日本三景「天橋立」を見ながら、西国三十三所第28番札所『成相寺』を訪ねよう。
今日ご紹介するのは、西国三十三観音霊場第28番札所『成相寺』です。記事が多くなってくると、ご紹介したのか?記憶が確かでなくなってきます(確か松傘公園は紹介しましたね)。「成相寺」へは、丹後一ノ宮の「籠神社」裏手のケーブルを使って、松傘公園まで登り、そこからは徒歩(マイクロバスも有ったのですが)で、運動がてら家族で訪れました。
これが結構距離があり、山菜等を子ども達に教えながら、トレッキング気分でお参りしました。丹後国分寺跡方面から車で行くことも出来ますが、せっかくならと橋立を眺めて、徒歩で向かいました。
もちろん松傘公園では又覗きを楽しみ、日本三景を堪能しました。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【天橋立、又覗きイグノーベル賞を受賞】
そりゃ絶景ですわね、日本三景なのですから、又覗きの台が有りまして、勿論チャレンジしました。今のカメラは凄く賢くて逆さに撮影しても修正してくれてます。又覗きの意味が全く無い~f(^_^;って事です。(爆)
因みにこの又覗きに関連して、イグノーベル賞を受賞しているって知ってました?立命館大学文学部の東山篤規教授が、「 光学的・身体的変換視野の効果(股のぞき効果)」 に関する研究で、第26回イグノーベル賞知覚賞を受賞されました。前かがみになって股の間から後ろ方向にものを見ると、実際より小さく見える事をを実験で示した研究に対して受賞されて居ます。だからどうなんだっていわれましても、イグノーベル賞自体そんな賞ですからご理解下さいねm(__)m
『うんちく「イグノーベル賞」』イグノーベル賞(イグノーベルしょう、英: Ig Nobel Prize)は、1991年に創設された「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられるノーベル賞のパロディーです。1991年、ユーモア系科学雑誌のマーク・エイブラハムズ(英語版)編集長が廃刊の憂き目に遭いながらサイエンス・ユーモア雑誌『風変わりな研究の年報』 (Annals of Improbable Research)を発刊する際に創設した賞であり、面白いが埋もれた研究業績を広め、並外れたものや想像力を称賛し、科学、機械、テクノロジーへの関心を刺激するためと始まりました。
毎年9月もしくは10月に「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」や風変わりな研究、社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて授与されます。このようにインパクトのある斬新な方法によって、脚光の当たりにくい分野の地道な研究に、一般の人々の注目を集めさせ、科学の面白さを再認識させてくれるという貢献に繋がっています。日本は、カラオケやたまごっち、バウリンガルといった商品も受賞している常連国です。
【成相寺のあらまし】
本題に戻ります。成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市にある真言宗の寺院です。山号は成相山、西国三十三所第28番札所に成っています(御朱印集めをしている私にとっては是非ともお参りせねばならない寺院でした)。本尊は聖観世音菩薩で、境内から日本三景のひとつ天橋立が一望できます。
本堂所在地:京都府宮津市成相寺
山号:成相山宗派真言宗単立
本尊:聖観世音菩薩
創建年:(伝)704年(慶雲元年)
開基:真応上人
別称:成相観音
札所等:西国三十三観音28番
文化財:絹本著色紅玻璃阿弥陀像・鉄湯船ほか(重要文化財)
本堂・鎮守堂・成相寺参詣曼荼羅ほか(府文化財
【成相寺歴史】
寺伝によれば704年(慶雲元年)、真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったといわれますが、中世以前の寺史は良く解っていません。2007年(平成19年)、高野山真言宗から独立し、真言宗単立寺院となっています。
