「小泉八雲」作『水飴を買う女』のモデルに成った人物のサインがわが家に? - 「高天原の縁側日記」
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2017/12/20

「小泉八雲」作『水飴を買う女』のモデルに成った人物のサインがわが家に?

小泉八雲(ラフカディオハーン)の 怪談「飴を買う女」は、島根県松江市民なら知らない人は居ないし、そのモデルと成った寺は「大雄寺」といってとても有名らしいのです(残念ながら、私はまだお参りしておりません)。

そして、皆さんも必ず知っている『ゲゲゲの鬼太郎』の最初のシリーズともいえる、『墓場奇太郎』はこの「水飴を買う女」を参考に、水木しげるさんが創作されたものです(知ってましたか~?)。

PC200008.jpg(立本寺の幽霊飴です)

実は有名とは言いがたいので、皆さんご存知無いかとも思いますが、前回「島左近」のお墓を紹介した、京都日蓮宗『立本寺』の高僧が元々のモデルらしいのですがご存知でしょうか。

水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」の原作、小泉八雲「飴を買う女」の原作?ともいえる、立本寺の高僧『日審上人』のお話をご紹介しましょう。こちらは実在の人物で、我が家に幽霊に育てられた「ご本人証拠の品」が残っているんです。

それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【全国に存在する「子育て幽霊」、「飴買い幽霊」の話】

PC200013.jpg(ほんのりと甘い、心に染み入る味わいです。)

似たような話が日本各地で聞かれ、島根県松江市では藩主が舟で大溝を通ってお参りしたという「大雄寺」に伝わっています。

中原町に、水飴を売っている小さな飴屋の店があった。水飴というのは、麦芽からつくった琥珀色の糖液で、乳のない子あたえるものである。
この飴屋へ、毎晩、夜が更けてから色の青ざめた女が白い着物を着て、水飴を一厘買いにくる。飴屋は、女があんまり痩せて、顔の色が悪いものだから、不審に思って、親切にたびたび尋ねてみたが、女は何も答えない。
とうとう、ある晩のこと、飴屋は物好きに女のあとをつけて行ってみると、女が墓場へ帰ってゆくので、飴屋は怖くなって家へ戻ってきた。

そのあくる晩、女はまたやってきたが、その晩は水飴は買わずに、飴屋に自分と一緒に来てくれといって、しきりに手招きをする。そこで飴屋は、友達と語らって女の後について墓場へ行ってみた。
とある石塔のところまでくると、女の姿がぱっとかき消えた。すると地面の下から、赤児のなき声が聞こえる。それから、みんなして石塔を起こしてみると、墓の中には、毎夜水飴を買いに来た女の骸(むくろ)があって、そのそばに、生きている赤児がひとり、差し出した提灯の火を見て、にこにこ笑っていた。

そして、赤児のそばには、水飴を入れた小さな茶碗がおいてあった。この母親はまだほんとに冷たくならないうちに葬られたために、墓の中で赤児が生まれ、そのために、母親の幽霊が、ああして水飴で子供を養っていたのである。

小泉八雲は、「母の愛は死よりも強いのである」と結んでいます。松江に伝わる民話は、「娘は北堀町のある家にもらわれて良い娘に育ったゲナ(松江では女の子です)」としています。北堀町は、お城の北に位置する町で、職人の町ですから多分職人のおかみさんになったかもしれません。

小泉八雲は「母親の愛の強さ」を物語の結びにしました。幼くして母ローザと生き別れた自分の境遇への思いから出た言葉だろう。」と大雄寺の山門に記載されています。

(出典 平井呈一訳「小泉八雲作品集」)

水木しげるさんの、漫画「ゲゲゲの鬼太郎」(紙芝居『ハカバキタロー(墓場奇太郎)』原作:伊藤正美、作画:辰巳恵洋)は、この話をモチーフにして生まれたとされます。

【ご本家?京都市東山区『幽霊子育飴』 】

幽霊子育飴の伝承が残る「六道の辻」 、六道珍皇寺門前で四百年余り前から売られていた麦芽糖の飴「幽霊子育飴」だそうです。

慶長四(1599)年、夜な夜な若い女が飴を買いに来ました。不審に思った飴屋の主人が後をつけると、鳥辺山の墓地で姿を消してしまいます。翌日、寺の住職と一緒に墓地に向かうと、盛り土の中から赤子の声がします。掘り返すと、女の遺体の横で赤子が飴をしゃぶっていました。赤子は八歳で僧となり母の菩提(ぼだい)を弔い、寛文六(1666)年3月15日、高名な僧として68歳で亡くなりました。

飴を販売する「みなとや幽霊子育飴本舗」は、後継者難などから委託販売を続けていましたが、数年前に少し西の西福寺門前に移転しています。「六道の辻」は、平安時代以来の葬送の地、鳥辺山のふもとにあり、現世と冥界との境域とされて来ました。

【それでは、元祖!立本寺に伝わる話のご紹介】

CIMG0344.jpg
(前回鬼子母神のおはなしを少しだけしました?曼陀羅の鬼の文字角が無くなっているのがお解りですか?鬼子母神が仏に帰依したことで角が落ちたんです。)


