天下分け目の『関ヶ原』「鶴翼の陣」の西軍に東軍風前の灯か?
前回までは、西軍の動きを中心において物語を進めてまいりました。今回は出来るだけ東軍にスポットを当てて、「家康」の動きを追っていきたいと思います。
7月25日の小山評定を終え、東軍諸大名が清洲城を目指し西進を開始した後も、家康は動向が不明な背後の佐竹義宣に対する危惧から江戸城に8月7日帰城しその後9月1日まで留まり、おおよそ23日にもわたって、藤堂高虎や黒田長政(黒田官兵衛嫡男)らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍への調略による切り崩しを図っています。
その間も先発隊諸将はすでに西軍との戦闘を始めており、勢いに任せた東軍諸将は西軍を撃破して清洲城に集結しています。
【天下分け目は関ヶ原に決定】
以前「天下分け目の天王山」という題名でブログをUPしましたが、勉強不足だったと反省しているので、この機会をお借りして、訂正したいと思います。「天下分け目」といえば「関が原」ですね。徳川家康と石田三成が、文字通り天下分け目の戦いを繰り広げました。
「天王山」は、羽柴秀吉が明智光秀を破った場所(京都南部)で、その故事から、勝負事や運命の分かれ道、という意味で使われますが、通常「天下分け目の」を頭につけるには早いといざざるをえません。
もし明智光秀が勝利していたとしても、まだ織田家の中には柴田勝家や滝川一益がいますし、もちろん徳川家康も健在でした。外部にも武田家は滅んだとはいえ、毛利、上杉、北条といった秀吉に匹敵する戦国大名が残っています。
【江戸城滞在で家康が行った事】
話を戻して、多方面への家康の書状戦略、使い頭となった黒田長政は吉川広家に毛利家所領の安堵を、小早川秀秋に、高台院への忠節を説いて内応を約束させています。江戸城内で家康が東軍諸大名などに宛てた書状は約200通にも及び、家康の書状による情報処理は、その後の戦いの雌雄を決定付けることになりました。
一方、三成が西軍諸大名に宛てた書状は家康のそれよりもかなり少なく、真田昌幸からは「なぜ挙兵前に(挙兵の意思を)知らせなかったのか」と、返書で問われています。
【東軍優勢】
家康が書状作戦を展開している頃、正則ら東軍先鋒は清洲城に集結します、その後一向に家康からの連絡がなく、正則は、自分たちを捨石にするのかと激怒してしまいます。家康の娘婿である池田輝政がこれに反発して、口論したとも伝えられています。
しかし家康の使者・村越直吉が到着し「なぜ早く美濃攻略に掛からないのか」と尋ねられると、正則ら東軍諸大名は勇躍して美濃へと侵攻しました。8月22日に輝政らが河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い、米野の戦い)、加賀野井(現羽島市)から渡河した正則らも竹ヶ鼻城を陥落させ(竹ヶ鼻城の戦い)、その後東軍はさらに進軍し、翌日には、1日で織田秀信が城主の岐阜城を落としています(岐阜城の戦い)。城主である秀信は、正則や輝政の助命嘆願もあって弟の織田秀則と共に高野山へ追放され、のちにその地で病没。織田氏本宗家は断絶しました。
『ちょっとうんちく』「織田秀信(信忠の長男・信長の孫)」。本能寺の変後の清洲(きよす)会議で羽柴(豊臣)秀吉に支持され、3歳で織田家を相続しています「三法師」の方が分かりやすいですね。
同時期美濃国内では、東美濃で妻木頼忠が東軍方として西軍についた田丸直昌の家臣らと交戦していましたが、遠山友政、小里光明など本能寺の変後に秀吉に服属する事を拒絶して領地を失い、家康に保護されていた東美濃の元領主が、旧領復活を狙い妻木軍と組んで西軍方の田丸直昌や河尻秀長の領地に攻めこみ苗木城、明智城などを陥落させ、西美濃でも市橋長勝や徳永寿昌らが福束城や高須城など、西軍方の拠点を次々に陥落させていきました。
さらに犬山城守備の任に就いていた関一政や加藤貞泰、竹中重門(竹中重治「半兵衛」の嫡子)が井伊直政の誘いで東軍に降り、郡上八幡城の稲葉貞通も降伏するなど東軍の優勢で戦況は進んでいます(1596年(文禄4年)から城主となっていた石川貞清だけは犬山城を放棄し関ヶ原に参陣し敗北したが、東軍についた木曽衆の山村良候らを犬山城で解放したことが評価され助命されています)。
【ついに「家康」西への進軍を決める】
岐阜城が落ちたのを知ると、家康は五男の武田信吉(名門武田源氏の名跡を継がせて武田を名乗っています)や浅野長政らに江戸城留守居を命じて、9月1日に約3万3,000の兵とともに出陣し、東海道を大坂方面へと西上します(当前のことですが、都は京都西上ですね)。一方、徳川本隊ともいえる秀忠隊3万8000は中山道を進みますが、9月3日から8日にかけて真田昌幸2000が籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい(第二次上田合戦についてはまた取材してご報告いたします、笑)、関ヶ原の戦いには間に合っていません。