寺は天橋立を一望する成相山(569m)の山腹にあります。創建時は山のさらに上方に位置し、修験の道場となっていました。現在地に移ったのは1400年(応永7年)の山崩れ以降のようです。山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝)には、「世野山成相寺」の書き込みとともに寺が描かれています。
【寺名の由来と撞かずの鐘の伝説】
真応上人が霊地を求め諸国を旅していたが、この地の風景に惹 かれて庵を結び修行していたところ、慶雲元年(704年)のある 日、老人が現れ観世音菩薩像を置いて立ち去りました。上人はこの像 を安置するための堂を建てたのが寺の創始とされています。 大雪の続いた冬のある日、食べ物はなくなり上人は餓死寸前となりましたが、そこに一頭の傷ついた鹿が現れます。肉を食べてはなら ないという戒律に心は揺らぎますが、命には代えられず、その鹿の肉を煮て食べました。上人は食べてから、鹿の肉と思ったのは本尊の腿の木 片であることに気付き、観世音菩薩が身代わりになり助けてくれたことを知ります。 上人は喜び、木片を観世音菩薩の腿につけると像は元通りになったといわれます。これが成相(合) 寺の寺名の由来とされている伝説です。
鹿が出る話、割と良くあるようです。鹿の角は冬落ちて春に生え変わる事から、再生をイメージするようです。絵画銅鐸にも鹿は題材として出て来るようですが、食料よりも呪術の利用として捕らえられたようです。食料用はは猪が多いです。
慶長十四年(1609年)、お寺で新しく鐘を作ることになり、 村人から寄付を募りました。 一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募ったとき、 ある長者の妻はお金の代わりに自分の子供を寄進すると言って、寄付を断りまし た。 やがて鋳造の日、人々が見物に集まりました。 その中に例の長者の妻も子供を抱えて見物をしていました。 ところが長者の妻は誤って 煮えたぎるルツボの中に我が子を落としてしまったのです。 このような悲劇もありましたが出来上がった鐘は美しい音色を響かせていまし た。 しかし耳を澄ますと子供の泣き声のように聞こえたそうです。 人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞くことをやめ、 それ以来「撞かずの鐘」と呼ばれるようになりました。
《成相寺ホームページより》
成相寺の撞かずの鐘が400年ぶりに撞かれたニュースを見つけました(2011年8月の京都 新聞です)。400年の時を越え 伝説の鐘が響く 宮津・成相寺で「撞かずの鐘供養」(宮津市成相寺) 日本 三景・天橋立近くにある 宮津市成相寺の西国第28番札所・成相寺で11日、 「撞(つ)かずの鐘供養」が行われた。 鋳造時以来約400年間、突かれることがなかった伝説の鐘が1日だけ復活、 境内一帯に時を超えた音を響かせた。 寺伝によると、江戸時代の初めに新鐘を鋳造。 乳飲み子が銅湯のルツボに落ちたまま完成した鐘を鳴らすと、 子どもの泣き声が聞こえたため、その成仏を願って突かれなくなった、とされる。 今回、開山1300年の記念行事の一環として、 供養と鐘本来の時を告げる役目を再現しようと鐘突きが実現した。 この日午後、石坪昭真住職ら11人が参道脇の鐘堂前で読経。 この後、板張り、密封された堂内の鐘を 僧侶らが中に入って交代で打ち鳴らした。 午後2時半に2回、3時に3回、4時に4回、5時に5回。 「ゴーン」という鐘の音が周囲の山間にこだまし、 詰めかけた多くの参拝者や観光客らも静かに手を合わせていた。 この鐘は12日から再び100年間封印され、「撞かずの鐘」に戻る。
《2011年8月12日の京都 新聞より抜粋》
【成相寺の秘仏】
本堂は1774年(安永3年)の再建されています。堂内には中央の厨子内に本尊の聖観音(しょうかんのん)像、向かって左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、右に千手観音立像を安置します。本尊は33年に一度開扉の秘仏で、近年では2005年(平成17年)に開扉されました。なお、西国三十三所観音霊場の中興の祖とされる花山法皇の一千年忌を記念して、2008年から2010年にかけて各札所寺院で本尊の開帳が行われ、当寺の本尊は2008年9月6日~11月30日、2009年4月5日~5月30日に開帳されました。
