「大国主」は屠られて『出雲王国』は滅亡した? - 「高天原の縁側日記」
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2018/01/20

「大国主」は屠られて『出雲王国』は滅亡した?

今回のブログは、「大国主」は暗殺された?哀愁の『須勢理毘売命』を追って!vol③に当たるものです。このシリーズはvol②で終わる予定でしたが、鳥取県の考古学関係者の友人から愛あるクレームが有りました。(笑)成る程~と思ったので、vol③に当たるこのブログを書くことにしました。

問題点は前回の「まだご紹介していないのですが、出雲には四隅突出墓といわれる、独特の古墳が有り、国譲り以前の出雲が独特の文化を有していたのではないのかと考えています。妻木晩田遺跡には四隅突出墓が数多く発掘されています。」の部分です。

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(やはり大国主は殺されたのか?神話の謎を解き明かそう。)

彼いわく、「四隅突出墓では無い!正確には四隅突出墳丘墓で、古墳では無い!」とのこと。説明が難しいので調べてみると共に、vol①でプレゼントのお話もしたので、そちらも合わせて今回のシリーズは最終話にしたいと思います。(^人^)

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【墳丘と古墳の違い】

P5190131.jpg(墳丘と古墳の基準となる箸墓古墳!やはり美しいですね。)
CIMG2608.jpg(妻木晩田遺跡で最初に作られた洞ノ原1号墳。)
P8111380.jpg(四隅突出墳丘墓の分布図、これが出雲王国の全貌だと思います。)
P8111360.jpg(西谷墳墓群の横穴墓と呼ばれる横穴の墳墓群)

愛有るクレームを頂きまして、墳丘墓と古墳にどのような違いがあるのか調べてみました。webの見解では「古墳」は墳丘が一人の埋葬者のために造成されている(複数の埋葬者がある場合は古墳に含めない)。前方後円墳、または前方後方墳・円墳・方墳という規定形で、一定の政治的意味が付与されていると考えられているようです。

吉野ヶ里の墳丘墓、山陰地方の四隅突出墳丘墓(西谷墳墓群も取材済みですが、まだご紹介していません。)などは複数の埋葬者があるので古墳とは呼べません。更に、岡山の楯築遺跡(此方もまだご紹介していません。取材済みです。)は、一人の墳丘ですが、前方後円墳ではないので古墳と認められない(前方後円墳の原型ともいわれ、方部が2つの双方中円墳)、という論理のようでした。

また、wikipediaを参考にすると、3世紀後半を境に呼び方を変え、区別していると説明されています。これは箸墓古墳を基準にしていると思われ、それ以前は墳丘墓、それ以降を古墳と呼ぶようです。実際は箸墓古墳の在る纒向遺跡には、箸墓古墳以前の纒向石塚古墳・纒向勝山古墳(此方を卑弥呼の墓と考える学説も有るようです。)・纒向矢塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳があり、木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには造られていた事がわかっています。

この事実から、古墳の形や発展、社会の動きや時代を基準に墳丘と古墳を分ける明確なラインはないと考えますが、教科書や新聞では、はっきりと分かれているようです。墳丘墓と古墳を分けているのは、時代の様です。初現期については諸説あり、意見が割れていますが、極論で分けてしてしまえば、古墳時代に作られたのが古墳で弥生時代以前に作られたものが墳丘墓と呼ばれています。

楯築や四隅突出型などは誰もが弥生時代と認めるので墳丘墓と成るようですが、纏向にある箸墓以外の5つの墳丘を持つ墓は3世紀代を古墳時代に含めるか、箸墓以降を古墳時代とするかの見解が割れているので、人によっては古墳と言い、人によっては墳丘墓と呼んでいます。ただし、教科書的には従来からの箸墓以降を古墳時代とするという見解を取っていますので、箸墓よりも古いものは墳丘墓、箸墓より新しいものは古墳と分けて記載しているようです。

古墳であるか否かの基準としては「定型化(前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳等)」ということがあげられますが、この条件をいろいろ調べていくと古墳時代でも小さい古墳や地方の古墳だと整合性の無い物が多く現れ、基準や定義だけから古墳と墳丘墓を厳格に区別するのは事実上無理だと考えます。

岡山の楯築遺跡は、埋葬者は一人ですが、前方後円墳でない上に弥生時代の物ですから古墳と認めないという考え方は、明らかに間違っていると思います。「古墳」というものが王権の象徴と考えたうえで、弥生時代とは全く異なる社会的な意味がある物なのだということを強調し明確化するために用語が変えられていると思います。

