芭蕉さん、「夏草や兵どもが夢のあと」の句は何故関ヶ原じゃないんですか?
関ケ原の取材中に「これは取材をしていた方が良いな」と思った場所が有ったので、本日は少しストーリー的にはずれるのですが、松尾芭蕉の『おくのほそ道』最後の場所をご紹介したいと思います。
その場所とは、「関ケ原からすぐの大垣市、大垣城のすぐ近くです。「関ケ原」時代の大垣城では惣構えの堀の内側に成ると思います。
『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行分と俳諧です。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「 月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆき) かふ年も又旅人也(たびびとなり)。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて 老(おい)をむかふる物(もの)は、日々(ひび)旅にして旅を栖(すみか)とす。古人(こじん)も 多く旅に死せるあり。」という序文より始まりますね。ここまでは自慢じゃないですが暗記してました。若い頃は暗記が得意でしたね「平家物語」「つれづれ草」「日本憲法前文」等は今でもある程度覚えてますね。(自慢しちゃった、笑)
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【何故大垣が最終地?】
「奥のほそ道(奥の細道)」は、1996年に松尾芭蕉の自筆本が発見されて話題になりました。芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689この東北・北陸の旅は、元禄2年(1689)の3月27日(陽暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いた旅行記です。9月6日(陽暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっています。
この旅行は、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った大旅行でした。その跡をたどると各所に句碑が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、応時の芭蕉の旅をしのぶことができます。
江戸時代の俳人松尾芭蕉は、伊賀の武士出身といわれ、寂(さび)・撓(しお)り・細み・軽みを重んじて幽玄・閑寂の境地を求め、幽玄閑寂の蕉風俳諧を確立しました。その、生涯は日本各地を旅して、名所旧跡を回り、歌枕を巡り、様々な人とまじわっています。
それは、「笈の小文」「更級紀行」「野ざらし紀行」などの書物に著されていますが、最も有名なのは晩年の「奥のほそ道」の旅です。そして、最後に西へ向かって旅立ち、大阪の南御堂で門人に囲まれ息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も『旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る』というものでした。
私の様な素人には分かるはずもありませんが、大垣を過ぎると東海道に出ます。怒らないらないでくださいよ、東名高速はほそ道では無いって事ではないですかね?(ほら、怒らないでって言ったのに~(;^_^A アセアセ・・・)。真面目なんですよ、東海道には芭蕉が目指した、寂(さび)・撓(しお)り・細み・軽みを感じなかったということではないかと思うのです。
【何冊もバージョンが有るって知ってました?】
推敲の跡多い原本には中尾本(おくの細道)と曾良本(おくのほそ道)があり、個々の芭蕉による真筆箇所もしくは訂正箇所(あるいはその真贋をも唱える学者もいる)については現在でも議論が分かれています。
そして1996年芭蕉本人の自筆本発見!真筆本が発見されたのは、平成8年のことです。古い文献に「芭蕉の真筆の『奥の細道』は門人の一人の野坡のもとにある。」と記されているので「野坡本」と推定されました。真贋については論議を呼びましたが、草稿本であると定着しているようです。
「曾良本」は芭蕉の弟子利牛が自筆本を筆写し、芭蕉が改めて推敲、朱や墨で補訂を加えた本で、曽良または門人・利牛の書写とされる本書には訂正や書入れなどがあり、「おくのほそ道」成立までの推敲過程を伝える重要な資料となっています。本書は、曽良の死後、故郷上諏訪の河西周徳(曽良の甥)に随行日記とともに伝えられ、その後、古美術収集家の斎藤幾太などに伝わり、現在、随行日記とともに天理大学附属天理図書館錦屋文庫に所蔵されています。これより本書は「天理本」とも称されます。
「西村本」は芭蕉の弟子で能書家の素竜が芭蕉の依頼で「奥のほそみ道(題字は本人が記載)」を清書したのが、福井の西村家に伝わった本です。柿衞本は兵庫県伊丹市の柿衞翁岡田利兵衛に伝わった素竜が清書本の一つです。この柿衞本・西村本は共に素龍本(素龍清書本)とも呼ばれる(柿衞本の発見以前は、西村本のみがそう呼ばれていました)。
西村本の題簽(外題)「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされます。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づ物です。 この初版本は現在1冊しか確認されていませんが、増し刷りされ広まったため版本は多く残ります(本文に変化は見られない)。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は西村本を指す事に成り(中学校でも奥の細道で無く「おくのほそ道」と教えているようです)。
「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本とともに発見されています。
【おくのほそ道の行程を簡潔に説明しましょう。】
ほとんどの旅程で曾良を伴い、桜の花咲くころの元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵さいとあんを出発し「初句」が詠まれました。
『行く春や 鳥啼魚の 目は泪』
船に乗って千住に渡り、そこから日光街道で草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ着きます。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長となる十数日間滞在する地となりました。 ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入ります。須賀川、飯坂、仙台と渡り歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されています。
