光秀の謀叛は、丹波・近江の没収、「出雲・石見への国替」が原因か?『福知山城』を検証してみた。 - 「高天原の縁側日記」
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2018/02/02

光秀の謀叛は、丹波・近江の没収、「出雲・石見への国替」が原因か?『福知山城』を検証してみた。

前回、明智光秀の居城「亀山城」をご紹介すると共に、簡単ではありますが、本能寺の変への流れをご紹介致しました。表題にも書きましたように、丹波と近江(坂本)を没収され、出雲・石見への国替えを示唆された事が本能寺の変の大きな原因となったという推論は、これまで徳川家康饗応役をしくじり、信長が森蘭丸に命じて鉄扇で打たせ辱めを受けた怨恨が原因なのでしょうか。

さらには丹波国平定に際して、丹波八上城の波多野兄弟を降伏に追い込み、自分の母親(義母、乳母、代わりの母とも)を人質として城内に送りこんで助命を約束、それにより波多野兄弟は八上城を開城します。しかし、安土に送られた波多野三兄弟は信長が勝手に磔刑してしまい、これを知った八上家家臣はこの約束違反に激怒し、光秀の母を殺害してしまいました。この怨恨が本能寺の変を引き起こしたとの推論の重要な要因だと考えられてきました(光秀が母を人質に出したことも、母が殺されたことも信頼できる史料には記載されておらず、これは史実ではなく後世の創作とされています。)。

P9240392.jpg(この写真撮影場所が福知山城のベストスポットだと思います。ZORROというパチンコやさんの立体駐車場のてっぺんです。是非行ってみてください。笑)

現在では、影の首謀者説や四国(長宗我部氏)攻めの新資料が発見されるなど、新説が台頭して謎がふかまってきました。

丹波地方は其ほどまでに、光秀にとって重要な土地だったのか、検証するために丹波攻略の最前線、福知山城へ出掛けました。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。

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P9240208.jpg(昇龍橋を渡って天守閣へ、本来こちらは裏側に成ります。)

【丹波没収は事実か?】

実際には丹波・近江(坂本)没収はされず、国替えを示唆されただけの様です。信長の軽い?部下いじめだったのも知れません。本能寺へ向かう出発点も亀山城ですし、明智光秀は近江・坂本城を居城としており、丹波も所領として36万石を持っていたといわれます。意外と石高は少ないように感じますが、畿内近国の諸将(細川・筒井等)を指揮下に置き、その実力は200万石相当とも言われています。

関東方面軍団長、滝川一益も関東・上野に移動になったように、信長は方面軍団長(明智光秀・柴田勝家・羽柴秀吉等)を征服目的地の近くの所領に送り出す戦略で、織田家の支配を拡大していきます。織田軍の作戦であって、特別な方法でも有りません。当時の織田家の規模を考えれば、当然の選択肢と考えて差し支えないと思います。出雲や石見も毛利が屈服するか滅びれば、さらに九州方面へ国替えしながら、領土を移動拡するということに成ります。

また、当時の山陰地方は現在のように、都市圏に人口が集中し、過疎化の進む田舎ではなく(実家が有るので辛いのですが)、当時は銀山もあり、日本海海運も発達している時代なので、丹波の内陸部よりはるかに豊かな土地だったと言えます。信長にしてみれば、無理難題では無かったかもしれません。

しかし、光秀が丹波にこだわったのは事実なようです。一級の文化人である光秀は京都に近いこととや、丹波平定に多大な苦労をした事、更に亀山や福知山の領地経営に力を注ぎました。その結果として丹波は潤い、軌道に乗りかけていたようです。

しかしながら、そもそも信長の政策は、配下武将の土着化を避けるというものです。その様なしがらみを断つ政策は秀吉や家康にも継承されています。光秀が丹波にこだわったとはいえ、本能寺の変の動機にあげるのは極端ではないでしょうか。

参考までに、光秀が母を人質に出したことも、母が殺されたことも信頼できる史料には記載されておらず、これは史実ではなく後世の創作とされています。

【福知山城跡】

P9240065.jpg(大天守・近世初期の望楼型です。外観は忠実に再現されていますが、構造は鉄筋コンクリート造です。)
P9240056.jpg(天守台には移築された銅門続櫓)

福知山城(ふくちやまじょう)は、京都府福知山市字内記内記一丁目周辺にある日本の城(平山城)跡です。江戸時代には福知山藩の居城でした。2017年には、「続日本100名城」(100名城の後さらに100城認定されています。158番)に選定されています。

別名:横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
城郭構造:連郭式平山城
天守構造:複合・連結式望楼型(1699年・元禄12年築)外観復元(1985年・昭和60年再度)
築城主:明智光秀築城年1579年(天正7年)
主な改修者:有馬豊氏
主な城主:明智氏、朽木氏等
廃城年:1873年(明治6年)
遺構:曲輪、石垣、井戸、移築番所・門等
指定文化財:福知山市史跡
再建造物:大・小天守・釣鐘門等