私の結論では、基本的に箸墓古墳以降の物は全て古墳(人数が二人の野口王墓や藤ノ木古墳は個人墓では有りません)と呼ばれます。一方纒向遺跡の5古墳や楯築遺跡は、箸墓古墳より古いのですが、古墳と呼んで差し支えないと思います。墳丘墓と呼ばれるのは、明らかに弥生時代のもので(移行期は個々に選定する。)、なおかつ現代の○○家代々の墓、に相当するものです。

前回私が四隅突出墓(墳丘墓)を古墳と書いたのは使用間違いだったわけですが、私的には固有名詞としての古墳ではなく、古い墓の意味で使用したつもりだったので、お許し頂けましたら幸いです。

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(出雲では狛犬も独特、意宇六社の中でも私が最も美しいと思える、真名井神社の云型狛ちゃんです。)

【雲太、和二、京三】

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(48mと言われる中古代の出雲大社当時の復元模型・雲太です)
CIMG1283.jpg(和二・東大寺大仏殿!建設当時は横幅がさらに大きかったようです。)
PA280331.jpg(現在京都にある御所の大極殿ですが、南北朝時代にこの場所に移って建て直されています。)

松江市出身の友人が「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きようさん)という言葉を、小学生時代に覚えされられた」と言っていたのでご紹介します。平安時代中ごろに「口遊(くちずさみ)」と呼ばれた、大建造物の歌謡の事です。「雲」は出雲、「太」は太郎という名前が示すように長男、「和」は大和、「京」は京都。つまり、出雲大社が1番、奈良の大仏殿が2番目、京都御所の大極殿が3番目という意味で、日本の巨大建築のベスト3を表しています。

世界最大の伝統木造建築物として大仏殿をご紹介する予定が有るのですが、(此方も取材は行っているのですが、まだご紹介出来ていません。)、それより大きな建築物があったのです。

現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1mで、古代の物より少し高いようですが、『東大寺要録』の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)と記録されています。高さは現在の方が高いようですが、横幅は現在1.5倍も有ったんですね~驚きました。

現在は焼失して実物は残っていませんが、昔の書物に「出雲大社は16丈(48.5m)、大仏殿は15丈(46.4m)」と記録されています。つまり古代出雲大社の方が高さは高かったことになります。

さらに、本居宣長は、幻の出雲大社を記述した本居宣長の「玉勝間」の中で、「出雲大社本殿の高さは、太古は32丈(96.96m)、中古は16丈、近古は8丈という言い伝えを記載しています。現代の建築学者は「32丈(96.96m)は、構造的に不可能」と言っているようですが、100m近い木造建築物が本当にあったのでしょうか、見てみたいですね。

平安時代、雲太といわれたころの出雲大社は16丈(48.48m)の壮大な建物でした。これが8丈に縮小されたのは、鎌倉時代宝治2年(1248)の造営からの様です。すなわち、平安時代中ごろには、出雲大社がもっとも大きく、次いで東大寺大仏殿、京都御所大極殿の順だと歌われました。

《幻の出雲大社を記述した本居宣長の「玉勝間」を参考》

古代出雲大社、長い間その出雲大社は記録に残るだけの「幻の木造建築」でしたが、2000年にそれを裏付ける遺構が発掘されました。出雲大社の境内の地下から、直径1.35mの柱を鉄の輪で3本束ねた直径約3mの柱の跡が2ヵ所発見されたのです。

6本の柱のうち4本がスギ。あとの2本は不明ですが、おそらくヒノキかコウヤマキでしょう。建築されたのは平安末期と推定されています。江戸時代に再々建された現在の東大寺大仏殿には集成材の柱が使われていますが、平安末期すでに丸太のまま束ねて柱にするという技術があったわけです。日本の建築技術は凄いですね。

日本人気質ということで、一つお話をさせていただきます。ウズベキスタンの首都タシケントに、1,500人の観客を収容する壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場があります。1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、市内の建物の殆んどが倒壊した中でも、この劇場はびくともせず、市民の避難所となりました。この劇場を造ったのは、大戦後シベリアに抑留され強制労働に従事した日本兵でした。1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本人抑留者が、このアリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の建設に参加し、その完成に貢献しました。

同様に、ウズベキスタン全体では、2万5,000人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作っています。どの建物も地震被害はほとんどなく、日本人が勤勉に働いていた様子が語り継がれています。捕虜となり過酷な労働条件の中でもできうる限りの最高の物を作ろうとした日本人の姿が目に浮かびます。