五重塔は本堂下、山門近くの広場に面して建つ。1998年(平成10年)に完成した新しい塔ですが、鎌倉時代の建築様式を再現した木造塔です。
【最後に一言】
時々お話させていただいていますが、8年ほど前に心を患いまして、入院いたしました。現在も完治したとはいえないのですが、寺社仏閣を巡ることで、少しづつではありますが、自分を取り戻して来たような気がします。御朱印集めから始まった寺社仏閣巡りはブログという形で新たな花を開かせてくれました。素敵な友人も出来ました。有難い事、神仏に感謝ですね、今後もより良い方向へ進んでいけたらと日々願っております。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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そりゃ絶景ですわね、日本三景なのですから、又覗きの台が有りまして、勿論チャレンジしました。今のカメラは凄く賢くて逆さに撮影しても修正してくれてます。又覗きの意味が全く無い~f(^_^;って事です。(爆)
因みにこの又覗きに関連して、イグノーベル賞を受賞しているって知ってました?立命館大学文学部の東山篤規教授が、「 光学的・身体的変換視野の効果(股のぞき効果)」 に関する研究で、第26回イグノーベル賞知覚賞を受賞されました。前かがみになって股の間から後ろ方向にものを見ると、実際より小さく見える事をを実験で示した研究に対して受賞されて居ます。だからどうなんだっていわれましても、イグノーベル賞自体そんな賞ですからご理解下さいねm(__)m
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毎年9月もしくは10月に「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」や風変わりな研究、社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて授与されます。このようにインパクトのある斬新な方法によって、脚光の当たりにくい分野の地道な研究に、一般の人々の注目を集めさせ、科学の面白さを再認識させてくれるという貢献に繋がっています。日本は、カラオケやたまごっち、バウリンガルといった商品も受賞している常連国です。
【成相寺のあらまし】
本題に戻ります。成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市にある真言宗の寺院です。山号は成相山、西国三十三所第28番札所に成っています(御朱印集めをしている私にとっては是非ともお参りせねばならない寺院でした)。本尊は聖観世音菩薩で、境内から日本三景のひとつ天橋立が一望できます。
本堂所在地:京都府宮津市成相寺
山号:成相山宗派真言宗単立
本尊:聖観世音菩薩
創建年:(伝)704年(慶雲元年)
開基:真応上人
別称:成相観音
札所等:西国三十三観音28番
文化財:絹本著色紅玻璃阿弥陀像・鉄湯船ほか(重要文化財)
本堂・鎮守堂・成相寺参詣曼荼羅ほか(府文化財
【成相寺歴史】
寺伝によれば704年(慶雲元年)、真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったといわれますが、中世以前の寺史は良く解っていません。2007年(平成19年)、高野山真言宗から独立し、真言宗単立寺院となっています。
寺は天橋立を一望する成相山(569m)の山腹にあります。創建時は山のさらに上方に位置し、修験の道場となっていました。現在地に移ったのは1400年(応永7年)の山崩れ以降のようです。山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝)には、「世野山成相寺」の書き込みとともに寺が描かれています。
【寺名の由来と撞かずの鐘の伝説】
真応上人が霊地を求め諸国を旅していたが、この地の風景に惹 かれて庵を結び修行していたところ、慶雲元年(704年)のある 日、老人が現れ観世音菩薩像を置いて立ち去りました。上人はこの像 を安置するための堂を建てたのが寺の創始とされています。 大雪の続いた冬のある日、食べ物はなくなり上人は餓死寸前となりましたが、そこに一頭の傷ついた鹿が現れます。肉を食べてはなら ないという戒律に心は揺らぎますが、命には代えられず、その鹿の肉を煮て食べました。上人は食べてから、鹿の肉と思ったのは本尊の腿の木 片であることに気付き、観世音菩薩が身代わりになり助けてくれたことを知ります。 上人は喜び、木片を観世音菩薩の腿につけると像は元通りになったといわれます。これが成相(合) 寺の寺名の由来とされている伝説です。