P9240018.jpg(隅櫓風城郭建築・福知山市佐藤太清記念美術館、「銅門番所」移築 番所)
P9240104.jpg
(復元された、釣鐘門!)
P9240197.jpg(釣鐘門を反対から見るとこんな感じです。下の方は野づら積みですね。)
P9240111.jpg(「朝暉神社」朽木氏を祀っています。)
P9240136.jpg(手前住宅地が二の丸跡、緑の緑地が伯耆丸、その向こう山陰線の高架の向こうの緑が内記丸です。かなりの規模になりますね。)

現在のような縄張りは明智光秀がおこないました。畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じます。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入りました。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主としました。

現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元されました。福知山市郷土資料館の施設となっています。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館があります。市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城等の別名を持ちます。

東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく場所にあります。東、北、西は断崖で要害の地でもありました。国道9号走行中やJR福知山線の列車内からも観ることが出来ます。夜間はライトアップもされとても綺麗です。また多数の桜が城周辺に植林されており、春に満開となる桜が市民の目を楽しませます。

丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150~300mとなっています。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていましたがが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていましたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となっています。

その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀がめぐらされていました。城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされています。いわゆる惣構えという構造です(光秀の治世の下で地子銭免除「旧勢力による搾取免除」や、堀を作るための河川の改修、市場の制定「安土を見習って楽市楽座を行う」など城下町を充実させています)。

本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったようですが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われています。尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていたようです(方角的には正反対になります。)。

【中世の歴史「室町時代」と「横山城の戦い」】

小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われています。塩見頼勝は後に姓を横山に改め、さらに城主はその息子である塩見信房へと代替わりし、城名も横山城となりました。

明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担します。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城しました(以前「黒井城」のご紹介で、俳優の赤井秀和7さんが赤井直正の弟の末裔だとご紹介しました)。

これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城(篠山市追入と氷上郡柏原町上小倉にまたがる山城)を築き、丹波国の掃討戦が開始され、同年8月20日より横山城を攻めます。塩見信房は弟塩見信勝と共同で防戦したが、衆寡敵せず(多勢に無勢)結局自刃して果てました。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れ、猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、落ち延びている途中に川北周辺で討死します。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山は平定されました。明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと大修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置きました。

【本能寺の変の後】

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で明智秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は明智秀満の父が福智山城が留守居役となっていたらしく、豊臣秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、京に連行し同年7月2日粟田口で処刑されます。明智光秀は本能寺の変では勝利したが、山崎の戦いでは敗北し後に殺されました。明智光秀の在城期間はわずか3年間だけででした。

福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする羽柴秀勝(羽柴 秀勝は、織田信長の四男で、家臣羽柴秀吉が養嗣子として迎え入れた。幼名は於次丸・おつぎまる。 なお、秀吉の子には秀勝が3人おり、他の秀勝と区別するため、史家は便宜上、於次丸秀勝と呼ぶ) が城主となり、次いで杉原家次が城主となりました病没後、小野木重勝が城主となりました。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、が立て篭もる丹後田辺城を攻めます。この時当主細川忠興は関東に出陣中で、細川幽斎が留守居役で田辺城の戦いとなり必死に防戦、古今和歌相伝などの諸事情に詔勅仲介の幸運も重なり和議にこぎつけました。

関ヶ原の戦いの勝敗がはっきりすると、徳川家康の許しを得て、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝は敗れ、亀山城下の寿仙院で切腹させました。忠興は妻のガラシャが死に追いやられた事も重なってか、結構厳しすぎる仕置きを行っています。もしかすると陰湿で性格が悪かったのかもと考えてしまいます。余談ですが、細川忠興の子孫といえば細川護熙第79代元総理です。細川護熙総理の憧れは壇蜜さんだそうです。映画「関ケ原」で島左近の昔なじみの尼僧「妙善」役でしたが、細川ガラシャでもよかったのでは、なんて思いますが。(笑)

関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成しました。はじめ6万石で入国しましたが、間もなく2万石(飛び地で三田・父の遺領の継承が許されます)の加増を受け8万石の大領主となりました。

山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として大改修を行い、現在残る華麗な姿としました。しかし元和6年(1620年)12月、武功を重ねた豊氏は久留米藩に加増転封されます。その後も次々に城主が変わりますが寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、幕末の1869年(明治2年)に至る約200年の長きに亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治しました。

【天守閣】

P9240179.jpg(こちらが本来の二の丸からの門となるようです。)
P9240099.jpg(大天守と左側に小天守です。資料館入り口。)
P9240155.jpg(小天守とつながって中々の物です。それぞれにある石落とし分かりますか?)

