追加取材!「日本初の宮」『須我神社奥の宮』へお詣り。
須我神社(すがじんじゃ)は、島根県雲南市にある出雲國神仏霊場第十六番札所の神社です。以前にも一度ご紹介いたしました。
須佐之男命が八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝えられ、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称されています。
二年前に家族で大山登山の時に訪れたのですが、予定がタイトだったので、奥の宮へのお詣りは断念せざるをえませんでした。
今回は時間も十分に有ったので、追加取材として『須我神社奥宮』へお詣りしてきましたので、ご紹介いたします。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【須我神社はどんな神社?】
須佐之男命、稲田比売命、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)事、八島士奴美神を主祭神とし、諏訪大社の武御名方命(大国主の息子で、高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方命といわれています)を配祀する分霊を配祀しています。
【古事記物語】
『古事記』によれば、建速須佐之男命は海を治めるように伊邪那岐に命じられますが、須佐之男命はそれを断り、母神伊邪那美のいる根之堅洲国に行きたいと願い出ます。伊邪那岐は大いに怒かって、須佐之男命を追放してしまいます。そこで母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上りますが、天照大神は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対し、二柱(神様は人ではなく柱と数えます)は疑いをはっきり究明するために誓約(うけひ)を行こなうことに成ります。
自身の潔白が誓約によって証明されたと考えて(ある意味勝手な妄想です、笑)、高天原に滞在する事にした佐之男命でしたが、居られることになると次々と粗暴を行って、天照大神は天の岩屋に隠れられてしまいました(皆さんも一番ご存知の一節です)。そのため、須佐之男命は高天原を追放されることに成りました(神逐)。
出雲の鳥髪山(現在の船通山・登りました~(;^_^A ・・・)へ降った須佐之男命は、その地を荒らしていた巨大な怪物八岐大蛇(八俣遠呂智)への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)と出会うことに成ります。
須佐之男命は、櫛名田比売の姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治します。そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち、草薙剣・天の叢雲剣)を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなりました(現在は、愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体となっています)。
【日本初の宮と和歌発祥の地】
その後、出雲の根之堅洲国(中国・山陰地方にある島根県安来市)へ行き、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、あたりを眺め渡すと、澄み切った大気、雲の美しさ、天と地に溢れんばかりの命の息吹を感じ、「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて住むことに成ります。
これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということに成り、「和歌発祥の地」とされています。
『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』まあ、歌も詠みたくなる気分でしょうね~(*^^*)
あれ?八重垣神社にも石碑があったような?「和歌発祥の地」については八重垣神社も同様の主張をされているようですが、大きく離れた距離でもないので大目に見てもよいかと思います。
天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定されますが、風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていません。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられます。
【追加取材の奥の宮にGO!】
背後にある八雲山には、夫婦岩と呼ばれる巨石と小祠があり、須我神社の奥宮となっています。この巨石は磐座(古神道における岩に対する信仰のことで依り代となります。)であり、元は須賀の地の総氏神として信仰されていたものだそうです。それではご覧いただきましょう。
【いつもの最後に~!】
出雲を旅すると、必ずといってよいほどに、磐座に出会います。本来の信仰というものはこの様なものだったのだと、気づかされます。そして神様に対する「畏怖と畏敬」の気持ちを忘れてはいけないことを、思い起こさせてくれるのです。都会では中々感じる事のない、自然に対する感謝の気持ちも一緒に呼び覚ましてくれるのが嬉しいですね~。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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須佐之男命が八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝えられ、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称されています。
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須佐之男命、稲田比売命、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)事、八島士奴美神を主祭神とし、諏訪大社の武御名方命(大国主の息子で、高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方命といわれています)を配祀する分霊を配祀しています。
【古事記物語】
『古事記』によれば、建速須佐之男命は海を治めるように伊邪那岐に命じられますが、須佐之男命はそれを断り、母神伊邪那美のいる根之堅洲国に行きたいと願い出ます。伊邪那岐は大いに怒かって、須佐之男命を追放してしまいます。そこで母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上りますが、天照大神は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対し、二柱(神様は人ではなく柱と数えます)は疑いをはっきり究明するために誓約(うけひ)を行こなうことに成ります。
自身の潔白が誓約によって証明されたと考えて(ある意味勝手な妄想です、笑)、高天原に滞在する事にした佐之男命でしたが、居られることになると次々と粗暴を行って、天照大神は天の岩屋に隠れられてしまいました(皆さんも一番ご存知の一節です)。そのため、須佐之男命は高天原を追放されることに成りました(神逐)。
出雲の鳥髪山(現在の船通山・登りました~(;^_^A ・・・)へ降った須佐之男命は、その地を荒らしていた巨大な怪物八岐大蛇(八俣遠呂智)への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)と出会うことに成ります。
須佐之男命は、櫛名田比売の姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治します。そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち、草薙剣・天の叢雲剣)を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなりました(現在は、愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体となっています)。
【日本初の宮と和歌発祥の地】
その後、出雲の根之堅洲国(中国・山陰地方にある島根県安来市)へ行き、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、あたりを眺め渡すと、澄み切った大気、雲の美しさ、天と地に溢れんばかりの命の息吹を感じ、「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて住むことに成ります。
これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということに成り、「和歌発祥の地」とされています。
『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』まあ、歌も詠みたくなる気分でしょうね~(*^^*)
あれ?八重垣神社にも石碑があったような?「和歌発祥の地」については八重垣神社も同様の主張をされているようですが、大きく離れた距離でもないので大目に見てもよいかと思います。
天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定されますが、風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていません。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられます。
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背後にある八雲山には、夫婦岩と呼ばれる巨石と小祠があり、須我神社の奥宮となっています。この巨石は磐座(古神道における岩に対する信仰のことで依り代となります。)であり、元は須賀の地の総氏神として信仰されていたものだそうです。それではご覧いただきましょう。
【いつもの最後に~!】
出雲を旅すると、必ずといってよいほどに、磐座に出会います。本来の信仰というものはこの様なものだったのだと、気づかされます。そして神様に対する「畏怖と畏敬」の気持ちを忘れてはいけないことを、思い起こさせてくれるのです。都会では中々感じる事のない、自然に対する感謝の気持ちも一緒に呼び覚ましてくれるのが嬉しいですね~。
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