上京区・立本寺に伝わる話では、赤子は同寺二十世貫首、日審上人(1599~1666)だといわれます(我が家のご先祖三十世貫首日應の十代前の貫首です)。壺(つぼ)を図案化した花押を用いたことから、「壺日審」と親しまれ、生涯に二万回余りの説法を行ったといいます。同寺にまつられる上人の木像は安産守護の信仰を集めています。

現貫首の上田尚正上人は「飴は滋養のある食べ物。墓の近くで、飴を与えて子育てした母親がいたのだろう。ある程度、史実に基づいた話では?」と推測されているようです。死が身近だった殺伐とした時代を思わせますが、心に染み入る話です。飴に劣らず、味わい深い話です。

もちろん、立本寺でも「幽霊子育飴」が販売されています(丁度私が訪れた時は団体のお参りが有り、多めに残っていました)。立本寺の説明によれは、女性は毎夜1文銭を持って飴屋「みなとや」に飴を買いに来たが、7夜目の1文銭は暫らくすると「しきみの葉」と化し、不審に思った飴屋が女性の後を追っていって、女性が姿を消した寺の墓地まで来ると、土の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるではありませんか、慌てて寺の住職とともにお墓を掘り起こすと、大きな壺の中から飴を食べて丸々と太った赤ん坊と、その傍らに毎晩飴を買いに来ていた女性の遺体が見つかりました。

身ごもったまま亡くなった女性は、樽の中で産んだ赤ん坊の命をつなぐため、幽霊となって飴を買いに来ていたのです。三途の渡し賃は六文(真田家の家紋でも有名ですね)7夜目にはお金が尽きていたのです。そのときの赤ん坊は住職が育て「日審」と名づけました。

助けられた子どもはのちに出家して立本寺第二十世・霊鷲院日審上人となったと言われています。後にこの日審上人は、京都本圀寺(ほんこくじ・水戸光圀が造った京都日蓮宗大本山)にある壇林(だんりん・僧侶の養成機関)の化王(かおう・校長)となり、多くの学生を育成し、日本全国を遊説してまわりました。

釈迦(しゃか)の十大弟子の一人、説法第一とうたわれた富楼那尊者(ふるなそんじゃ)の名をいただいたのも、説法の回数が2万余座にも及んだからだと言われます。「子育て幽霊」「飴買い幽霊」伝説は説法で全国をまわった日審上人自らが各地で語ったからとは考えると納得がいきますね。

大阪堺市の櫛笥寺には、日審上人の墓が有るようです。母親は堺の織屋、絹屋清左衛門の娘、お梅です。お梅の膝に丸まるとした赤ん坊が抱かれていた(当時は横に寝る棺桶(かんおけ)ではなく、壺(つぼ)の中に座らせるようにして入れた)と伝わっているようです。

この飴買い幽霊の話は「大阪伝承地誌集成」にも書かれており、そこでは京都が舞台の話として紹介されています。飴家徳兵衛も絹屋清左衛門の娘、お梅の名も同じですが、日審上人が堺に来て、櫛笥寺の住職になることになっています。また、祖父の清左衛門が日審を援助するべく、彼も堺に織物業者を大勢連れて近くに移住したとあり、それが堺市絹屋町の起こりであると書かれています。

【落語「幽霊飴」】

私の大ファン、桂米朝によると、上方落語の2代目桂文之助による落語に『幽霊飴』という話があるそうです。夜、女が六道あたりの飴屋に飴を買いに来るというあらすじはほぼおなじですが、落語では女が姿を消した墓の場所が高台寺(コヲダイジ=子を大事)という落ちになっています。高台寺は秀吉の妻ねねのお寺です。自分の子宝に恵まれなかったねねの心がしみいるお話です。

【最後にお見せするのは幽霊に育てられた『日審聖人』直筆花押です。】

その赤ん坊は後にお坊さんになり、立本寺の20世貫首『日審聖人』になったと伝わっています。そんなお話が伝わる立本寺では怪談番組の収録が行われたり、かつては大河ドラマ『織田信長』のロケも行われたこともあるそうです。『日審聖人』壺から生まれただけあって花押もつぼ型なんです。ちょっと面白いと思いませんか?見たいですか?お見せしましょう~~~!

CIMG8063.jpg
(まず我が家の日蓮上人像です。額の傷が分かりますか?)
CIMG8064.jpg(小松原法難の傷が有る像は珍しいです。)

日蓮聖人といえば綿帽子、日蓮宗では祖師像(日蓮聖人像)に綿帽子をおつけする慣わしがあります。わが家では全くですが(-"-;A ...アセアセ。

なぜ、綿帽子するようになったかと申しますと、日蓮聖人小松原法難に由来します。小松原で東条景信の襲撃をうけた日蓮聖人は額に傷をうけました。傷から流 れる血を小川や井戸の水で洗いながら、岩高山の洞穴に身を休めているとき、通りかかった老婆のおいちが自分のかぶっていた真綿を差出し「傷口に風を当てて は痛みまする。どうぞこれで寒さをおしのぎ下さい。」と差上げました。その時額にのせた綿は、血潮で赤くそまったといわれます。これが、日蓮上人像におつ けする綿帽子の由来です。

CIMG8069.jpg
(そして最後に日蓮像の真裏と台座裏に在る日審聖人のつぼ型花押つまり、1666年以前の仏像ということに成りますね。)

これ実は凄い事なんです。日蓮宗の皆さんはお解りだと思いますが、値段の問題ではございません~(笑)。家に在って良いの物なのか?思案のしどころです。

歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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