『平面古図』によると、天守は三重四階建ての大天守で、北側に二重二階階建の小天守、南側には現存していないが櫓門を介して二重二階建の菱櫓と連結した建物がありました。大天守には、トコと棚をしつらえた八畳の上段ノ間、水流し、厠、小天守にもトコと棚をしつらえ住居施設が備えられています。大天守と小天守の連結部には縁側をとって座敷風な造りがなされていました。

『復元体系 日本の城』によると「建築構成は、安土城天守を小規模にしたような形で、共通する点が多い」としており、安土城の天守との共通性を指摘しています。復興天守の建設工事に伴い、発掘調査を実施したところ、当初は単独的な形であったがのちに改変付加され規模を順次拡張していたことが明確になりました。

復元天守は、大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型です。外観は忠実に再現されていますが、構造は鉄筋コンクリート造です。

【石垣転用石】

P9240051.jpg(転用石です。神も仏も無い状態ですね。)

1873年(明治6年)の廃城令で建物や堀、石垣もかなり失われてしまい、遺構としては天守台と本丸の石垣が残されるのみとなりました。石垣は、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用されている方法で積まれています。石材の加工と用い方は「野面積み」、角部の積み方は「算木積み」、勾配としては、基底部は傾斜が緩やかで段々傾斜を増していき、上部はほぼ垂直になる「扇の勾配」と呼ばれています。

また宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれています。一辺が62cmと大型の石材もあり、相当の寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがうかがわれます。点数は現在発掘調査により増加していますが、約500点で、五輪塔が約250点、宝篋印塔基礎が約35点となっています。種類としては、宝篋印塔、五輪塔の他に、一石五輪塔、石仏、笠塔婆、石臼等があり、これらは現在も石垣の部材として使用されています。福智山城以前の横山城時代の山城やその関係寺院、三岳山周辺の寺院を破却したとの伝承があります。

「礎石石塔ヲ惟任築城時福智山ニ取リタニト云々、サモアリシヤ、今モ親ク見ル所、天守台ノ石垣ニ法名彫タル石塔或五輪臺石夥敷見ケル、荒木ヨリ取集タリト云伝フ(丹波志)」とあります。惟任とは明智光秀のことです、荒木山にあった法興寺や宝積寺から石垣に使用する石を取り集めたと記載されています。

【石落し】

石落としは攻城戦に攻城軍が接近した場合に、門・櫓・天守などに設けてある隙間から直下の敵に向けて攻撃を行う防御施設です。石落としの幅は8寸とされ、福知山城では大天守の虎口の上、大・小天守の2階の隅に設置されており、1階が1ヵ所、2階が9ヵ所、計10ヵ所存在します。2階の石落としは1階の張り出し屋根で隠されています。

【豊磐の井】

P9240090.jpg(天主入り口前にある豊磐井海面より低いってすごいね~しょっぱくはないよね(-"-;A ...アセアセ)

本丸、天守の東側に「豊磐井」(とよいわのい)と呼ばれている大型の井戸が残っています。この井戸は城主であった朽木稙昌の父朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだものです。井戸の深さは50mあり、海面下7mにも達します。高所に関わらず水深37mもあり、現在も満々と水をたたえています。伝承ではこの井戸には抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがあります。第二次世界大戦前まで二ノ丸の北側に深い洞穴があったようだが、奥が行き詰っており氷室であったという指摘もあります。

【埋納遺物】

1986年(昭和61年)の天守再建に伴う送電線敷設工事時に偶然検出された埋納遺物で、現在の天守台の南、本丸中央部で出土しました。この地点は古絵図によると、本丸御殿が建っていたところで、検出層位から江戸時代以前の福知山城整地前に埋納された物と思われます。出土物は以下の5件です。

①丹波壺・口径16.6 cm、高さ41.6 cm。茶褐色で一部緑色の自然釉が薄くかかっていました。この壺の中に他の出土遺物が入っていました。
②銅鏡・直径は9.43 cm、紐は亀形で、縁は垂直に立ちあがっています。一対の鳥と菊花をモチーフとした双雀菊花文鏡です。
③竹筆・9本出土しました。径0.7-0.9 cm、長さは15-23cmで使用の痕跡は確認できていません。
④小刀・錆びついており、詳細は不明です。現存部分の長さ19.3 cm、刃部分の幅は2.6 cm。
⑤銅銭・総数は約936枚。原型をとどめていない個体もあり、2~3枚程度の誤差を考慮する必要があると思われます。銭種は40種類で、ばらばらに納められていました。鋳造年次の最も新しい銭は朝鮮通宝2枚です。

壺の内部には内底中央部に鏡面を上にして銅鏡1面が置かれ、竹筆19本と小刀1本が立てかけられ、最後に銅銭が納められていました。壺の内部に水が15cm程度溜まっていましたが、竹筆は良好な状態で残っていました。『福知山城の歴史』は「遺物の組成、埋納状況からみても、いわゆる備蓄銭ではなく、何らかの祭祀的な色彩を強く感じるものであり、変形しているものの、地鎮、経塚、祈願などの目的で埋納された」と解説されています。

P9240005.jpg(妻の実家に帰省する際には必ず見ていたので、いつでも行けるが今回に成ってしまいました。美しいお城です。)


【最後の一言】

少しでも謀反の動機が感じられればと出かけましたが、一層謎は深まってしまいました。やはり簡単に考えるとフィクサーですかね?光秀が首を縦に振る人物です。誰だと思いますか?だから歴史は面白いですね~。次はどこえ向かうのやら?楽しみは尽きませんね。

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