高天原の圧力による政略結婚と『須勢理毘売命』の悲哀。
今日は『出雲繁栄』に至る大国主の奥様達について少しお話させて頂きます。建速須佐之男命の娘『須勢理毘売命』がメインなのですが、今日はまず神話の舞台を楽しんでいただきましょう。
その前に少し、今日は西宮神社の開門神社が有りました。毎年TV等で話題に成るので、皆さんもご存じですよね~。私の同僚、勿論若手(サッカー経験者)ですよ~(*^^*)、がチャレンジしてたんです。前回は最前列のA組108人に選ばれたので、「今回も」と期待したのですが、残念ながら抽選に漏れてしまいました。もし彼が抽選されていたら、開門神事の記事をUPするつもりだったのですが、来年に期待です。(笑)
ということで、神話のお話です。『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍はまず、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。そして須佐之男の娘『須勢理毘売命』と結ばれ大国主と呼ばれる様に成ります。まずはこの辺の神話、思い出して頂きましょう。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【再生した大穴牟遅命】
『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍は、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「再生するもまた殺害(ひつこい八十神)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。
因幡の国(稲羽の素兎物語)ヤガミヒメ(八上姫)に選ばれた、オオナムヂ(大穴牟遅命)の復活を知った八十神は、再度殺害を試みます。大木を切り倒して楔で割れ目を作り、そのなかにオオナムヂを入らせ、楔を引き抜いて打ち殺してしまいます。母親は泣きながらオオナムヂを探して大木をみつけ、すぐに木を裂いて取り出してまた生き返らせます。
母親は、「あなたはここにいたら、八十神に滅ぼされてしまうだろう」といい、木国のオオヤビコの所へ行かせることになります。オオヤビコの所へ行くと、追ってきた八十神がオオナムヂの引き渡しを求めてきます。オオヤビコはオオナムヂを木の股を潜り抜けさせて逃がし、スサノオのいる根の堅州国に向かうようにいいます。
【根の国訪問と須勢理毘売命との出会い】
根の国のスサノオ(須佐之男)の家で、オオナムヂ(大穴牟遅命)はスサノオの娘のスセリビメ(須勢理毘売命)と出会い、二人は一目で恋に落ちてしまいます。
スセリビメが「とても立派な神が来られました」というので、スサノオはオオナムヂを呼び入れますが「ただの醜男ではないか。葦原醜男(アシハラシコヲ)と言った方が良い。蛇の室にでも泊めてやれ(葦原醜男ですよ、ちょとひどくないですか、笑)」と、蛇がいる室に寝させます。スセリビメは「蛇の比礼(呪具・女性が、結ばずに首の左右から前に垂らすスカーフの様なもの)」を葦原醜男にさずけ、蛇が食いつこうとしたら比礼を三度振るよういいます。その通りにすると蛇は鎮まったので、葦原醜男は無事に一晩寝て蛇の室を出られました。
次の日の夜、スサノオは葦原醜男を呉公(ムカデ)と蜂がいる室で寝させた。スセリビメは「呉公と蜂の比礼」をさずけたので、葦原醜男は無事にムカデと蜂の室を出られた。
更に、スサノオは広い野原の中に射込んだ鳴鏑(なりかぶら)を拾うよう葦原醜男に命じます。葦原醜男が野原に入ると、スサノオは火を放って野原を焼き囲んでしまいます。
葦原醜男が困っていると鼠が来て、「内はほらほら、外はすぶすぶ」(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)と教えてくれます。それを理解した葦原醜男がその場を踏んでみると、地面の中に空いていた穴に落ちて隠れることができ、火をやり過ごすことができました。
また、その鼠はスサノオが射た鳴鏑を咥えて持って来てくれました。スセリビメは葦原醜男が死んだと思って泣きながら葬式の準備を始めます。スサノオは葦原醜男の死を確認しに野原に出てみると、そこに矢を持った葦原醜男が帰って来ます。