現在首都タシケントでは、春になると桜が満開になるのだそうです。この桜は日本人墓地を管理してくれているタシケントの市民に感謝の意を込めて、遺族会が苗木を送ったものだそうです。お隣の国では嫌われているわが国ですが、世界で日本を嫌っている国はほんの数か国だということも考えておきたい事実です。

【追いやられた出雲系一族】

国譲り神話を元に、地方に分散され力を削がれた出雲系一族をご紹介しましょう。まずは「八上姫」です。こちらは「須勢理毘売命」の嫉妬心に恐怖した「八上姫」が子供を置いて因幡に帰国(内輪もめ)したことに成っていますが、大和から出雲を征服するコース上にあるのが、因幡に成ります。戦国時代には、羽柴秀吉が出雲進攻を美作から因幡へと行っています。因幡が懐柔され「八上姫」は実家に帰されたのかもしれません。歴史は繰り返すの例えもありますからね。

次は「須佐之男(すさのお)」です。須佐族王の意味かもしれません。日本神話の中でも三貴神の一人として登場します。しかしながら、このシリーズでご紹介したように、天孫族では無いようです。全国に須佐之男を祀る神社は数多くあります。京都祇園祭りも八坂神社(御祭神は須佐之男です)のお祭りです。須佐之男が誓約で生んだのは宗像三女神、海の神様ですね。海路の重要性を考えた大和勢力が一番先に懐柔したかった人物ではないでしょうか?

次は「事代主」です。島根県美保が関の美保神社に祀られていますが、なぜか継母の美穂津姫と一緒です(お目付け役かな?)。美保神社には古事記に題材をとった「青柴垣神事」で有名です。以前私も偶然に拝見する機会がありました。神事の中心は御船が宮灘から離れ、最も尊い神域である「青柴垣」に近づきます。そして、これまで続いた精進潔斎を経た當屋(氏子から選ばれた男性)は神がかり状態になり、その体に神霊を戴きます。ここで、當屋は船内において「生き化粧」へと化粧を塗りかえます。

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(美保神社の青柴垣神事、當屋が青柴垣を祀る船に向かいます。正にうなだれる「事代主」に見えませんか?)
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(小忌人は地面に足を突かないそうです。天津神の使いですね。)

解釈ははっきりしないようですが、精進潔斎を経た當屋がうなだれ両脇を支えられながら、御船に乗り込む姿は大和軍に引き立てられる事代主そのものに感じました。小忌人(古くは大齋人)と言われる少女が、當為知に背負われ地に足を付けない姿は天孫族の使いとも見えました。国津神から天津神へ変わる神事ということでしたが、古事記に有る青柴垣に隠れるは、死を意味するものかもしれませんし、伯耆国には事代主が逃げて来たという伝承場所(倉吉市波波伎神社社)が残っています。

さらに、『古事記』の国譲りに登場する武闘派神、「建御名方(たけみなかた)」、『先代旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」では、大己貴神(大国主)が高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方であるとされます。日本書紀には記載はありません。 建御雷に力競べを挑み建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化しました。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方の手を握りつぶして投げ飛ばしてしまいます。

建御名方は逃げ出したが、建御雷がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとしました。その時に、建御名方はその地から出ない旨と、大国主・八重事代主に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したといいます。

そして最後が今回シリーズとして取り上げた「須勢理毘売命」です。唐王神社や大山町の伝承によると、大国主と離れて大山の見える、出雲の端で生涯を閉じています。出雲大社では仲良く祀られていることに成っています。

PB020002.jpg(出雲大社一の鳥居、やはり大きいですね~!)
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(二匹の兎は大社に何を祈るのか?)

唐王神社近くに存在する「妻木晩田遺跡」も少しだけご紹介しておきましょう。標高90~120メートル前後(平野部との比高差100メートル前後)の尾根上を中心に立地し、面積約170ヘクタールにおよびます(吉野ヶ里の5倍)。これまでにま17.2ヘクタールが調査され(それでも10分の1です)、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されています。

一連の集落は弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれてたことが分かっています。いわゆる倭国大乱の影響とされる高地性集落ですが、比較的大規模で長期にわたる例は少なく、注目されていて昨年も12月まで発掘調査が行われていました。今年も予算が付けば、更なる調査が行われる予定です。

【最後に一言】

毎回言っていることですが、歴史は勝者が書き換えるのです。大国主の国譲りも、事代主の青柴垣へのお隠れも、建御名方の諏訪湖への逃亡劇も、須勢理毘売命が出雲大社で仲良く暮らしたお話も疑っていきますと限がありません。

しかしながら、国を譲られた大和勢力が古事記において出雲国の神話を中心に据えた理由は、やはり出雲王国の底力を恐れたからではないかと思います。邪馬台国論争、卑弥呼論争は出雲抜きでは語れないのではないかと思うのですが、皆様はどう思われますか?

