「石田三成」挙兵、伏見城を落として『大垣城』へ進軍す。
今日は、関ヶ原の戦い前夜の「石田三成」と「徳川家康」双方の動きを説明しながら、西軍の拠点となった『大垣城』をご紹介します。
ドキドキしますよね~じわりじわりと近づいてくる感じがしますね~。
「大垣城」は、岐阜県大垣市郭町にあった平城です。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。
現在の「大垣城」はけして大きなものではありませんが、水郷の町大垣というように、本丸と二ノ丸のまわりを河川を利用した堀で囲んだ惣構の城です。
大垣城は織田信長が岐阜を掌握した後は、賤ヶ岳の戦いに勝利してこの地域の支配権を獲得した豊臣秀吉により、1583年(天正11年)に池田恒興が(所領15万石)城主となりました。
翌1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継ぎましたが、さらに翌年の1585年(天正13年)に輝政が岐阜城主になると、代わって田中吉政(秀次近侍)・中村一氏(近江水口岡山城)・堀尾吉晴(近江佐和山城)・山内一豊(近江長浜城)らとともに秀吉の甥・豊臣秀次(近江八幡山城)の宿老に任命された「一柳直末」が、3万石を領して大垣城主に成りますが1586年(天正13年)11月29日(旧暦)(1月18日)の天正地震で城は全壊焼失してしましました。
1588年(天正16年)に一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされています。
天正18年(1590年)の小田原征伐で功を挙げたことから伊藤盛景が城主となり、1599年に盛景が死ぬと子の伊藤盛宗があとを継いでいます。
そして1600(慶長5年) 年、関ケ原の戦いに向かいます。
【三成挙兵す!伏見城を攻略すると共に畿内を平定。】
1600年(慶長5年)7月5日、宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行い(『舜旧記』)、これに高台院(秀吉妻ねね・おねとも)は側近の東殿局(大谷吉継の生母)を代参させています。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込みます。大谷吉継は光成を止めたとも言われますし、高台院は家康寄りだったとも言われています。
7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を行い、毛利輝元への西軍総大将就任要請などを決定しました。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされました。
また島津義弘は家康との約束に従い伏見城に入城しようとしたが、鳥居元忠に断られ(『島津家代々軍記』)西軍に身を投じています。
この動きは当初三奉行側に通牒されておらず、三奉行は徳川家康と毛利輝元に急使を送り、至急大坂に戻り石田・大谷の動きを鎮定するよう要請しています。
7月17日、安国寺の建議を採用した毛利輝元は大坂城に入城して、家康が割拠していた西の丸を、家康妻妾を落ち延びさせることと引き換えに留守居役佐野綱正から無血接収し、西軍の総大将に就任します。
ここに至って三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発し、主に中国・四国・九州の諸大名が追従、およそ10万の兵力とないました。
しかし内部は必ずしも一枚岩ではなく、吉川広家(吉川元春・三男)や鍋島直茂(勝茂の父)のように早くも東軍への内応を画策する武将もいました。
三成はまず会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取る作戦を発動します。しかし、加藤清正や黒田長政の妻子が逃亡、さらに細川忠興の正室である細川ガラシャが、人質に取られることを拒否し、細川邸に火を掛け自害するなどして計画は頓挫しています。
細川ガラシャの死は有名ですね、キリシタンだった彼女は自殺は許されません。
家臣・小笠原秀清が障子越しに槍で突いて介錯し最期を遂げたといわれています。
この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、天守閣に集める行動を、むやみに拡大することをやめています。
また、「内府ちがひの条々」には家康が勝手に諸大名の妻子の帰国を認めていたことを弾劾する一文があり、家康の養女で真田信幸の妻の小松姫(沼田城において西軍についた舅・真田昌幸を追い返したという伝説で有名)が開戦以前に帰国していた可能性が指摘されています。
翌18日、西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に、毛利輝元の名で開城要求を勧告しています。当然鳥居元忠は拒絶、明くる7月19日から伏見城の戦いが始まりました。
伏見城は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍により攻められ、8月1日に陥落しています。
伏見城陥落後、三成は家康に味方する細川幽斎( 藤孝・忠興の父)が籠る、丹後国の田辺城を制圧するため、親密な関係にあった小野木重勝を総大将に1万5,000の軍勢を丹後に差し向け、宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んでいます。
大谷吉継は北陸道平定に向かい、三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入城しています。