5月13日 藤原三代の栄華をしのび、二句詠んでいます。「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。
『夏草や 兵つはものどもが 夢のあと』
「五月雨の 降り残してや 光堂」
光堂と経堂は鞘堂に囲まれ開帳されていなかったと伝えられこれら二つ堂を芭蕉はは見ていないとされます。
ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って山寺(立石寺)に立寄り、「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉の聲こえ」の句を残します。 日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟きさかたに到達します。
当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評しています。 ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んでいます。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を歩いて渡り、美濃国の大垣で「おくのほそ道」は終了しています。
露通もこの港まで出迎え(にきており)、美濃へと一緒に行きます。8月21日頃馬に支えれて大垣の荘園に入ると、曾良(一度体を壊して山中温泉で分かれて伊勢で治療)も伊勢から来て合流し、越人も馬を飛ばして、如行の家に集合します。
前川子や荊口の親子、そのほかの仲の良い人たちも、日夜訪れてきて、まるで生き返った人に会うかのように、一方では喜び一方ではねぎらってくれました。旅の(疲れからくる)心の重さもまだ治まらないうちに、9月6日になったので、伊勢の遷宮を拝もうと、また船に乗って出かける。結びの句です。
『蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ』
蛤の蓋と身が引き剥がれる様な、つらい思いを残し、親しい人々と別れ、自分はいま行く秋とともに、伊勢の二見に向けてまた旅に出るのだ(元禄二年(1689)、芭蕉翁、四十六歳の句です)。
伊勢の名産である蛤をふまえ、「蓋・身」に掛けて、旅の目的である伊勢の「二見浦」と「二身」を読み込んだ技巧的修辞であり、「蓋・身に別れ」から「別れ行く」「行く秋」と引き出した重層的表現です。さらに下五に「行秋ぞ」と置いて、千住出発の折の歌「行く春や鳥啼魚の目は泪」と対をなすように構成されています(天才~!)。
【何故「夏草や兵どもが夢のあと」が平泉で関ケ原じゃいけないの?】
と私も思ったのですが、旅行は元禄2年(1689)ですが、関ケ原の戦いの、慶長5年(1600)から89年、さらに慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から74年、医療技術も悪く民衆が短命とはいえ、少し生臭くありませんか?丁度先の大戦(太平洋戦争)と同じくらいの感じだと思うのです。
それに比べて、平泉の衰退は1200年ころ、490年の月日が「夢のあと」を演出したのだと感じました。いかがですか?
【最後の一言】
明日(正確には明後日未明)は12月14日、320年前の明日!元禄15年12月14日(1703年1月30日)「芭蕉の旅行から13年」赤穂藩士が旧主浅野長矩の仇である高家吉良義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した(赤穂事件)が起こります。
実は少しだけ関係がございますので、次回はそちらをご紹介します。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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その場所とは、「関ケ原からすぐの大垣市、大垣城のすぐ近くです。「関ケ原」時代の大垣城では惣構えの堀の内側に成ると思います。
『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行分と俳諧です。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「 月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆき) かふ年も又旅人也(たびびとなり)。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて 老(おい)をむかふる物(もの)は、日々(ひび)旅にして旅を栖(すみか)とす。古人(こじん)も 多く旅に死せるあり。」という序文より始まりますね。ここまでは自慢じゃないですが暗記してました。若い頃は暗記が得意でしたね「平家物語」「つれづれ草」「日本憲法前文」等は今でもある程度覚えてますね。(自慢しちゃった、笑)
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この旅行は、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った大旅行でした。その跡をたどると各所に句碑が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、応時の芭蕉の旅をしのぶことができます。
江戸時代の俳人松尾芭蕉は、伊賀の武士出身といわれ、寂(さび)・撓(しお)り・細み・軽みを重んじて幽玄・閑寂の境地を求め、幽玄閑寂の蕉風俳諧を確立しました。その、生涯は日本各地を旅して、名所旧跡を回り、歌枕を巡り、様々な人とまじわっています。
それは、「笈の小文」「更級紀行」「野ざらし紀行」などの書物に著されていますが、最も有名なのは晩年の「奥のほそ道」の旅です。そして、最後に西へ向かって旅立ち、大阪の南御堂で門人に囲まれ息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も『旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る』というものでした。
私の様な素人には分かるはずもありませんが、大垣を過ぎると東海道に出ます。怒らないらないでくださいよ、東名高速はほそ道では無いって事ではないですかね?(ほら、怒らないでって言ったのに~(;^_^A アセアセ・・・)。真面目なんですよ、東海道には芭蕉が目指した、寂(さび)・撓(しお)り・細み・軽みを感じなかったということではないかと思うのです。
【何冊もバージョンが有るって知ってました?】
推敲の跡多い原本には中尾本(おくの細道)と曾良本(おくのほそ道)があり、個々の芭蕉による真筆箇所もしくは訂正箇所(あるいはその真贋をも唱える学者もいる)については現在でも議論が分かれています。
