下照姫命を追いかけて!付いた先には「三ノ宮」『倭文神社』 - 「高天原の縁側日記」
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2018/01/06

下照姫命を追いかけて!付いた先には「三ノ宮」『倭文神社』

倭文神社(しとりじんじゃ)これが読めれば、貴方は神社おたく!昨日ご紹介した、伯耆一ノ宮倭文神社に行きたくて、カーナビを操作して到着した場所は、「倭文神社」当然だけど行き先を間違えたなんて、思わないよね。(笑)

例え、其が三ノ宮だったとしても、それから一宮に辿り着いてお詣りするのに二年間かかりました。まあ一年半は勘違いに気が付かなかっただけですけれどね。

CIMG6546.jpg(三ノ宮・倭文神社の鳥居)

せっかくなので、伯耆三ノ宮の『倭文神社』をご紹介すると共に、一ノ宮や二ノ宮についても、お話させて下さいね(#^.^#)

今年も私と一緒に日本の歴史散策にお付き合いくださいね~。それではみんなで~~「歴史にGO!」

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【「三ノ宮」『倭文神社』】

CIMG6547.jpg(三ノ宮・倭文神社ご由緒)
CIMG6548.jpg(拝殿正面ですがちょっと歪んでます(;^_^A)

創立年代は不詳ですが、延喜式神名帳記載の神社(弐内社)です。古くより武門武将の信仰が厚く、中世には山名氏、吉川氏、南条氏(伯耆の国人毛利を離反して秀吉軍に剛力する)などに崇敬され、江戸時代に入っては旧鳥取藩池田家の祈願所として隆昌を極めた神社です。 

倭文とは「シツオリ」のつまった形で(シツ「日本古来の文洋」オリ「織」)、当時この一帯(現在でも倉吉絣は山陰三大絣として有名)。は、日本古来の織物(倭織)が盛んで、この地に移り住んだ特殊技能を持った集団「倭文部」が、氏神(倭文神)として機織の祖神「武葉槌神」を祀ったのが始まりと考えられます。

住所の「志津」は、社名の「倭文」から転じたもので、やがてこの里がシツ(志津)となったと思われます。武葉槌神(武神の一面があることは前回お話しました。)国譲り神話出での出雲進軍の際、陣営をかためたがこの地で、倭文神社はこの神跡であると伝えられているようです。

【御祭神】

P8260205.jpg(下照姫命の伝承が多く残ります。)
P8260206.jpg(東郷湖絶景、左奥に大山が見えます。)
P8260213.jpg(出雲山からの東郷湖絶景~!)

武葉槌神(たけはづちのかみ)機織・織物の神、国土平定の神
下照姫命(したてるひめのみこと)安産の神、婦人病の神、和歌の神
經津主神(ふつぬしのかみ)武の神、風土平定の神、体育・運動の神

ここでも一ノ宮と同じように武葉槌神と下照姫命が何故かセットに成っています。鳥居の傍らには戦争殉職者碑らしい石版がありました。建葉槌命(たけはづち)は全国平定に功績があったことから武神としての一面が戦前は大きく祀られていたようです。残念ながら現在では人気がない。一方下照姫命は大国主の神裔に、宗像三女神のタギリ姫を妻として生んだ子として、兄アジスキタカヒコネと一緒に紹介されています。

下照姫命は国譲りで、高天原が送り込んだ第二交渉人のアメノワカヒコと結婚した女神です。出雲族と宗像族の血を受けた馬女神です。安産の神様として慕われてきました。現代の安産の定義は、一人か二人の子供を産み母子健康な状態と思いますが、戦前までは「産めや増やせや」のスローガンで、五~六人の子供を産み、しかもその都度すぐに家事ができる状態を安産と考えていました。

下照姫命は、よほど健康な女神(女性)だったと思われます。農家の若嫁の守護神として慕われています。一方で和歌の神としても有名?なのですが、日本書紀の一文に兄アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれ、これが和歌の原型と言われるからです。

P8260216.jpg(下照姫命伝承は此処にも…)
P8260223.jpg(弁財天は宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命と同一視されます。母親、田心姫命の姉妹関連があるのかな?)

【二つの大きな倭文神社と二つの二ノ宮】

伯耆国(ほうき)、今の鳥取県西部には二つの大きな倭文神社がああります。一つはここで、もう一つは前回ご紹介した「倭文神社」です。古来より伯耆国一宮は倭文神社であるとされていましたが、近年には二つの「倭文神社」のどちらが一ノ宮か議論がありました。一時はこちらが一宮とされていた事もありましたが、大正になって東郷「の倭文神社」の参道脇にある経塚から発掘された経筒の銘文によって、そちらが一宮であることが判明しました。その後、こちらは三ノ宮と名乗る事になったようです。

因みに、伯耆国二宮は大神山神社(おおがみやま)とされていますが、これもまた最近は倉吉の波波伎神社(ははき)が同じく二ノ宮を称していて混乱があるようです。私的には大神山神社(おおがみやま)は、大山を信仰する自然信仰であり、古事記などの神話からの関連性を考えると、倉吉の波波伎神社は事代主の終焉の地とも言われ、社殿裏手に古墳も有るようなので、そちらが二ノ宮の方が納得できると考えています。

CIMG6593.jpg(大神山神社、こちらは大山奥の宮ではなく、米子市内にあります。)
CIMG8661.jpg(倉吉の波波伎神社、どちらが二ノ宮)

志津は小さな集落で中の道は大変狭いのです。自動車一台分の幅しかないような砂利道を進み、軽自動車でなければ曲がり切れないような直角のカーブを折れると正面が神社でした。一時は伯耆国一宮ではないかと考えられていただけに、集落の大きさにしては立派過ぎる規模の神社でした。

日本書紀によれば、高天原の天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にこの国である葦原中国を治めさせようと思い、出雲にいた大国主命に国譲りを迫り、平定させるため建御雷神(たけみかづちの神)と経津主神(ふつぬしのかみ)を遣わした。結局、ニ神の前に出雲は国を譲り渡すことになります。

その後更に、ニ神は従わない神々などを退治して行くのですが、星の神香香背男神(ほしのかがせおのかみ)だけが手に余り、倭文神である建葉槌命を遣わして服従させたとあります。何故、機織の倭文神であるはずの建葉槌命が、軍神、剣の神であるとされる建御雷神と経津主神が敵わない相手を倒せるのかということなのですが、私は単純に「錦の御旗」と考えたいです。

【「一ノ宮」『倭文神社』の禊水】

P8260186.jpg(宮内井戸の椿)
P8260192.jpg(大きな椿ですね~。)
P8260195.jpg(井戸は塞がれて、水は村へ流れているようです。)

「一ノ宮」『倭文神社』の登り口に宮内井戸という禊水があります。前回ご紹介できなかったのでご紹介するとともに、「三ノ宮・倭文神社」を訪れた頃はブログも書いて居ませんでしたので、写真が少ない事をご了解いただけますとありがたいです。さらに全く「一ノ宮と三ノ宮」を間違えた事にきずかなかった訳ですが、そのおかげで両方の『倭文神社』にお詣りできたことは、喜ばしいかぎりです。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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