その先の岐阜城には織田信長の嫡孫である織田秀信が城主として拠っていましたが、秀頼の後見と美濃・尾張加増を条件に西軍へ引き入れることに成功しています。
【「家康」三成成挙兵の報を得て小山評定を開く】
(本文とは関係ないのですが、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城でした。)
この頃、家康は会津征伐のために江戸城に居ましたが、7月19日に書状が家康に届けられます。差出人は西軍首脳の増田長盛であり、三成らが家康打倒の謀議を行っているという内容でした。
その後も長盛からの書状は届けられており、この書状を送った時点では長盛は石田方には与していないようです。また淀殿も石田・大谷の動きを鎮圧するよう要請を送っています。
しかし家康はそのまま7月21日には江戸城を発ち、7月24日に下野小山に到着。ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされたといわれます。
ここで、家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を開きます。いわゆる「小山評定」です。家康にとって最大の問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。三成挙兵の報は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していました。そのため、家康の命を受けた黒田長政は福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得したといわれます。
なお、この時点では「内府ちがひの条々」はまだ小山に届いておらず、毛利輝元が大坂城で秀頼を擁して石田方の総大将になっていることは、家康以下諸将の知るところではなかったはずです。さきに届いた淀殿や三奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている形式を保っていました。
評定では情勢の説明と、妻子が人質になっているため進退は各自の自由であるとの、家康の意向が伝えられます。すると真っ先に福島正則が大坂のことは考えず、家康に味方することを表明します。黒田長政・徳永寿昌がこれに続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に従うことを誓約しました。その一方で信濃上田城主である真田昌幸と、美濃岩村城主である田丸直昌はこれに与せず、西軍へ退転します。
【それぞれの道】
山内一豊のお話も有名です。一豊は関ケ原後、大出世しますが、ほとんど小山評定での功績と言われます。上方の情勢を伝える妻の手紙を未開封のまま家康に差し出したといわれ、評定で一豊は「わが城をお使いくだされ」と提案した。一豊の城は東海道中の静岡・掛川。これに東海道筋に領地を持つ大名が「わが城も」と続き、家康は安全に西に向かうことができたといわれます。
一豊は、豊臣秀吉にその忠実さ、真面目さを買われて掛川の領地を任されていました。秀吉は、家康を東海から関東に領地替えさせ、なおもその西上に備え、通り道の東海道に最も信頼できる忠義者、律義者を並べています。何重もの対家康防衛壁を戦わずして突破できた家康にとって、城の明け渡しとともに家康に対する忠誠心を明確にした一豊への感謝の念は、大きかったと思われます。
この案は堀尾忠氏(一豊の盟友、堀尾吉晴の子)と事前に協議したもので、さらに正則が秀吉より預かっていた、非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明、秀吉が家康封じ込めのために配置した、東海道筋の諸城と兵糧を確保したことで、東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となっています。
諸将が提供した居城には松平康重、松平家乗、内藤信成、保科正光、北条氏勝ら徳川譜代の武将が城将として入城し、守備に当りました。
三成迎撃で評定が決定すると、諸大名は7月26日以降陣を払い、正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣します。また伊勢方面に所領を持つ富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、九鬼守隆らは居城防備のため各居城へ戻りました。家康は徳川秀忠に榊原康政や大久保忠隣、本多正信を添えた約3万8,000の軍勢(こちらが徳川本隊といえます)を付けて、中山道より美濃方面への進軍を命じ、8月4日に出陣しました。
一方上杉・佐竹への抑えとして、自身の次男の結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に留め、監視させています。家康は江戸城に戻りますが、そこから動かなくなっています。『内府ちがひの条々』の内容が東軍側にも伝わり、豊臣恩顧の武将たちの動向が不透明となる危惧を考えたといわれます。
真田家では小山評定後の「犬伏の分かれ」が有名ですね。7月21日、真田親子が宇都宮城の手前、犬伏に構えた陣所へ、石田三成の密使が到着します。 昌幸は三成とは姻戚関係で義兄弟でもあり(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っています)、 幸村の妻は豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘(竹林院)です。 何より昌幸は第一次上田合戦(神川合戦)の遺恨が残っており、家康を嫌っていました。
