全ての始まりがここにあるのか?「願いが叶うお寺」『満願寺』
台風憎しの日曜日になってしまいしたね。現在台風21号は現在19:30紀伊半島の沖合に在って明日未明に関東を直撃する模様です。関東方面の皆さんは気を付けてくださいね。
昨日21日は京都東寺の弘法市(今年は休みが合わなかったり、家族のごたごたで行くことが出来ず)や丹波焼祭りもありましたが、動きが取れず。今日22日は一連の関ケ原最後の取材ともいえる、伏見城址や京都にある武将の墓などを取材する予定でしたがそれもかないませんでした(残念)。唯一、映画「関ケ原」を大雨警報の中見に行くことが出来たのが救いです。映画の出来については後程簡単に説明したいと思います。
そこで今日ご紹介するのは関ヶ原から,、550年ほど前のお話をご紹介したいと思います。全ては此処から(こちらの寺ではないのですが)と考えて、清和源氏ゆかりの寺兵庫県川西市に在る『満願寺』をご紹介したいと思います。
その前に、以前からお約束していました。皆さんご存知の日曜日だけのお楽しみ、お友達ブロガー皆さんも良くご存知のハナ(ビー玉)さんの洗濯実験ブログハナの洗濯ラボノートをご紹介します。洗濯が苦手な皆さん、洗剤どれにしようかな?と迷っている皆さん是非ご覧くださいね。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【いつもの「満願寺」ってどんな寺?】
兵庫県川西市にある『満願寺』は、山号を「神秀山」、宗派は「高野山真言宗 」、寺格「真言宗七十五名刹 」、御本尊「千手観世音菩薩 」、創建年「奈良時代 」と言われます。寺伝によれば奈良時代、聖武天皇の勅願により、「勝道」上人が開基・創建されています。
札所としては「新西国33観音13番」「摂津国88箇所68番」「摂津国33箇所18番 」。文化財は、「石造九重塔(国の重要文化財)」「木造金剛力士立像ほか(県文化財)」等の文化財が有ります。
【全ての始まりがここにあるの訳は?】
平安時代中期には源満仲がこの寺院に帰依し、以来源氏一門の祈願所として栄えました。源満仲の父、源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、経基流清和源氏の初代です。『保元物語』によれば、源 経基の父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされます。居館は六宮とも八条御所ともいわれます。
嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏を含め、二十一の流派(二十一流)があるとされています。中でも家格が最も高いのは村上源氏とされ、室町幕府の成立まで源氏長者と呼ばれていました。
『尊卑分脈』等によると経基の孫とされる源頼信が誉田八幡宮に奉ったという願文の写しが石清水八幡宮田中家文書の中にあります。それによると、源頼信は、八幡大菩薩すなわち応神天皇を自らの「二十二世の氏祖」であるとして、「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇、(以下略)」と自らの祖を列記しています。これに従うと、経基の父は清和天皇の皇子貞純親王ではなく陽成天皇の皇子元平親王となり。清和源氏ではなくて、陽成源氏に成るのですが、あまり難しくは考えないで起きますか?
【姓(かばね)について少し説明しましょう】
姓(かばね)は天皇が臣下に与える姓の事で、代表的なものの一つとして、平氏・藤原氏・橘氏とともに「源平藤橘(四姓・特例?として秀吉が豊臣姓を名乗っています)」と総称されています。姓(かばね)は現在私たちが名乗ってる姓とは違うものです。
姓については簡単に説明すると、氏「古代日本で親族ごとに集団を作っていた残りの呼名や氏族」、姓「天皇からもらったもの。朝廷での役職や地位をあらわすものです」、名字「自由に付けていいもので。氏が分家したときに区別に使ったり、武士が増えてきて自分の支配する地名を名字にして所有権を表したものです。一般的には。明治になって法令によって定められています。」
平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令)は、日本の法令である(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けました。
江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていました。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が発布されました。この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどですが)に属さない平民に「苗字」の使用が許可されました。
しかし、当時の国民(平民)の中には、「課税されることを恐れて届け出が少なかったり」「めんどくさい・・・おらは団子屋の市さんでいいや」とあえて苗字を使用しない人も多かったので、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」が発令され、すべての人々が名字を名乗ることに成りました。
かなりややこしくなってきましたね。具体例を出してみたいと思います。「織田信長」さんと「徳川家康」さんにお願いしましょう。 正式名は「源朝臣徳川次郎三郎家康」と「平朝臣織田三郎信長」です。この場合、「織田信長」さんは氏姓・平朝臣、名字・織田、通称・三郎、 実名・信長、「徳川家康」さんは氏姓・源朝臣、名字・徳川、通称・次郎三郎、 実名・家康に成ります。