スサノオは葦原醜男を家に入れ、頭の虱を取るように言いつけます。ところが、その頭にいたのはムカデでした。葦原醜男は、スセリビメからもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくヒメにもらった赤土(これちょっと大事なので覚えいて下さいね。)を口に含んで吐き出していると、スサノオはムカデを噛み砕いているのだと思い、かわいい奴だと思いながら眠りに落ちてしまいました。
葦原醜男はこの隙に逃げようと考えると、スサノオの髪を部屋の柱に結びつけ、大きな石で部屋の入口を塞ぎました。スサノオの生大刀と生弓矢、スセリビメの天詔琴を持ち、スセリビメを背負って逃げ出そうとした時、琴が木に触れて鳴り響いてしまいます。
その音でスサノオは目を覚ましましたが、その際に髪が結びつけられていた柱を引き倒してしまいます。スサノオが柱から髪を解く間に、葦原醜男は逃げることができたのでした。
スサノオは、葦原中津国(地上)に通じる黄泉比良坂(よもつひらさか)まで葦原醜男を追いましたが、そこで止まって逃げる葦原醜男に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主神、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。分かったな!」といって二人の結婚を許します(出雲神国の三種の神器は刀・弓・琴ですね~(*^^*))。
葦原醜男は出雲国へ戻って大国主となりスサノオから授かった太刀と弓矢を持って、八十神を山坂の裾に追い伏せ、また河の瀬に追い払い、全て退けます。そしてスセリビメを正妻にして、宇迦の山(宇迦の山は今の出雲大社の後方・北側の山を指しますが、古代出雲王国を考えると、違和感を感じます。)のふもとの岩の根に宮柱を立て、高天原に届く様な立派な千木(ちぎ)のある新宮を建てて住み、国づくりを始めました。
大国主はダイコクと読めることから、同じ音である大黒天と習合して民間信仰に浸透しています。子のがえびすに集合していることから、大黒様とえびすは親子といわれるようになっています。
日本書紀本文によるとスサノヲの息子であるとの記述もあり、また古事記や日本書紀の一書、新撰姓氏録によると、スサノヲの六世の孫、また日本書紀の別の一書には七世の孫などとされています。
【モテモテ大国主の妻問】
ヤガミヒメ(八上姫)は本妻のスセリビメ(須勢理毘売命)を恐れ、オオナムヂ(大穴牟遅命)との間に生んだ子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまいます。スセリビメはさすがにスサノオの娘ちょっとやんちゃで怖いです。(笑)
ヤチホコ(八千矛神、大国主の別名)は高志国のヌナカワヒメ(沼河比売)をめとろうと出かけ、歌をよみかわします。そのため、妻のスセリビメが大変嫉妬しました。困惑したヤチホコは出雲国から大和国に逃れる際にスセリビメに歌をよむと、スセリビメは杯を捧げて留める歌を返しました。二神は杯を交わし、今に至るまで二神は仲睦まじく出雲大社に鎮座することとなったともいわれます(というのが出雲大社の祭神としてのお話ですね)。
大国主は多妻な事でも知られており、様々な女神との間に子をもうけました。その数、約180柱も居られます(モテモテですね)。そんな大国主の妻は古事記と日本書紀の記述の中では上記三人の他に、「宗像三女神」の一柱で『古事記』ではタギリヒメ(多紀理毘売命)とも結ばれています。古事記の大国主神の系譜では、大国主神との間にアジスキタカヒコネ(阿遅鉏高日子根神・味耜高彦根神)とシタテルヒメ(下照姫)を生んだと記されています。
さらに、カムヤタテヒメ(神屋楯比売)。コトシロヌシ(事代主神)の母、出雲の国譲りに際し、大国主がその意見を聞いたことは、この神が神の託宣を伝える役であったと推測されます。
まだまだ居られる様ですが、問題なのはこの方です。ミホツヒメ(三穂津姫)です。ミホツヒメは、日本神話に登場する女神です。高皇産霊尊の娘で、大国主神あるいは大物主神の神后です。
『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場します。大穴牟遅命(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔しました。
本妻はスサノオの娘スセリビメですよね、タギリヒメも誓約で生まれた宗形三女神の一人ですよ、それでも天孫系では無いということですよね~ということはスサノオとアマテラスは本当の姉弟ではないのか?ちょっと面白く成って来たと思いませんか?
