⑥織田信古(おだ のぶもと)
従五位下近江守
文政12年~天保13年(1829年~1842年)54
祖父は3代藩主の信旧。実父は織田信應。
⑦織田信貞(おだ のぶさだ)
従五位下出雲守
天保13年~弘化3年(1842年~1846年)44
実父は5代藩主の信守。
⑧織田信敬(おだ のぶのり)
従五位下出雲守
弘化3年~嘉永7年(1846年~1854年)18
実父は肥後宇土藩9代藩主の細川行芬。
⑨織田信民(おだ のぶたみ)
従五位下山城守
嘉永7年~慶応元年(1854年~1865年)26
実父は筑前秋月藩10代藩主の黒田長元。
⑩織田信親(おだ のぶちか)
従五位下出雲守
慶応元年~明治4年(1865年~1871年)77
実父は交代寄合の山崎治正。
【秘命騒動と保野騒動】
織田 信守丹波柏原藩第五代藩主は、第四代藩主織田信憑の長男でした。享和元年(1801年)6月14日、父信憑の嫡子となる。当初、信憑は信應(養父信旧の三男)を養嗣子としていたものの、この年に死去したため長男信守を嫡子としました。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見し、文化12年(1815)12月28日、従五位下山城守に叙任されます。父信憑の官位昇進にともない、世子の地位にありながら叙任しており、特別な待遇であったといえます。
その後、信守は信應の遺児信古の廃嫡を狙い「秘命騒動」を起こします。先々代藩主・信舊は後継者に恵まれず、分家から信憑を養子に迎えたものの、その後に実子信應を授かいます。成長した信應は先代信憑の養嗣子になったものの、藩主に就任する前に病没しました。つまり、信應の遺児・信古は柏原藩織田家の正統な後継者といえました。
しかし、信守は信古を養嗣子に迎えず、実子信貞を後継者にしようと企んだのでした。信古は病気のため嫡子にはできないとして、退隠をさせようとしたようです。文政4年(1821年)3月以降、たびたび信古の出府を延期させており、この頃の出来事と考えられます。結果的には、文政6年(1823年)、家臣九里政敬らの強い反発を受け、信古を婿養子に迎えました。
信守は、文政10年(1827年)10月10日、家督を相続、同12年(1829年)11月18日に隠居し、養子信古に家督を譲りました。信守の暴政に耐えられなくなった家臣団が幕府に藩主の交代を訴え、隠居させられたとも言われています。さらに隠居後、その側室保野による「保野騒動」が起こります。天保10年8月16日、信守は家臣に側室保野を柏原に連れてくるように厳命し、一方で側室保野に柏原に来ないように連絡をするなどして、家中を混乱させる原因を作ったことから、遠慮(「えんりょ」とは、江戸時代の刑罰の一つで、武士・僧侶などに科せられました。基本的に、自宅での籠居「ろうきょ」を命じたものです。)を命じられています。天保11年(1840年)5月10日江戸において死去、享年69。広徳寺に葬られています。
【柏原藩陣屋跡】
柏原陣屋(かいばらじんや)は現在の兵庫県丹波市柏原町(丹波国氷上郡)にあった柏原藩の藩庁の陣屋です。国指定の史跡と成っています。元禄8年(1695年)信長の次男信雄の孫、宇陀松山藩主信休がお家騒動の咎により領地を半減され2万石で移封します。移封より19年経た正徳3年(1713年)幕府より陣屋を築く事が許されました。以後十代にわたり織田氏が治め、明治にいたっています。
長屋門は正徳4年(1714年)に造られた表門で内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫に成っています。文政元年(1818年)御殿が焼失した時も延焼を免れています。創建時から残る唯一のものです。御殿は正徳4年、初代信休により築かれたものでした。文政元年の火災で焼失し、文政3年(1820年)に再建されました。しかし明治維新後に解体され、現在では再建時のおよそ5分の1が現存しているにすぎません。なお、正確な建築年代は判明していませんが、太鼓櫓は大手門にあり、番所や物見櫓の役割も果たしました。明治になってから石田大蔵神社境内に移築されています。
【最後の一言】
八代藩主、織田信敬の実父は肥後宇土藩九代藩主の細川行芬です。九代藩主織田信民の実父は筑前秋月藩十代藩主の黒田長元です。血脈を繋ぐ今の養子とは少し違いが在ると感じます。血より名をとる、江戸時代全国の大名が名前を護るための養子をとっています。我が家の近くでは、三田の九鬼家も血脈は途絶えていたはずですし。謙信公の上杉家も吉良上野介の息子が養子に成っていましたし、私の尊敬する上杉鷹山公も養子でした。大名家は企業と同じです。そこは出来の悪い創業者の息子よりも、能力のある、新社長ですかね~笑。