一方、長男の信之は神川合戦の後、かねてからその人物に傾倒していた家康の下に秀吉の取り成しで仕えることに成ります。
家康は神川での遺恨を信之には向けず、かえって寵愛し信之に妻として 稲姫(後の小松殿。徳川家の重臣、本多忠勝の娘)を家康(秀忠の説も有り)の養女としてから娶らせます。この処遇を見ても家康の信頼は明らかで、信之は徳川親派となりました。 家康には関東・甲信州での大名間との結びつきを強くし秀吉に対抗しようという考えが有ったかとも考えられますが。
【伊勢・美濃での前哨戦】
三成は真田昌幸への書状の中で、尾張と三河国境付近で東軍を迎撃、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利をする目算であると言っています。そのため早急に伊勢・美濃を平定して、岐阜城を西軍の拠点とし、尾張に侵攻する必要がありました。伊勢路を進む宇喜多秀家ら西軍の軍勢約3万は、筒井定次(順慶の従兄、養嗣子)の居城・伊賀上野城を開城させ(上野城の戦い)、その後富田信高、分部光嘉が籠る安濃津城(安濃津城の戦い)、古田重勝の松坂城などを攻略し8月までには陥落させています。
その後さらに北上を進め尾張攻略を目指し、桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟を西軍に加担させるが、東軍先発部隊(福島正則・黒田長政・池田輝政・伊直政・本多忠勝)が清洲城に集結するとの報を得て、福島正頼・山岡景友の拠る長島城攻撃を諦め、三成の居る大垣城へと向かいます。この時点で三成の尾張・三河で東軍を迎撃する戦略は破綻し、木曽川で迎撃する方針へと修正せざるをえませんでした。
一方の背後を挟撃する予定の上杉景勝は、徳川軍を攻撃せずに軍勢を山形方面の最上義光領へと向けます。佐竹軍は、当主である佐竹義宣が主張した西軍への参加に、父・佐竹義重や弟、重臣一同らの反対により、義宣は意見を押し切ることができず、佐竹義久に少数の兵をつけて秀忠軍に派遣するなどの曖昧な態度に終わり、関東の徳川領に侵攻しませんでした。結局、佐竹義宣、上杉景勝が大坂へ向かう徳川軍を攻撃しなかったことは、三成にとって大きな誤算となりました。なお、鍋島勝茂は父・直茂の命により美濃・伊勢国境付近に留まり、大垣城に向かう宇喜多・毛利軍などから離脱、以降西軍の軍事行動には加わらず傍観しています。
【西軍の大垣城集結】
かくして、毛利 秀元・宇喜多秀家・石田三成等は「大垣城」に入城、個人の思惑はその通りには運ばず、運命の神が振る振り子の行方に任せれたのでした。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナーを「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇


ドキドキしますよね~じわりじわりと近づいてくる感じがしますね~。
「大垣城」は、岐阜県大垣市郭町にあった平城です。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれます。
現在の「大垣城」はけして大きなものではありませんが、水郷の町大垣というように、本丸と二ノ丸のまわりを河川を利用した堀で囲んだ惣構の城です。
大垣城は織田信長が岐阜を掌握した後は、賤ヶ岳の戦いに勝利してこの地域の支配権を獲得した豊臣秀吉により、1583年(天正11年)に池田恒興が(所領15万石)城主となりました。
翌1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継ぎましたが、さらに翌年の1585年(天正13年)に輝政が岐阜城主になると、代わって田中吉政(秀次近侍)・中村一氏(近江水口岡山城)・堀尾吉晴(近江佐和山城)・山内一豊(近江長浜城)らとともに秀吉の甥・豊臣秀次(近江八幡山城)の宿老に任命された「一柳直末」が、3万石を領して大垣城主に成りますが1586年(天正13年)11月29日(旧暦)(1月18日)の天正地震で城は全壊焼失してしましました。
1588年(天正16年)に一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされています。
天正18年(1590年)の小田原征伐で功を挙げたことから伊藤盛景が城主となり、1599年に盛景が死ぬと子の伊藤盛宗があとを継いでいます。
そして1600(慶長5年) 年、関ケ原の戦いに向かいます。
【三成挙兵す!伏見城を攻略すると共に畿内を平定。】
1600年(慶長5年)7月5日、宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行い(『舜旧記』)、これに高台院(秀吉妻ねね・おねとも)は側近の東殿局(大谷吉継の生母)を代参させています。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込みます。大谷吉継は光成を止めたとも言われますし、高台院は家康寄りだったとも言われています。
7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を行い、毛利輝元への西軍総大将就任要請などを決定しました。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされました。
また島津義弘は家康との約束に従い伏見城に入城しようとしたが、鳥居元忠に断られ(『島津家代々軍記』)西軍に身を投じています。