【国譲りと須勢理毘売命の哀愁】
三穂津姫は大国主大神の后神として高天原から稲穂を持って降り、稲作を出雲地方に広めたと言われています。后という漢字は正妻の意味です。大国主大神の正妻といえば須世理姫神を思い浮かべますが、三穂津姫神は国譲り後、出雲の姫神が正妻であるのは信用出来ないと、国譲りの証と誓いの一つとして高天原より降嫁したと言われます。
さて、「須勢理毘売」ですが「古事記」には、お二人は杵築の日隅宮(出雲大社)でお暮らしになったと記されております。ですが鳥取県西伯郡大山町唐王にある『唐王神社(とうのうじんじゃ)』は、須勢理毘売が最後を迎えた場所として知られています(現在はあまり知られてはいないと思いますが、古くは有名だったようです。出雲大社から80kmも離れています。そのように離れて暮らしたことは不思議ですが、当時はこの地方も出雲国の一部だったと私は考えています。
別居された理由は「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」という高皇産霊尊の一言です。このような経緯により、大国主神には新たに三穂津姫という天孫系神后ができたのです。ですから須勢理比売命は唐王へ別居せざるをえなかったと考えます。
唐王(とうのう)という村名は珍しいと思いませんか?鳥取県神社誌にあるように、昔ほとんど交通網のなかった時代は、海の向こうや遠方の国はみな加羅と言っていました。ですから夜見の国から船で来られた須勢理比売命を、唐(から)の王と呼んできました。それが村名になったとのことです。須勢理比売命は海辺の近くの国信辺りに着岸されたようですが、波の音が近すぎると末吉へ移っています。しかしそこも音が近く末長へ移住、そこでもまだ音が近いと唐王へ移られたたとの言い伝えがあります。
今回その、須勢理比売命の言い伝えを追って、着岸場所の国信から末吉・末長・唐王へと女神の足跡をたどる旅に出て来ました。これが大変!土地の古老も全く知らない場所やwebにも載っていない場所を探して駆けずりまわり移住ルートを発見してきましたので、ご紹介しましょう。今日はここまでです。次回のお楽しみですね~それによければですが、プレゼントもありますので期待して?ください。(笑)
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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その前に少し、今日は西宮神社の開門神社が有りました。毎年TV等で話題に成るので、皆さんもご存じですよね~。私の同僚、勿論若手(サッカー経験者)ですよ~(*^^*)、がチャレンジしてたんです。前回は最前列のA組108人に選ばれたので、「今回も」と期待したのですが、残念ながら抽選に漏れてしまいました。もし彼が抽選されていたら、開門神事の記事をUPするつもりだったのですが、来年に期待です。(笑)
(今人気の出雲大社のうさぎさんもちろん因幡の素うさぎですが全部で何匹居るのかな?)
ということで、神話のお話です。『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍はまず、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。そして須佐之男の娘『須勢理毘売命』と結ばれ大国主と呼ばれる様に成ります。まずはこの辺の神話、思い出して頂きましょう。
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【再生した大穴牟遅命】
『古事記』での出雲神話の主人公『大国主(大穴牟遅命)』の活躍は、「因幡の素兎(これでしろうさぎです)」「燃え盛る猪岩(八十神の嫉妬)」「再生するもまた殺害(ひつこい八十神)」「復活して根の国へ逃亡(母の愛)」と進んで行きます。
因幡の国(稲羽の素兎物語)ヤガミヒメ(八上姫)に選ばれた、オオナムヂ(大穴牟遅命)の復活を知った八十神は、再度殺害を試みます。大木を切り倒して楔で割れ目を作り、そのなかにオオナムヂを入らせ、楔を引き抜いて打ち殺してしまいます。母親は泣きながらオオナムヂを探して大木をみつけ、すぐに木を裂いて取り出してまた生き返らせます。
母親は、「あなたはここにいたら、八十神に滅ぼされてしまうだろう」といい、木国のオオヤビコの所へ行かせることになります。オオヤビコの所へ行くと、追ってきた八十神がオオナムヂの引き渡しを求めてきます。オオヤビコはオオナムヂを木の股を潜り抜けさせて逃がし、スサノオのいる根の堅州国に向かうようにいいます。