最後に成りましたが、プレゼントのお話忘れていました。「須勢理毘売命」が「大国主(葦原の醜男)」を助けるために渡した砂と同じものだとも言われる唐王神社神殿下の砂です。私の分も含めて3つ頂きました。ご要望がございましたらプレゼントさせていただきます。

神話のお話、須佐之男が頭の虱を取るように言いつけられた大国主最後の試練、頭にいたのは虱ではなくムカデでした。大国主は、須勢理毘売命からもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくもらった赤土(実物は赤くありませんが、笑)を口に含んで吐き出して難を逃れたあの砂と同じものだそうです。蝮や毒虫の危険は少なくなりましたが、昔ながらの悪い虫はまだいます。それは、女性にとっては男性、男性にとっては女性だそうです(爆)。この悪虫に対する須勢理比売命の神通力は今なおこの地で信じられています(結構必要な人いるかもしれません)。ご希望の方はコメントを頂きましたらお贈りいたします。応募多数の場合は厳正にくじをひかせていただきます。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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No title

私は検索ワード 出雲王国でこちらの記事にたどり着きました。
大元出版の本の内容が広まっていない時代の古い記事ならまだしも、2018年という新しい時代に書かれた記事ですから、随分的外れな推測も展開されていますよと、指摘させて頂くのも良いのではと思い投稿しました。過去検索ワード 出雲王朝でヒットした多くの記事寄りの内容(神話寄りの内容、神話作成の本当の目的を押さえてない内容)が、こちらの記事以外にも多いからです。
個々の内容を取り上げるよりも、大元出版の本の情報を読んでみて下さい、とお知らせするのが良いのかなと思っています。

今現在入手可能な範囲ですと、古事記の編集室、出雲と蘇我王国、親魏和王の都 辺りがまずは良いのではないかなと。タイトルにはあまり左右されない方が良いと思います。

大元出版の本は、約700年の長きに渡り繁栄した、実在の日本で最初の国家 出雲王国(~紀元250年頃)の東西2王家(富王家 、神門臣王家)側の史実情報です。2王家の内王家の史実を伝えるのは富王家がと、話し合いで取り決められたそうです。

(大元出版の著書)
古事記の編集室 、出雲と蘇我王国 、山陰の名所旧跡 、幸の神と竜 、サルタヒコ大神と竜(幸の神と竜 の簡略版) 、出雲と大和のあけぼの 、親魏和王の都 、お伽話とモデル 、事代主の伊豆建国 、万葉歌の天才 、飛鳥文化と宗教争乱   など。

検索サイトでこちらの記事にたどり着いた方も含め、よろしく御検討下さい。

コメントありがとうございました。

アマゾン大元出版ファンさんコメントありがとうございました。

私のような、素人のブログまで読んでいただきまして、感動です。検索サイトの検索ワード 「出雲王国」で私のブログにたどり着きましたか~(笑)私のブログも捨てたものではないですね。

私は歴史のプロではないので、自由気ままに思った事を書いておりますので、アマゾン大元出版ファンさんのように確信を持った発言は出来ませんが、出雲という土地に何度も立って感じたことを書いているのは事実ですし、そこをとても大事にしています。出雲については結構色々書いていますので、「出雲王国」以外の部分も読んでいただけましたらうれしいです。

「出雲王国」については、斎木雲州さんのお話の本を読んでほしいとのお考えなのですね?ありがとうございます。是非読ませていただきたいです。いろいろな議論があるのは良い事だと思います。定説と言えわれていることが新たな発見で変わってきていることは、私も認めています。

事実は一つしか無いのにも関わらず、いろいろな意見があり、近年新しいアプローチの方法で考古学にメスが入っているのが、楽しみだと思います。特に私は生物学(正確には分子人類学かな?・生物学が専門なので…)からのミトコンドリアDNAによる分析が面白いと考えます。

出雲は魅力的な土地で、神話も含めて大好きです。又必ず書きますので、読んでいただけましたらうれしいですね。よろしくお願いいたします。