陣屋敷地は小学校の敷地の一画となっています。第九代藩主・織田信民が作った藩校の名前にちなんで、崇広小学校!「卒業の日に長屋門をくぐる」のが伝統のようです。柏原藩主のように強く大きく伸びろの願いは不変ですね。今年ももうすぐ織田家ゆかりの門から児童が巣立ちます。
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今日ご紹介するのは、兵庫県丹波市柏原町を支配した柏原藩の織田家です。城下町のゆるやかな坂を上ると、人の背丈ほどの白壁に囲まれた陣屋跡に行きつきます。かつて織田信長の子孫が治めた柏原藩の政庁です。内部に長屋のような空間を備えた国指定文化財「長屋門」をくぐると、檜皮葺きの玄関を持つ「表御殿」が威厳を放ちます。
柏原藩は信長の兄弟信包と、後に信長の次男信雄の子孫が柏原藩主として、転封されています。城は有りませんが柏原藩陣屋が有り、一部が保存されたり再建されたりしています。
【織田家(信秀・信長系列)って?】
「信長公記」によると、織田信長の家系は、尾張守護でもある管領の斯波武衛家の家臣で、応仁の乱における斯波氏の内紛に派生する混乱のため分裂し、それぞれが主家の斯波氏を凌ぎ戦国大名化した家系です。戦国時代において、清洲三奉行(織田信長の家系はこの三奉行の一家に過ぎません。)が仕える清洲織田氏(大和守家)は清洲城を本拠に守護斯波氏を奉じ尾張下4郡を支配下に治めており、もう一つの岩倉織田氏(伊勢守家)は岩倉城を本拠とし尾張上4郡を治めていました。つまり、織田家(信長)は尾張の守護代でもなく、尾張半分の守護代家老三奉行の一つに過ぎない訳です。
天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると、織田家有力家臣の勢力争いとなります。最終的に羽柴秀吉が織田家中をまとめますが、織田家当主とされた織田秀信(織田三法師、織田信忠の嫡男、信長の孫)成長後も政権は織田家に返されることはありませんでした。しかし織田家の本国である岐阜城は返却され美濃の領主とされました。
関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信は改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われています。しかし、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家、旗本、尾張藩や明石藩家老などとして存続しました。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいます。現在でも直系子孫は続いているんです。明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列しました。
フィギュアスケートで有名な織田信成さんも、信長の子孫を自称されていま。。織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)にあたると自称しされています。
【丹波柏原藩史信包流】
(丹波柏原藩初代、織田信長の弟・信包)
織田信長の弟・信包は慶長3年(1598年)6月、伊勢国安濃津から柏原3万6000石に移封されます。これが柏原藩の立藩でした。信包は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、戦後は改易されずに済み(名門の血脈を惜しまれたのか?)、大坂城で豊臣秀頼に仕えました。慶長19年(1614年)、信包は大坂冬の陣直前に死去しています。
その後、信包の孫で第3代藩主・織田信勝の時代に治水工事や新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められましたが、信勝は慶安3年(1650年)5月17日に嗣子が無いまま死去してしまい、ここに柏原藩は廃藩となり、その所領は幕府領(天領)となります。
【丹波柏原藩史信雄流】
元禄8年(1695年)4月14日、信長の次男(三男ともいわれます)、織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことにより、柏原藩が再度?立藩されました。