この動きは当初三奉行側に通牒されておらず、三奉行は徳川家康と毛利輝元に急使を送り、至急大坂に戻り石田・大谷の動きを鎮定するよう要請しています。
7月17日、安国寺の建議を採用した毛利輝元は大坂城に入城して、家康が割拠していた西の丸を、家康妻妾を落ち延びさせることと引き換えに留守居役佐野綱正から無血接収し、西軍の総大将に就任します。
ここに至って三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発し、主に中国・四国・九州の諸大名が追従、およそ10万の兵力とないました。
しかし内部は必ずしも一枚岩ではなく、吉川広家(吉川元春・三男)や鍋島直茂(勝茂の父)のように早くも東軍への内応を画策する武将もいました。
三成はまず会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取る作戦を発動します。しかし、加藤清正や黒田長政の妻子が逃亡、さらに細川忠興の正室である細川ガラシャが、人質に取られることを拒否し、細川邸に火を掛け自害するなどして計画は頓挫しています。
細川ガラシャの死は有名ですね、キリシタンだった彼女は自殺は許されません。
家臣・小笠原秀清が障子越しに槍で突いて介錯し最期を遂げたといわれています。
この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、天守閣に集める行動を、むやみに拡大することをやめています。
また、「内府ちがひの条々」には家康が勝手に諸大名の妻子の帰国を認めていたことを弾劾する一文があり、家康の養女で真田信幸の妻の小松姫(沼田城において西軍についた舅・真田昌幸を追い返したという伝説で有名)が開戦以前に帰国していた可能性が指摘されています。
翌18日、西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に、毛利輝元の名で開城要求を勧告しています。当然鳥居元忠は拒絶、明くる7月19日から伏見城の戦いが始まりました。
伏見城は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍により攻められ、8月1日に陥落しています。
伏見城陥落後、三成は家康に味方する細川幽斎( 藤孝・忠興の父)が籠る、丹後国の田辺城を制圧するため、親密な関係にあった小野木重勝を総大将に1万5,000の軍勢を丹後に差し向け、宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んでいます。
大谷吉継は北陸道平定に向かい、三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入城しています。
その先の岐阜城には織田信長の嫡孫である織田秀信が城主として拠っていましたが、秀頼の後見と美濃・尾張加増を条件に西軍へ引き入れることに成功しています。
【「家康」三成成挙兵の報を得て小山評定を開く】

この頃、家康は会津征伐のために江戸城に居ましたが、7月19日に書状が家康に届けられます。差出人は西軍首脳の増田長盛であり、三成らが家康打倒の謀議を行っているという内容でした。
その後も長盛からの書状は届けられており、この書状を送った時点では長盛は石田方には与していないようです。また淀殿も石田・大谷の動きを鎮圧するよう要請を送っています。
しかし家康はそのまま7月21日には江戸城を発ち、7月24日に下野小山に到着。ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされたといわれます。
ここで、家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を開きます。いわゆる「小山評定」です。家康にとって最大の問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。三成挙兵の報は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していました。そのため、家康の命を受けた黒田長政は福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得したといわれます。
なお、この時点では「内府ちがひの条々」はまだ小山に届いておらず、毛利輝元が大坂城で秀頼を擁して石田方の総大将になっていることは、家康以下諸将の知るところではなかったはずです。さきに届いた淀殿や三奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている形式を保っていました。
評定では情勢の説明と、妻子が人質になっているため進退は各自の自由であるとの、家康の意向が伝えられます。すると真っ先に福島正則が大坂のことは考えず、家康に味方することを表明します。黒田長政・徳永寿昌がこれに続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に従うことを誓約しました。その一方で信濃上田城主である真田昌幸と、美濃岩村城主である田丸直昌はこれに与せず、西軍へ退転します。
【それぞれの道】
山内一豊のお話も有名です。一豊は関ケ原後、大出世しますが、ほとんど小山評定での功績と言われます。上方の情勢を伝える妻の手紙を未開封のまま家康に差し出したといわれ、評定で一豊は「わが城をお使いくだされ」と提案した。一豊の城は東海道中の静岡・掛川。これに東海道筋に領地を持つ大名が「わが城も」と続き、家康は安全に西に向かうことができたといわれます。
