関ケ原前哨戦「伏見城の戦い」 - 「高天原の縁側日記」
FC2ブログ
2017/11/12

関ケ原前哨戦「伏見城の戦い」

PA280032.jpg(伏見城ではなく、伏見桃山城模擬天守です。笑)

さて本題、関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いが行われた伏見桃山城址をご紹介いたします。

【御紹介するのは、伏見桃山城模擬天守】



PA280014.jpg(大手門でもありません。正門トホホ!)
PA280024.jpg(伏見城ではなく伏見桃山城。)
PA280022.jpg(子どもたちは見向きもせずにサッカーに興じてました。)

伏見桃山城運動公園には天守閣を有するお城がありますが、これは豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」とは全く別のものです(なんじゃと~~~~!)。
運動公園のお城は、昭和39年に開園した遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉施設として建築された模造天守((-"-;A ...アセアセ)。キャッスルランドは平成15年1月に閉園となり、その際、お城も取り壊される予定でしたが、存続を求める市民の皆様の要望により、伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマの撮影等にも活用されています(許してください)。場所は大丈夫なはずです?と言いますか、明治天皇陵(以前ご紹介しました)の場所が本来の伏見城跡に成ります。

関ケ原の後、慶長7(1602)年家康によって再建され、翌年家康は伏見城で征夷大将軍に就任しました。家康は将軍在任中のほとんどを伏見城で過ごし、伏見城は近畿地方における徳川政権の拠点となりました。

大坂の陣で豊臣氏が滅亡した後、一国一城令により京都に二条城と伏見城の2つの城を維持する名目がなくなり、元和9(1623)年の徳川家光の将軍宣下が行われたことを最後に、伏見城は廃城になりました。

廃城後,各地の寺社などに伏見城の遺構が移築されましたが、これらのほとんどは、豊臣秀吉時代の伏見城ではな、徳川家康時代の伏見城の遺構と考えられています。

取り壊された伏見城跡の一帯には、桃の木が植えられ、桃山という地名が生まれました。後年、明治天皇陵造営によって、本丸跡附近が陵地となり、現在往時をしのぶものは内堀の一部が紅雪池(こうせついけ)や治部池(じぶいけ)として残っているほかはほとんど見られません。

【石田三成佐和山城に蟄居する】

PA280049.jpg
(模擬大天守です。雨も降って女性が一人沖縄民謡?の練習されてました。)

伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)は、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)まで行なわれた関ヶ原の戦いの前哨戦に成ります。

開戦の経緯ですが、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去。秀吉から生前、嫡子・豊臣秀頼が成人するまでの間、政治を託された大老・徳川家康の台頭(そろりそろりと天下を狙い始めた兆候が有ります)が始まります。家康は諸大名の屋敷を頻繁に訪問始めます。この訪問は他の大老・奉行には無断で行われており、豊臣政権の法令の一つ「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」に反するものでした。

また家康はこの時期、他の大老・奉行に無断で諸大名との縁組を行っています。これもまた、豊臣政権の法令の1つ「諸大名の無許可での縁組の禁止」に違反する行為であったため、慶長4年1月19日、豊臣氏から無断婚姻の問罪使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らが派遣されました。家康は追及をかわし、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦しています。

しかし閏3月3日、家康に次ぐ実力者の前田利家が死去すると。かねてから石田三成と対立関係にあった加藤清正・福島正則ら七将が、三成の大坂屋敷を襲撃します。三成は事前に襲撃を知り、佐竹義宣の助力を得て伏見城内の自邸に逃れます。家康邸に逃げ込んだとするドラマや小説が数多くあるようですが、根拠のない俗説のようです。その後、家康は仲裁に乗り出し、仲裁の結果、三成は五奉行から退隠、佐和山城に蟄居となりました。

【上杉景勝謀反の疑いと直江状】

家康の政治的影響力が強まる中、五大老の一人・上杉景勝は家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出します。この景勝の動向は、近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって家康に報告されていました。慶長5年3月11日、家康と景勝の関係の修復に努めていた藤田信吉が上杉家から追放されます。4月1日、家康は景勝に対して伊奈昭綱、河村長門(増田長盛の家臣)の両名を問罪使として派遣します。このとき家康は西笑承兌に弾劾状をしたためさせています。その内容は景勝の軍事力増強を咎め、異心が無いのであれば誓書を差し出した上で上洛し、弁明すべきというものでした。

これに対して直江兼続はあの有名な直江状(あまりに出来すぎの感が否めず、後世に作りあがられたともいわれます)を家康に送っています。家康への挑戦状というのは江戸幕府成立後、徳川家と上杉家の対立構図を成立させて、会津征伐を正当化する目的で改変されたとも推定されます。事実『徳川実紀』には、直江状が傲慢無礼の極みであり、そのために家康が上杉の討伐に向かったと記載されているようです。

5月3日、直江状が家康の下に届けられ、家康は即刻、景勝の征伐を決意します。会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられました。伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられています。

【会津征伐出立と伏見城攻略】

PA280055.jpg(模擬大天守ですが風情が有ります。写真がぼやけてるの雨です。)
PA280059.jpg(こちらは小天守閣、あめが~。)

慶長5年6月18日に家康は伏見を立ち東国へ向かいました。家康は前々夜伏見城に宿泊して鳥居元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は三千ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要です。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないのですから、人数を多くこの城に残すことは無駄です。一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」と答えました。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わっています。

一方大坂城にいた前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は7月17日、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布します。これに先立つ7月15日の時点で家康の家臣鳥居元忠らが在城する伏見城はすでに籠城を開始しており、反家康の立場を明らかにした西軍はこれに対する攻撃を準備します。 守る城側の兵力は城兵1800人に大坂城西の丸から移動してきた500人を加えた計2300人でした。

【伏見城の健闘の影響】

PA280039.jpg(ススキ原も入れると中々いいですよね。)

本格的な戦闘は19日から開始され、当初は籠城側が打って出て前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどしますが、以降は攻め手が昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ、さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢するなどして圧力を強めます。攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちませんでした。 しかし孤立した城は8月1日昼ごろついに落城します。鳥居元忠は鉄砲頭鈴木孫三郎に討ち取られ、他に内藤家長父子・松平家忠以下800人が討ち死にしました。この戦いは、9月15日に行なわれることになる関ヶ原本戦の前哨戦にあたりますが、伏見城に10日以上もの時間をかけたため、美濃・伊勢方面に対するその後の西軍の展開が大きく遅れる要因となりました。

【最後に関ケ原で後の時代に影響を与える二人の武将について!】

PA280066.jpg
(裏側に廻ると?)
PA280064.jpg
(倒れたままの、昭和7年軍部駐屯地の碑、立てられない者でしょうかね?)

当初鬼島津こと「島津義弘」と金吾中納言「小早川秀秋」は当初、東軍に味方するつもりであっため、伏見城城側に入城の意思を示しましたが拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わったとする説があります。しかし前者は「島津家譜」、後者は「寛政重修諸家譜」等といずれも江戸時代成立の二次史料の記述を典拠としており、史実である確証は有りません。

後に二人のキーマンの活躍が関ケ原の闘いの大きな1ページを飾る事は後のお楽しみです。

いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
下の日本人気ブログランキングバナー・ブログ村の日本史バナー・FC2ブログランキングバナー「ポチっと」と、クリックして頂けましたら嬉しいです。
👇




関連記事
  

コメント

非公開コメント