しかし、実際は秀忠軍が家康から受けた当初の任務は中山道の制圧であり、上田城攻城は秀忠の独断ではなく家康の直近の命令に沿ったものでした。家康の西進の知らせと関ヶ原方面への合流という新たな命令は利根川の増水により使者が遅れ、秀忠の手に渡ったのは9月9日となり、14日に信濃本山宿、17日に南木曽馬籠宿、19日に美濃赤坂宿、20日にやっと大津城に到着し家康に追いついており、15日に関ヶ原に布陣することは使者が到着した時点ですでに不可能に成っています。
【三成の誤算】
一方の三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していましたが、いずれも淀殿に拒否され果たせていません。輝元には出馬の意思があったといわれますが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされています。また、9月2日に西軍の北陸道平定軍に従軍していた京極高次が突如として戦線を離脱、翌3日、居城の大津城に籠城して東軍への加担を鮮明にしました。
このため三成は毛利元康(元就の第八子)を大将に、小早川秀包(毛利元就の9男)、立花宗茂、筑紫広門ら1万5,000の軍勢を割いて、9月7日、大津城攻撃へと向かわせます。この戦いは京極高次の開城で終わったものの、毛利元康らは本戦当日の9月15日にまで足止めされ、関ヶ原に布陣する事ができませんでした。時代が戦国時代から二代目の時代に変遷しているため、武将の実力が分からないと感じられると思いますが、この面々の1万5,000の軍勢が到着していれば、家康の首は無かったかもしれませんね。
さらに9月14日には西軍の首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態も発生しています。この玄以も、一説には東軍に内応していたといわれています。このように西軍の統率は東軍とは対照的にまとまりに欠けており、当初の戦略は狂っていきました。家康の書状作戦が功を奏したと言わなければなりませんね。
【家康布陣】
家康は秀忠の到着を待つために、9月14日に美濃の赤坂の岡山(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に設営した本陣に入ります。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村一忠・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれをに打ち破っています。
14日夜、家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せます。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進します。西軍の転進を知った家康も、関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて西へ向かっています。何故?が付きますね、大垣城の守りを固め、西国街道を下る毛利元康、1万5,000の軍勢を待つのが最適な作戦に思えます。先に関ヶ原に入れば挟撃できるのですから、歴史の綾は絡み続けています。
この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えています。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していたといわれます。このため三成ら西軍首脳は不信の念を抱いていました。
秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で、筑前名島35万石から越前北ノ庄12万石に大減封されており、それを家康に回復してもらった恩義が有ります。従って秀秋は三成を恨んでおり当初から東軍への参戦を考えていたが、伏見攻めの一件により、成り行きで西軍についたという経緯がありました。
1万5,000の大軍を擁する秀秋を繋ぎとめるため、家康・三成は秀秋に、恩賞を与える約束を行っています。家康は上方二ヶ国を与えると提示し、西軍は秀頼が15歳になるまでの間秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示していたのです(どっちが得かよ~く考えよう)。
小早川秀秋を巡る水面下での謀略が入り乱れるなか、両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結しました。