【根の国訪問と須勢理毘売命との出会い】
根の国のスサノオ(須佐之男)の家で、オオナムヂ(大穴牟遅命)はスサノオの娘のスセリビメ(須勢理毘売命)と出会い、二人は一目で恋に落ちてしまいます。
スセリビメが「とても立派な神が来られました」というので、スサノオはオオナムヂを呼び入れますが「ただの醜男ではないか。葦原醜男(アシハラシコヲ)と言った方が良い。蛇の室にでも泊めてやれ(葦原醜男ですよ、ちょとひどくないですか、笑)」と、蛇がいる室に寝させます。スセリビメは「蛇の比礼(呪具・女性が、結ばずに首の左右から前に垂らすスカーフの様なもの)」を葦原醜男にさずけ、蛇が食いつこうとしたら比礼を三度振るよういいます。その通りにすると蛇は鎮まったので、葦原醜男は無事に一晩寝て蛇の室を出られました。
次の日の夜、スサノオは葦原醜男を呉公(ムカデ)と蜂がいる室で寝させた。スセリビメは「呉公と蜂の比礼」をさずけたので、葦原醜男は無事にムカデと蜂の室を出られた。
更に、スサノオは広い野原の中に射込んだ鳴鏑(なりかぶら)を拾うよう葦原醜男に命じます。葦原醜男が野原に入ると、スサノオは火を放って野原を焼き囲んでしまいます。
葦原醜男が困っていると鼠が来て、「内はほらほら、外はすぶすぶ」(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)と教えてくれます。それを理解した葦原醜男がその場を踏んでみると、地面の中に空いていた穴に落ちて隠れることができ、火をやり過ごすことができました。
また、その鼠はスサノオが射た鳴鏑を咥えて持って来てくれました。スセリビメは葦原醜男が死んだと思って泣きながら葬式の準備を始めます。スサノオは葦原醜男の死を確認しに野原に出てみると、そこに矢を持った葦原醜男が帰って来ます。
スサノオは葦原醜男を家に入れ、頭の虱を取るように言いつけます。ところが、その頭にいたのはムカデでした。葦原醜男は、スセリビメからもらった椋(むく)の実を噛み砕き、同じくヒメにもらった赤土(これちょっと大事なので覚えいて下さいね。)を口に含んで吐き出していると、スサノオはムカデを噛み砕いているのだと思い、かわいい奴だと思いながら眠りに落ちてしまいました。
葦原醜男はこの隙に逃げようと考えると、スサノオの髪を部屋の柱に結びつけ、大きな石で部屋の入口を塞ぎました。スサノオの生大刀と生弓矢、スセリビメの天詔琴を持ち、スセリビメを背負って逃げ出そうとした時、琴が木に触れて鳴り響いてしまいます。
その音でスサノオは目を覚ましましたが、その際に髪が結びつけられていた柱を引き倒してしまいます。スサノオが柱から髪を解く間に、葦原醜男は逃げることができたのでした。
スサノオは、葦原中津国(地上)に通じる黄泉比良坂(よもつひらさか)まで葦原醜男を追いましたが、そこで止まって逃げる葦原醜男に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主神、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。分かったな!」といって二人の結婚を許します(出雲神国の三種の神器は刀・弓・琴ですね~(*^^*))。
葦原醜男は出雲国へ戻って大国主となりスサノオから授かった太刀と弓矢を持って、八十神を山坂の裾に追い伏せ、また河の瀬に追い払い、全て退けます。そしてスセリビメを正妻にして、宇迦の山(宇迦の山は今の出雲大社の後方・北側の山を指しますが、古代出雲王国を考えると、違和感を感じます。)のふもとの岩の根に宮柱を立て、高天原に届く様な立派な千木(ちぎ)のある新宮を建てて住み、国づくりを始めました。
大国主はダイコクと読めることから、同じ音である大黒天と習合して民間信仰に浸透しています。子のがえびすに集合していることから、大黒様とえびすは親子といわれるようになっています。
日本書紀本文によるとスサノヲの息子であるとの記述もあり、また古事記や日本書紀の一書、新撰姓氏録によると、スサノヲの六世の孫、また日本書紀の別の一書には七世の孫などとされています。
【モテモテ大国主の妻問】