これは大和宇陀藩2万9000石の藩主であった信休の父・織田信武が元禄7年(1694年)に発狂して家臣の田中五郎兵衛らを殺して自らも自害するという「宇陀崩れ」を起こしたため、処罰としてその子である信休が減移封されることとなったためです。ちなみに宇陀崩れ(うだくずれ)とは、江戸時代に大和国の宇陀松山藩で起こったお家騒動の事です。
宇陀松山藩三代織田長頼の時、弟の長政に福知村ほか8か村3000石を分与した。4代織田信武の代に至り藩の財政は窮乏し、打開策をめぐって重臣が対立します。1694年(元禄7年)、信武は、創業功臣の裔である重臣生駒三左衛門、田中五郎兵衛を討ち果たして自らも自害を遂げました。このため翌年、後継の織田信休は丹波国氷上郡柏原藩2万石に減封のうえ国替となり、宇陀松山藩は廃藩となり終焉しました。
信休は藩財政窮乏の中で藩政の基盤固めに努めましたが、大洪水や旱魃などが相次ぎ、元禄9年(1696年)には年貢軽減を求める愁訴が起こります。その後も柏原藩では藩財政の窮乏化が進み、藩内では要人をはじめとする61人の解雇(リストラ)、藩士の俸禄削減、藩札の発行などの諸改革を断行しましたが効果はなく、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆が起こりました。
第五代藩主・織田信守はこのような中で奢侈(身分不相応に金を費やす事)に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨みました。しかも信守が愛妾の保野を寵愛して政務にまで関与させた結果、藩主の地位をめぐっての争い(秘命騒動や保野騒動)が起こり、藩政は大いに乱れることとなりました。
第六代藩主・織田信古の代には先代の信守のツケに加えて藩札の発行により藩経済が大混乱し、天保4年(1833年)には遂に百姓の怒りが爆発して、打ち壊し騒動が発生しています。このような中で第八代藩主となった織田信敬は、小島省斎と協力して倹約を主とする藩政改革を断行します。そして藩内で文武を奨励し、藩校として又新館を設立しました。
第九代藩主・織田信民は信敬の遺志を受け継いで新たに藩校・崇広館を設立し、小島省斎と共に藩政改革に臨んでいます。現在「柏原藩陣屋跡」は表御殿が残り、お台所等は地表面に表示されています。奥部分は小学校の敷地に組み込まれました。
【織田家の血脈】
織田氏の諸藩では、信雄の系統は柏原藩の他に天童藩が、織田長益(有楽斎)の系統は柳本藩、芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続しています。有楽斎の系統は他に味舌藩、野村藩が存在しましたが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶しています。
【柏原藩歴代藩主】
代・氏名・官位・在職期間・享年・備考の順に記載。
『織田信包流・外様 3万6000石』
①織田信包(おだ のぶかね)
従三位左近衛中将
慶長3年~慶長19年(1598年~1614年)72?
父は織田信秀。織田信長の実弟。
②織田信則(おだ のぶのり)
従四位下刑部大輔
慶長19年~寛永7年(1614年~1630年)31
③織田信勝(おだ のぶかつ)
従五位下上総介
寛永7年~慶安3年(1630年~1650年)28
無継嗣のため改易。
『幕府領(天領)』
慶安3年(1650年)~元禄8年(1695年)
『織田信雄流・外様 2万石』
①織田信休(おだ のぶやす)
従五位下近江守
元禄8年~享保7年(1695年~1722年)45
父は大和宇陀松山藩4代藩主の織田信武。
大和宇陀松山藩から転封。
②織田信朝(おだ のぶとも)
従五位下出雲守
享保7年~元文2年(1722年~1737年)29
③織田信舊(おだ のぶひさ)
従五位下山城守
元文2年~天明3年(1737年~1783年)74
前藩主信朝の実弟。
④織田信憑(おだ のぶより)
従四位下出雲守
天明3年~文政10年(1783年~1827年)91
実父は高家旗本・織田信栄。
宝暦8年(1758年)に前藩主信旧の養子となる。
⑤織田信守(おだ のぶもり)
従五位下山城守
文政10年~文政12年(1827年~1829年)69
⑥織田信古(おだ のぶもと)
従五位下近江守
文政12年~天保13年(1829年~1842年)54
祖父は3代藩主の信旧。実父は織田信應。
⑦織田信貞(おだ のぶさだ)
従五位下出雲守
天保13年~弘化3年(1842年~1846年)44
実父は5代藩主の信守。
⑧織田信敬(おだ のぶのり)
従五位下出雲守
弘化3年~嘉永7年(1846年~1854年)18
実父は肥後宇土藩9代藩主の細川行芬。
⑨織田信民(おだ のぶたみ)
従五位下山城守