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(狸親父です。)
7月25日の小山評定を終え、東軍諸大名が清洲城を目指し西進を開始した後も、家康は動向が不明な背後の佐竹義宣に対する危惧から江戸城に8月7日帰城しその後9月1日まで留まり、おおよそ23日にもわたって、藤堂高虎や黒田長政(黒田官兵衛嫡男)らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍への調略による切り崩しを図っています。
その間も先発隊諸将はすでに西軍との戦闘を始めており、勢いに任せた東軍諸将は西軍を撃破して清洲城に集結しています。
【天下分け目は関ヶ原に決定】
以前「天下分け目の天王山」という題名でブログをUPしましたが、勉強不足だったと反省しているので、この機会をお借りして、訂正したいと思います。「天下分け目」といえば「関が原」ですね。徳川家康と石田三成が、文字通り天下分け目の戦いを繰り広げました。
「天王山」は、羽柴秀吉が明智光秀を破った場所(京都南部)で、その故事から、勝負事や運命の分かれ道、という意味で使われますが、通常「天下分け目の」を頭につけるには早いといざざるをえません。
もし明智光秀が勝利していたとしても、まだ織田家の中には柴田勝家や滝川一益がいますし、もちろん徳川家康も健在でした。外部にも武田家は滅んだとはいえ、毛利、上杉、北条といった秀吉に匹敵する戦国大名が残っています。
【江戸城滞在で家康が行った事】
話を戻して、多方面への家康の書状戦略、使い頭となった黒田長政は吉川広家に毛利家所領の安堵を、小早川秀秋に、高台院への忠節を説いて内応を約束させています。江戸城内で家康が東軍諸大名などに宛てた書状は約200通にも及び、家康の書状による情報処理は、その後の戦いの雌雄を決定付けることになりました。
一方、三成が西軍諸大名に宛てた書状は家康のそれよりもかなり少なく、真田昌幸からは「なぜ挙兵前に(挙兵の意思を)知らせなかったのか」と、返書で問われています。
【東軍優勢】
家康が書状作戦を展開している頃、正則ら東軍先鋒は清洲城に集結します、その後一向に家康からの連絡がなく、正則は、自分たちを捨石にするのかと激怒してしまいます。家康の娘婿である池田輝政がこれに反発して、口論したとも伝えられています。
しかし家康の使者・村越直吉が到着し「なぜ早く美濃攻略に掛からないのか」と尋ねられると、正則ら東軍諸大名は勇躍して美濃へと侵攻しました。8月22日に輝政らが河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い、米野の戦い)、加賀野井(現羽島市)から渡河した正則らも竹ヶ鼻城を陥落させ(竹ヶ鼻城の戦い)、その後東軍はさらに進軍し、翌日には、1日で織田秀信が城主の岐阜城を落としています(岐阜城の戦い)。城主である秀信は、正則や輝政の助命嘆願もあって弟の織田秀則と共に高野山へ追放され、のちにその地で病没。織田氏本宗家は断絶しました。
『ちょっとうんちく』「織田秀信(信忠の長男・信長の孫)」。本能寺の変後の清洲(きよす)会議で羽柴(豊臣)秀吉に支持され、3歳で織田家を相続しています「三法師」の方が分かりやすいですね。
同時期美濃国内では、東美濃で妻木頼忠が東軍方として西軍についた田丸直昌の家臣らと交戦していましたが、遠山友政、小里光明など本能寺の変後に秀吉に服属する事を拒絶して領地を失い、家康に保護されていた東美濃の元領主が、旧領復活を狙い妻木軍と組んで西軍方の田丸直昌や河尻秀長の領地に攻めこみ苗木城、明智城などを陥落させ、西美濃でも市橋長勝や徳永寿昌らが福束城や高須城など、西軍方の拠点を次々に陥落させていきました。
さらに犬山城守備の任に就いていた関一政や加藤貞泰、竹中重門(竹中重治「半兵衛」の嫡子)が井伊直政の誘いで東軍に降り、郡上八幡城の稲葉貞通も降伏するなど東軍の優勢で戦況は進んでいます(1596年(文禄4年)から城主となっていた石川貞清だけは犬山城を放棄し関ヶ原に参陣し敗北したが、東軍についた木曽衆の山村良候らを犬山城で解放したことが評価され助命されています)。
【ついに「家康」西への進軍を決める】
岐阜城が落ちたのを知ると、家康は五男の武田信吉(名門武田源氏の名跡を継がせて武田を名乗っています)や浅野長政らに江戸城留守居を命じて、9月1日に約3万3,000の兵とともに出陣し、東海道を大坂方面へと西上します(当前のことですが、都は京都西上ですね)。一方、徳川本隊ともいえる秀忠隊3万8000は中山道を進みますが、9月3日から8日にかけて真田昌幸2000が籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい(第二次上田合戦についてはまた取材してご報告いたします、笑)、関ヶ原の戦いには間に合っていません。