一豊は、豊臣秀吉にその忠実さ、真面目さを買われて掛川の領地を任されていました。秀吉は、家康を東海から関東に領地替えさせ、なおもその西上に備え、通り道の東海道に最も信頼できる忠義者、律義者を並べています。何重もの対家康防衛壁を戦わずして突破できた家康にとって、城の明け渡しとともに家康に対する忠誠心を明確にした一豊への感謝の念は、大きかったと思われます。
この案は堀尾忠氏(一豊の盟友、堀尾吉晴の子)と事前に協議したもので、さらに正則が秀吉より預かっていた、非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明、秀吉が家康封じ込めのために配置した、東海道筋の諸城と兵糧を確保したことで、東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となっています。
諸将が提供した居城には松平康重、松平家乗、内藤信成、保科正光、北条氏勝ら徳川譜代の武将が城将として入城し、守備に当りました。
三成迎撃で評定が決定すると、諸大名は7月26日以降陣を払い、正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣します。また伊勢方面に所領を持つ富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、九鬼守隆らは居城防備のため各居城へ戻りました。家康は徳川秀忠に榊原康政や大久保忠隣、本多正信を添えた約3万8,000の軍勢(こちらが徳川本隊といえます)を付けて、中山道より美濃方面への進軍を命じ、8月4日に出陣しました。
一方上杉・佐竹への抑えとして、自身の次男の結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に留め、監視させています。家康は江戸城に戻りますが、そこから動かなくなっています。『内府ちがひの条々』の内容が東軍側にも伝わり、豊臣恩顧の武将たちの動向が不透明となる危惧を考えたといわれます。
真田家では小山評定後の「犬伏の分かれ」が有名ですね。7月21日、真田親子が宇都宮城の手前、犬伏に構えた陣所へ、石田三成の密使が到着します。 昌幸は三成とは姻戚関係で義兄弟でもあり(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っています)、 幸村の妻は豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘(竹林院)です。 何より昌幸は第一次上田合戦(神川合戦)の遺恨が残っており、家康を嫌っていました。
一方、長男の信之は神川合戦の後、かねてからその人物に傾倒していた家康の下に秀吉の取り成しで仕えることに成ります。
家康は神川での遺恨を信之には向けず、かえって寵愛し信之に妻として 稲姫(後の小松殿。徳川家の重臣、本多忠勝の娘)を家康(秀忠の説も有り)の養女としてから娶らせます。この処遇を見ても家康の信頼は明らかで、信之は徳川親派となりました。 家康には関東・甲信州での大名間との結びつきを強くし秀吉に対抗しようという考えが有ったかとも考えられますが。
【伊勢・美濃での前哨戦】
三成は真田昌幸への書状の中で、尾張と三河国境付近で東軍を迎撃、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利をする目算であると言っています。そのため早急に伊勢・美濃を平定して、岐阜城を西軍の拠点とし、尾張に侵攻する必要がありました。伊勢路を進む宇喜多秀家ら西軍の軍勢約3万は、筒井定次(順慶の従兄、養嗣子)の居城・伊賀上野城を開城させ(上野城の戦い)、その後富田信高、分部光嘉が籠る安濃津城(安濃津城の戦い)、古田重勝の松坂城などを攻略し8月までには陥落させています。
その後さらに北上を進め尾張攻略を目指し、桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟を西軍に加担させるが、東軍先発部隊(福島正則・黒田長政・池田輝政・伊直政・本多忠勝)が清洲城に集結するとの報を得て、福島正頼・山岡景友の拠る長島城攻撃を諦め、三成の居る大垣城へと向かいます。この時点で三成の尾張・三河で東軍を迎撃する戦略は破綻し、木曽川で迎撃する方針へと修正せざるをえませんでした。
一方の背後を挟撃する予定の上杉景勝は、徳川軍を攻撃せずに軍勢を山形方面の最上義光領へと向けます。佐竹軍は、当主である佐竹義宣が主張した西軍への参加に、父・佐竹義重や弟、重臣一同らの反対により、義宣は意見を押し切ることができず、佐竹義久に少数の兵をつけて秀忠軍に派遣するなどの曖昧な態度に終わり、関東の徳川領に侵攻しませんでした。結局、佐竹義宣、上杉景勝が大坂へ向かう徳川軍を攻撃しなかったことは、三成にとって大きな誤算となりました。なお、鍋島勝茂は父・直茂の命により美濃・伊勢国境付近に留まり、大垣城に向かう宇喜多・毛利軍などから離脱、以降西軍の軍事行動には加わらず傍観しています。
【西軍の大垣城集結】
かくして、毛利 秀元・宇喜多秀家・石田三成等は「大垣城」に入城、個人の思惑はその通りには運ばず、運命の神が振る振り子の行方に任せれたのでした。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナーを「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇



コメント