そして1996年芭蕉本人の自筆本発見!真筆本が発見されたのは、平成8年のことです。古い文献に「芭蕉の真筆の『奥の細道』は門人の一人の野坡のもとにある。」と記されているので「野坡本」と推定されました。真贋については論議を呼びましたが、草稿本であると定着しているようです。
「曾良本」は芭蕉の弟子利牛が自筆本を筆写し、芭蕉が改めて推敲、朱や墨で補訂を加えた本で、曽良または門人・利牛の書写とされる本書には訂正や書入れなどがあり、「おくのほそ道」成立までの推敲過程を伝える重要な資料となっています。本書は、曽良の死後、故郷上諏訪の河西周徳(曽良の甥)に随行日記とともに伝えられ、その後、古美術収集家の斎藤幾太などに伝わり、現在、随行日記とともに天理大学附属天理図書館錦屋文庫に所蔵されています。これより本書は「天理本」とも称されます。
「西村本」は芭蕉の弟子で能書家の素竜が芭蕉の依頼で「奥のほそみ道(題字は本人が記載)」を清書したのが、福井の西村家に伝わった本です。柿衞本は兵庫県伊丹市の柿衞翁岡田利兵衛に伝わった素竜が清書本の一つです。この柿衞本・西村本は共に素龍本(素龍清書本)とも呼ばれる(柿衞本の発見以前は、西村本のみがそう呼ばれていました)。
西村本の題簽(外題)「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされます。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づ物です。 この初版本は現在1冊しか確認されていませんが、増し刷りされ広まったため版本は多く残ります(本文に変化は見られない)。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は西村本を指す事に成り(中学校でも奥の細道で無く「おくのほそ道」と教えているようです)。
「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本とともに発見されています。
【おくのほそ道の行程を簡潔に説明しましょう。】
ほとんどの旅程で曾良を伴い、桜の花咲くころの元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵さいとあんを出発し「初句」が詠まれました。
『行く春や 鳥啼魚の 目は泪』
船に乗って千住に渡り、そこから日光街道で草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ着きます。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長となる十数日間滞在する地となりました。 ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入ります。須賀川、飯坂、仙台と渡り歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されています。
5月13日 藤原三代の栄華をしのび、二句詠んでいます。「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。
『夏草や 兵つはものどもが 夢のあと』
「五月雨の 降り残してや 光堂」
光堂と経堂は鞘堂に囲まれ開帳されていなかったと伝えられこれら二つ堂を芭蕉はは見ていないとされます。
ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って山寺(立石寺)に立寄り、「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉の聲こえ」の句を残します。 日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟きさかたに到達します。
当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評しています。 ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んでいます。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を歩いて渡り、美濃国の大垣で「おくのほそ道」は終了しています。
露通もこの港まで出迎え(にきており)、美濃へと一緒に行きます。8月21日頃馬に支えれて大垣の荘園に入ると、曾良(一度体を壊して山中温泉で分かれて伊勢で治療)も伊勢から来て合流し、越人も馬を飛ばして、如行の家に集合します。
前川子や荊口の親子、そのほかの仲の良い人たちも、日夜訪れてきて、まるで生き返った人に会うかのように、一方では喜び一方ではねぎらってくれました。旅の(疲れからくる)心の重さもまだ治まらないうちに、9月6日になったので、伊勢の遷宮を拝もうと、また船に乗って出かける。結びの句です。
『蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ』
蛤の蓋と身が引き剥がれる様な、つらい思いを残し、親しい人々と別れ、自分はいま行く秋とともに、伊勢の二見に向けてまた旅に出るのだ(元禄二年(1689)、芭蕉翁、四十六歳の句です)。
伊勢の名産である蛤をふまえ、「蓋・身」に掛けて、旅の目的である伊勢の「二見浦」と「二身」を読み込んだ技巧的修辞であり、「蓋・身に別れ」から「別れ行く」「行く秋」と引き出した重層的表現です。さらに下五に「行秋ぞ」と置いて、千住出発の折の歌「行く春や鳥啼魚の目は泪」と対をなすように構成されています(天才~!)。
【何故「夏草や兵どもが夢のあと」が平泉で関ケ原じゃいけないの?】
と私も思ったのですが、旅行は元禄2年(1689)ですが、関ケ原の戦いの、慶長5年(1600)から89年、さらに慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から74年、医療技術も悪く民衆が短命とはいえ、少し生臭くありませんか?丁度先の大戦(太平洋戦争)と同じくらいの感じだと思うのです。
それに比べて、平泉の衰退は1200年ころ、490年の月日が「夢のあと」を演出したのだと感じました。いかがですか?
【最後の一言】
明日(正確には明後日未明)は12月14日、320年前の明日!元禄15年12月14日(1703年1月30日)「芭蕉の旅行から13年」赤穂藩士が旧主浅野長矩の仇である高家吉良義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した(赤穂事件)が起こります。
実は少しだけ関係がございますので、次回はそちらをご紹介します。
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