しかし、実際は秀忠軍が家康から受けた当初の任務は中山道の制圧であり、上田城攻城は秀忠の独断ではなく家康の直近の命令に沿ったものでした。家康の西進の知らせと関ヶ原方面への合流という新たな命令は利根川の増水により使者が遅れ、秀忠の手に渡ったのは9月9日となり、14日に信濃本山宿、17日に南木曽馬籠宿、19日に美濃赤坂宿、20日にやっと大津城に到着し家康に追いついており、15日に関ヶ原に布陣することは使者が到着した時点ですでに不可能に成っています。
【三成の誤算】
一方の三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していましたが、いずれも淀殿に拒否され果たせていません。輝元には出馬の意思があったといわれますが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされています。また、9月2日に西軍の北陸道平定軍に従軍していた京極高次が突如として戦線を離脱、翌3日、居城の大津城に籠城して東軍への加担を鮮明にしました。
このため三成は毛利元康(元就の第八子)を大将に、小早川秀包(毛利元就の9男)、立花宗茂、筑紫広門ら1万5,000の軍勢を割いて、9月7日、大津城攻撃へと向かわせます。この戦いは京極高次の開城で終わったものの、毛利元康らは本戦当日の9月15日にまで足止めされ、関ヶ原に布陣する事ができませんでした。時代が戦国時代から二代目の時代に変遷しているため、武将の実力が分からないと感じられると思いますが、この面々の1万5,000の軍勢が到着していれば、家康の首は無かったかもしれませんね。
さらに9月14日には西軍の首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態も発生しています。この玄以も、一説には東軍に内応していたといわれています。このように西軍の統率は東軍とは対照的にまとまりに欠けており、当初の戦略は狂っていきました。家康の書状作戦が功を奏したと言わなければなりませんね。
【家康布陣】
家康は秀忠の到着を待つために、9月14日に美濃の赤坂の岡山(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に設営した本陣に入ります。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村一忠・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれをに打ち破っています。
14日夜、家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せます。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進します。西軍の転進を知った家康も、関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて西へ向かっています。何故?が付きますね、大垣城の守りを固め、西国街道を下る毛利元康、1万5,000の軍勢を待つのが最適な作戦に思えます。先に関ヶ原に入れば挟撃できるのですから、歴史の綾は絡み続けています。
この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えています。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していたといわれます。このため三成ら西軍首脳は不信の念を抱いていました。
秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で、筑前名島35万石から越前北ノ庄12万石に大減封されており、それを家康に回復してもらった恩義が有ります。従って秀秋は三成を恨んでおり当初から東軍への参戦を考えていたが、伏見攻めの一件により、成り行きで西軍についたという経緯がありました。
1万5,000の大軍を擁する秀秋を繋ぎとめるため、家康・三成は秀秋に、恩賞を与える約束を行っています。家康は上方二ヶ国を与えると提示し、西軍は秀頼が15歳になるまでの間秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示していたのです(どっちが得かよ~く考えよう)。
小早川秀秋を巡る水面下での謀略が入り乱れるなか、両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結しました。
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