ヤガミヒメ(八上姫)は本妻のスセリビメ(須勢理毘売命)を恐れ、オオナムヂ(大穴牟遅命)との間に生んだ子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまいます。スセリビメはさすがにスサノオの娘ちょっとやんちゃで怖いです。(笑)
ヤチホコ(八千矛神、大国主の別名)は高志国のヌナカワヒメ(沼河比売)をめとろうと出かけ、歌をよみかわします。そのため、妻のスセリビメが大変嫉妬しました。困惑したヤチホコは出雲国から大和国に逃れる際にスセリビメに歌をよむと、スセリビメは杯を捧げて留める歌を返しました。二神は杯を交わし、今に至るまで二神は仲睦まじく出雲大社に鎮座することとなったともいわれます(というのが出雲大社の祭神としてのお話ですね)。
大国主は多妻な事でも知られており、様々な女神との間に子をもうけました。その数、約180柱も居られます(モテモテですね)。そんな大国主の妻は古事記と日本書紀の記述の中では上記三人の他に、「宗像三女神」の一柱で『古事記』ではタギリヒメ(多紀理毘売命)とも結ばれています。古事記の大国主神の系譜では、大国主神との間にアジスキタカヒコネ(阿遅鉏高日子根神・味耜高彦根神)とシタテルヒメ(下照姫)を生んだと記されています。
さらに、カムヤタテヒメ(神屋楯比売)。コトシロヌシ(事代主神)の母、出雲の国譲りに際し、大国主がその意見を聞いたことは、この神が神の託宣を伝える役であったと推測されます。
まだまだ居られる様ですが、問題なのはこの方です。ミホツヒメ(三穂津姫)です。ミホツヒメは、日本神話に登場する女神です。高皇産霊尊の娘で、大国主神あるいは大物主神の神后です。
『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場します。大穴牟遅命(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔しました。
本妻はスサノオの娘スセリビメですよね、タギリヒメも誓約で生まれた宗形三女神の一人ですよ、それでも天孫系では無いということですよね~ということはスサノオとアマテラスは本当の姉弟ではないのか?ちょっと面白く成って来たと思いませんか?
【国譲りと須勢理毘売命の哀愁】
三穂津姫は大国主大神の后神として高天原から稲穂を持って降り、稲作を出雲地方に広めたと言われています。后という漢字は正妻の意味です。大国主大神の正妻といえば須世理姫神を思い浮かべますが、三穂津姫神は国譲り後、出雲の姫神が正妻であるのは信用出来ないと、国譲りの証と誓いの一つとして高天原より降嫁したと言われます。
さて、「須勢理毘売」ですが「古事記」には、お二人は杵築の日隅宮(出雲大社)でお暮らしになったと記されております。ですが鳥取県西伯郡大山町唐王にある『唐王神社(とうのうじんじゃ)』は、須勢理毘売が最後を迎えた場所として知られています(現在はあまり知られてはいないと思いますが、古くは有名だったようです。出雲大社から80kmも離れています。そのように離れて暮らしたことは不思議ですが、当時はこの地方も出雲国の一部だったと私は考えています。
別居された理由は「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」という高皇産霊尊の一言です。このような経緯により、大国主神には新たに三穂津姫という天孫系神后ができたのです。ですから須勢理比売命は唐王へ別居せざるをえなかったと考えます。
唐王(とうのう)という村名は珍しいと思いませんか?鳥取県神社誌にあるように、昔ほとんど交通網のなかった時代は、海の向こうや遠方の国はみな加羅と言っていました。ですから夜見の国から船で来られた須勢理比売命を、唐(から)の王と呼んできました。それが村名になったとのことです。須勢理比売命は海辺の近くの国信辺りに着岸されたようですが、波の音が近すぎると末吉へ移っています。しかしそこも音が近く末長へ移住、そこでもまだ音が近いと唐王へ移られたたとの言い伝えがあります。
今回その、須勢理比売命の言い伝えを追って、着岸場所の国信から末吉・末長・唐王へと女神の足跡をたどる旅に出て来ました。これが大変!土地の古老も全く知らない場所やwebにも載っていない場所を探して駆けずりまわり移住ルートを発見してきましたので、ご紹介しましょう。今日はここまでです。次回のお楽しみですね~それによければですが、プレゼントもありますので期待して?ください。(笑)
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