鹿が出る話、割と良くあるようです。鹿の角は冬落ちて春に生え変わる事から、再生をイメージするようです。絵画銅鐸にも鹿は題材として出て来るようですが、食料よりも呪術の利用として捕らえられたようです。食料用はは猪が多いです。
慶長十四年(1609年)、お寺で新しく鐘を作ることになり、 村人から寄付を募りました。 一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募ったとき、 ある長者の妻はお金の代わりに自分の子供を寄進すると言って、寄付を断りまし た。 やがて鋳造の日、人々が見物に集まりました。 その中に例の長者の妻も子供を抱えて見物をしていました。 ところが長者の妻は誤って 煮えたぎるルツボの中に我が子を落としてしまったのです。 このような悲劇もありましたが出来上がった鐘は美しい音色を響かせていまし た。 しかし耳を澄ますと子供の泣き声のように聞こえたそうです。 人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞くことをやめ、 それ以来「撞かずの鐘」と呼ばれるようになりました。
《成相寺ホームページより》
成相寺の撞かずの鐘が400年ぶりに撞かれたニュースを見つけました(2011年8月の京都 新聞です)。400年の時を越え 伝説の鐘が響く 宮津・成相寺で「撞かずの鐘供養」(宮津市成相寺) 日本 三景・天橋立近くにある 宮津市成相寺の西国第28番札所・成相寺で11日、 「撞(つ)かずの鐘供養」が行われた。 鋳造時以来約400年間、突かれることがなかった伝説の鐘が1日だけ復活、 境内一帯に時を超えた音を響かせた。 寺伝によると、江戸時代の初めに新鐘を鋳造。 乳飲み子が銅湯のルツボに落ちたまま完成した鐘を鳴らすと、 子どもの泣き声が聞こえたため、その成仏を願って突かれなくなった、とされる。 今回、開山1300年の記念行事の一環として、 供養と鐘本来の時を告げる役目を再現しようと鐘突きが実現した。 この日午後、石坪昭真住職ら11人が参道脇の鐘堂前で読経。 この後、板張り、密封された堂内の鐘を 僧侶らが中に入って交代で打ち鳴らした。 午後2時半に2回、3時に3回、4時に4回、5時に5回。 「ゴーン」という鐘の音が周囲の山間にこだまし、 詰めかけた多くの参拝者や観光客らも静かに手を合わせていた。 この鐘は12日から再び100年間封印され、「撞かずの鐘」に戻る。
《2011年8月12日の京都 新聞より抜粋》
【成相寺の秘仏】
本堂は1774年(安永3年)の再建されています。堂内には中央の厨子内に本尊の聖観音(しょうかんのん)像、向かって左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、右に千手観音立像を安置します。本尊は33年に一度開扉の秘仏で、近年では2005年(平成17年)に開扉されました。なお、西国三十三所観音霊場の中興の祖とされる花山法皇の一千年忌を記念して、2008年から2010年にかけて各札所寺院で本尊の開帳が行われ、当寺の本尊は2008年9月6日~11月30日、2009年4月5日~5月30日に開帳されました。
五重塔は本堂下、山門近くの広場に面して建つ。1998年(平成10年)に完成した新しい塔ですが、鎌倉時代の建築様式を再現した木造塔です。
【最後に一言】
時々お話させていただいていますが、8年ほど前に心を患いまして、入院いたしました。現在も完治したとはいえないのですが、寺社仏閣を巡ることで、少しづつではありますが、自分を取り戻して来たような気がします。御朱印集めから始まった寺社仏閣巡りはブログという形で新たな花を開かせてくれました。素敵な友人も出来ました。有難い事、神仏に感謝ですね、今後もより良い方向へ進んでいけたらと日々願っております。
歴史って本当に面白いですよね~!
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