嘉永7年~慶応元年(1854年~1865年)26
実父は筑前秋月藩10代藩主の黒田長元。
⑩織田信親(おだ のぶちか)
従五位下出雲守
慶応元年~明治4年(1865年~1871年)77
実父は交代寄合の山崎治正。
【秘命騒動と保野騒動】
織田 信守丹波柏原藩第五代藩主は、第四代藩主織田信憑の長男でした。享和元年(1801年)6月14日、父信憑の嫡子となる。当初、信憑は信應(養父信旧の三男)を養嗣子としていたものの、この年に死去したため長男信守を嫡子としました。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見し、文化12年(1815)12月28日、従五位下山城守に叙任されます。父信憑の官位昇進にともない、世子の地位にありながら叙任しており、特別な待遇であったといえます。
その後、信守は信應の遺児信古の廃嫡を狙い「秘命騒動」を起こします。先々代藩主・信舊は後継者に恵まれず、分家から信憑を養子に迎えたものの、その後に実子信應を授かいます。成長した信應は先代信憑の養嗣子になったものの、藩主に就任する前に病没しました。つまり、信應の遺児・信古は柏原藩織田家の正統な後継者といえました。
しかし、信守は信古を養嗣子に迎えず、実子信貞を後継者にしようと企んだのでした。信古は病気のため嫡子にはできないとして、退隠をさせようとしたようです。文政4年(1821年)3月以降、たびたび信古の出府を延期させており、この頃の出来事と考えられます。結果的には、文政6年(1823年)、家臣九里政敬らの強い反発を受け、信古を婿養子に迎えました。
信守は、文政10年(1827年)10月10日、家督を相続、同12年(1829年)11月18日に隠居し、養子信古に家督を譲りました。信守の暴政に耐えられなくなった家臣団が幕府に藩主の交代を訴え、隠居させられたとも言われています。さらに隠居後、その側室保野による「保野騒動」が起こります。天保10年8月16日、信守は家臣に側室保野を柏原に連れてくるように厳命し、一方で側室保野に柏原に来ないように連絡をするなどして、家中を混乱させる原因を作ったことから、遠慮(「えんりょ」とは、江戸時代の刑罰の一つで、武士・僧侶などに科せられました。基本的に、自宅での籠居「ろうきょ」を命じたものです。)を命じられています。天保11年(1840年)5月10日江戸において死去、享年69。広徳寺に葬られています。
【柏原藩陣屋跡】
柏原陣屋(かいばらじんや)は現在の兵庫県丹波市柏原町(丹波国氷上郡)にあった柏原藩の藩庁の陣屋です。国指定の史跡と成っています。元禄8年(1695年)信長の次男信雄の孫、宇陀松山藩主信休がお家騒動の咎により領地を半減され2万石で移封します。移封より19年経た正徳3年(1713年)幕府より陣屋を築く事が許されました。以後十代にわたり織田氏が治め、明治にいたっています。
長屋門は正徳4年(1714年)に造られた表門で内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫に成っています。文政元年(1818年)御殿が焼失した時も延焼を免れています。創建時から残る唯一のものです。御殿は正徳4年、初代信休により築かれたものでした。文政元年の火災で焼失し、文政3年(1820年)に再建されました。しかし明治維新後に解体され、現在では再建時のおよそ5分の1が現存しているにすぎません。なお、正確な建築年代は判明していませんが、太鼓櫓は大手門にあり、番所や物見櫓の役割も果たしました。明治になってから石田大蔵神社境内に移築されています。
【最後の一言】
八代藩主、織田信敬の実父は肥後宇土藩九代藩主の細川行芬です。九代藩主織田信民の実父は筑前秋月藩十代藩主の黒田長元です。血脈を繋ぐ今の養子とは少し違いが在ると感じます。血より名をとる、江戸時代全国の大名が名前を護るための養子をとっています。我が家の近くでは、三田の九鬼家も血脈は途絶えていたはずですし。謙信公の上杉家も吉良上野介の息子が養子に成っていましたし、私の尊敬する上杉鷹山公も養子でした。大名家は企業と同じです。そこは出来の悪い創業者の息子よりも、能力のある、新社長ですかね~笑。
陣屋敷地は小学校の敷地の一画となっています。第九代藩主・織田信民が作った藩校の名前にちなんで、崇広小学校!「卒業の日に長屋門をくぐる」のが伝統のようです。柏原藩主のように強く大きく伸びろの願いは不変ですね。今年ももうすぐ織田家ゆかりの門から児童が巣立ちます。
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