信長が平氏だったので、部下の秀吉は同じく平氏姓を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったといわれています。征夷大将軍って源氏しかなれないらしいです。家康さんが源氏だったのもハッキリしているとはいえないのですがね~。
【『満願寺』のお話なのですが写真で説明したいと思います。】
平安以降臣籍降下が頻発して源・平の二姓ばかりになって来ます。最近の研究で「一世王、二世王が源、三世以降が平」だった事が判明しています。源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓として名乗る例は少なく(それでもいるんですね)、推定人口は4,000人程だそうです。
平安時代以降は、皇族の分家はおおむね「源」か「平」になり、その家の開祖となる天皇の名前をつけて呼ばれます。例として、平将門・清盛らの「桓武平氏」、源頼朝・義経らの「清和源氏」などが有ります。
一世(天皇の子)のうち、母親の身分が低くて皇族扱いされない「庶子」は、源氏を名乗ります。嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)、醍醐源氏の源高明(みなもとのたかあきら)などがいます。
二世(天皇の孫)でも、天皇にならない親王から生まれた子は源氏です。清和天皇の孫は源経基(みなもとのつねもと、源満仲の父ですね)と呼ばれ、この人が源頼朝らの祖先に成ります。
平氏は三世(天皇の曾孫)以降が名乗ります。桓武天皇の曾孫は高望王(たかもちおう)と呼ばれますが、この人が最初に平氏を名乗り、桓武平氏となりました。高望王は平清盛の祖先に成ります。
【源氏の活躍】
中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成しました。そして彼の子である頼光(摂津源氏の祖)、頼親(大和源氏の祖)、頼信(河内源氏の祖)らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大しました。
のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立しました(東国に左遷?されたのを利用した頼信はえらいですね~家康はやっぱり源氏ですね(笑)。その後の子孫も、嫡流が源氏(鎌倉)将軍や足利将軍家として武家政権を作ったほか、一門からも守護大名や国人が多く出ています。
清和源氏の代表的な家紋である「笹竜胆」は日本最古の家紋であると言われています。
【映画「関ケ原」の出来は!】
★★★☆☆☆☆☆☆☆(3.5)
(平均は★3です)
良い映画だったと思いますが、司馬朗太郎の関ケ原を読んでいた私には、やはりという感じでした。二時間半で本の上中下巻を描ききる事に無理が有ります。歴史大好きな私でも、事前(それも一週間前)に関ケ原取材に行っていなければこれ誰?な事も多かったかも分かりませんね、むしろエンターテーメントとして鑑賞すれば、楽しめるかもしれません。戦国ファンは見て損はないと思います。岡田君ファンとエンターテーメントを楽しめる人もOKです(今日は台風もあり似ている人も10人くらいなのは良かったかな)。亜人ファンはやめときましょう(笑)
【最後に一言】
皆に名字が付いたことに関連して一言!明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に壬申戸籍(じんしんこせき)が編製されました。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼んでいます。制度としての賎民は廃止され、法的に平民と一体となりましたが(四民平等)、そのため、特定の職業を独占していた権利が無くなり、逆に納税の義務や、兵役の義務を新たに課されることとなりました。制度の上での差別はなくなったものの、人々の間に差別意識は根強く残り、平等であるはずの元賎民らを「新平民」と呼び差別を続けた地域もあったことは是非忘れないで、考えていただきたいと思います。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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札所としては「新西国33観音13番」「摂津国88箇所68番」「摂津国33箇所18番 」。文化財は、「石造九重塔(国の重要文化財)」「木造金剛力士立像ほか(県文化財)」等の文化財が有ります。
【全ての始まりがここにあるの訳は?】
平安時代中期には源満仲がこの寺院に帰依し、以来源氏一門の祈願所として栄えました。源満仲の父、源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、経基流清和源氏の初代です。『保元物語』によれば、源 経基の父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされます。居館は六宮とも八条御所ともいわれます。
嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏を含め、二十一の流派(二十一流)があるとされています。中でも家格が最も高いのは村上源氏とされ、室町幕府の成立まで源氏長者と呼ばれていました。
『尊卑分脈』等によると経基の孫とされる源頼信が誉田八幡宮に奉ったという願文の写しが石清水八幡宮田中家文書の中にあります。それによると、源頼信は、八幡大菩薩すなわち応神天皇を自らの「二十二世の氏祖」であるとして、「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇、(以下略)」と自らの祖を列記しています。これに従うと、経基の父は清和天皇の皇子貞純親王ではなく陽成天皇の皇子元平親王となり。清和源氏ではなくて、陽成源氏に成るのですが、あまり難しくは考えないで起きますか?
【姓(かばね)について少し説明しましょう】
姓(かばね)は天皇が臣下に与える姓の事で、代表的なものの一つとして、平氏・藤原氏・橘氏とともに「源平藤橘(四姓・特例?として秀吉が豊臣姓を名乗っています)」と総称されています。姓(かばね)は現在私たちが名乗ってる姓とは違うものです。
姓については簡単に説明すると、氏「古代日本で親族ごとに集団を作っていた残りの呼名や氏族」、姓「天皇からもらったもの。朝廷での役職や地位をあらわすものです」、名字「自由に付けていいもので。氏が分家したときに区別に使ったり、武士が増えてきて自分の支配する地名を名字にして所有権を表したものです。一般的には。明治になって法令によって定められています。」
平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令)は、日本の法令である(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けました。
江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていました。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が発布されました。この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどですが)に属さない平民に「苗字」の使用が許可されました。
しかし、当時の国民(平民)の中には、「課税されることを恐れて届け出が少なかったり」「めんどくさい・・・おらは団子屋の市さんでいいや」とあえて苗字を使用しない人も多かったので、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」が発令され、すべての人々が名字を名乗ることに成りました。
かなりややこしくなってきましたね。具体例を出してみたいと思います。「織田信長」さんと「徳川家康」さんにお願いしましょう。 正式名は「源朝臣徳川次郎三郎家康」と「平朝臣織田三郎信長」です。この場合、「織田信長」さんは氏姓・平朝臣、名字・織田、通称・三郎、 実名・信長、「徳川家康」さんは氏姓・源朝臣、名字・徳川、通称・次郎三郎、 実名・家康に成ります。
信長が平氏だったので、部下の秀吉は同じく平氏姓を名乗ったために征夷大将軍に成れなかったといわれています。征夷大将軍って源氏しかなれないらしいです。家康さんが源氏だったのもハッキリしているとはいえないのですがね~。
【『満願寺』のお話なのですが写真で説明したいと思います。】
平安以降臣籍降下が頻発して源・平の二姓ばかりになって来ます。最近の研究で「一世王、二世王が源、三世以降が平」だった事が判明しています。源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓として名乗る例は少なく(それでもいるんですね)、推定人口は4,000人程だそうです。
平安時代以降は、皇族の分家はおおむね「源」か「平」になり、その家の開祖となる天皇の名前をつけて呼ばれます。例として、平将門・清盛らの「桓武平氏」、源頼朝・義経らの「清和源氏」などが有ります。
一世(天皇の子)のうち、母親の身分が低くて皇族扱いされない「庶子」は、源氏を名乗ります。嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)、醍醐源氏の源高明(みなもとのたかあきら)などがいます。
二世(天皇の孫)でも、天皇にならない親王から生まれた子は源氏です。清和天皇の孫は源経基(みなもとのつねもと、源満仲の父ですね)と呼ばれ、この人が源頼朝らの祖先に成ります。
平氏は三世(天皇の曾孫)以降が名乗ります。桓武天皇の曾孫は高望王(たかもちおう)と呼ばれますが、この人が最初に平氏を名乗り、桓武平氏となりました。高望王は平清盛の祖先に成ります。
【源氏の活躍】
中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成しました。そして彼の子である頼光(摂津源氏の祖)、頼親(大和源氏の祖)、頼信(河内源氏の祖)らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大しました。
のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立しました(東国に左遷?されたのを利用した頼信はえらいですね~家康はやっぱり源氏ですね(笑)。その後の子孫も、嫡流が源氏(鎌倉)将軍や足利将軍家として武家政権を作ったほか、一門からも守護大名や国人が多く出ています。
清和源氏の代表的な家紋である「笹竜胆」は日本最古の家紋であると言われています。
【映画「関ケ原」の出来は!】
★★★☆☆☆☆☆☆☆(3.5)
(平均は★3です)
良い映画だったと思いますが、司馬朗太郎の関ケ原を読んでいた私には、やはりという感じでした。二時間半で本の上中下巻を描ききる事に無理が有ります。歴史大好きな私でも、事前(それも一週間前)に関ケ原取材に行っていなければこれ誰?な事も多かったかも分かりませんね、むしろエンターテーメントとして鑑賞すれば、楽しめるかもしれません。戦国ファンは見て損はないと思います。岡田君ファンとエンターテーメントを楽しめる人もOKです(今日は台風もあり似ている人も10人くらいなのは良かったかな)。亜人ファンはやめときましょう(笑)
【最後に一言】
皆に名字が付いたことに関連して一言!明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に壬申戸籍(じんしんこせき)が編製されました。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼んでいます。制度としての賎民は廃止され、法的に平民と一体となりましたが(四民平等)、そのため、特定の職業を独占していた権利が無くなり、逆に納税の義務や、兵役の義務を新たに課されることとなりました。制度の上での差別はなくなったものの、人々の間に差別意識は根強く残り、平等であるはずの元賎民らを「新平民」と呼び差別を続けた地域もあったことは是非忘れないで、考えていただきたいと思います。
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