羽柴秀吉天下取りへの第二歩?「城持ち大名に躍進『長浜城』」
関ケ原を取材してきたので、関ケ原古戦場をご紹介したかったのですが、妻が司馬朗太郎原作の映画「関ケ原」を見に行きたいというので、それでは少し時代を遡る長浜城(ながはまじょう)をそれまでのつなぎにご紹介しておこうと考えて、本日は長浜城のご紹介です。
現在の長浜城資料館はもちろん模擬天守のコンクリート造りなので、秀吉が作った当時の城とは景観もかなり違うとおもいます。そのあたりも前座とは申しませんが、先に登場の要因の一つに成りました。
しかしながら、天守展望台から四方を見渡すと。東は賤ケ岳古戦場から、浅井氏の小谷城や鉄砲で有名な国友村方面、南は彦根城や、その後ろに佐和山城跡、西を見ると安土城址や比叡の山々、北は三十三観音霊場でも有名な竹生島が一望できる素晴しい景観です。私が登城した当日はあいにくの雨に降られて残念な景観となってしまったのですが、天気が良い日には是非出かける価値はあります。
お得情報として、整備された駐車場が3時間(城内展示と散策には十分な時間です。)無料開放されていました。
さてそれでは、滋賀県長浜市公園町にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した『長浜城跡』をご紹介しましょう。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【秀吉の長浜城と城下町】
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、浅井長政攻めの功績により織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名しました。小谷城で使用されていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始しました。
他のブロガーさんもWikipediaのこの記載を使われていますが、古来、信仰の対象となった島で神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが竹生島は、南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)があり、古来から神仏習合の一大霊場でした。寺社殿建て替え用の、針葉樹林の森が大切に保存されていたのでは推測します。これが密かに隠されていた木材の正体だと思います。
同3~4年頃長浜城が完成し秀吉が入城しています。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていました。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した形跡があります。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がありました(一時間半くらいの滞在で長浜全てを見て来たようです、講釈師見てきたような嘘を言い、笑)。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を徐々に作りあげた場所でもあります。
『うんちく「長浜曳山まつり」』は毎年4月9日~16日に、長濱八幡宮の春の例祭に合わせ執行されます。13日~16日は、絢爛豪華な山車「曳山」が登場し、その舞台の上で「子ども歌舞伎」が演じられます(子ども歌舞伎が演じられるのは毎年4台のようです)。曳山は「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基あります。
長浜曳山まつりの由来ですが、秀吉が長浜城主だったころに初めての男の子が生まれました?(誰の事でしょうね)。たぶん羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳~天正4年10月14日(1576年11月4日))と思われます。羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松のことと思われます。その他にも織田信長の四男で秀吉の養子に迎えられた於次丸「秀勝」と、秀吉の甥でのちに秀吉の養子となった小吉「秀勝」がいて少しややこしいです。
「石松丸秀勝」の出生を喜んだ秀吉は城下の人々に金(きん)を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりといわれています。
【秀吉城主後の長浜城】
1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家でした(秀吉の計略で獲得させられたとも考えられますが)。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城ることに成りました。同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏しています。秀吉に見透かされていたのかもしれませんね。
1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が城主となり、6年間在城しています。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡しています。
【関ケ原後の長浜城】
1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になりますが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になっています。資材の大半は彦根城の築城に流用されました。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができるそうです。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられています(きれいに解体されていますね)。
現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
ハッキリ言って行くだけの価値があるかですが、この地に後に天下人と呼ばれる豊臣秀吉が立っていた。同じ場所に自分自身も立っていると考えると、ほんの一時間程度のお安い買い物?違うか(笑)、一見するのも楽しいいですよ。
歴史って本当に面白いですよね~!
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現在の長浜城資料館はもちろん模擬天守のコンクリート造りなので、秀吉が作った当時の城とは景観もかなり違うとおもいます。そのあたりも前座とは申しませんが、先に登場の要因の一つに成りました。
しかしながら、天守展望台から四方を見渡すと。東は賤ケ岳古戦場から、浅井氏の小谷城や鉄砲で有名な国友村方面、南は彦根城や、その後ろに佐和山城跡、西を見ると安土城址や比叡の山々、北は三十三観音霊場でも有名な竹生島が一望できる素晴しい景観です。私が登城した当日はあいにくの雨に降られて残念な景観となってしまったのですが、天気が良い日には是非出かける価値はあります。
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【秀吉の長浜城と城下町】
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他のブロガーさんもWikipediaのこの記載を使われていますが、古来、信仰の対象となった島で神の棲む島とも言われ、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したのが竹生島は、南部には都久夫須麻神社(竹生島神社)、宝厳寺(西国三十三所三十番)があり、古来から神仏習合の一大霊場でした。寺社殿建て替え用の、針葉樹林の森が大切に保存されていたのでは推測します。これが密かに隠されていた木材の正体だと思います。
同3~4年頃長浜城が完成し秀吉が入城しています。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていました。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した形跡があります。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がありました(一時間半くらいの滞在で長浜全てを見て来たようです、講釈師見てきたような嘘を言い、笑)。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を徐々に作りあげた場所でもあります。
『うんちく「長浜曳山まつり」』は毎年4月9日~16日に、長濱八幡宮の春の例祭に合わせ執行されます。13日~16日は、絢爛豪華な山車「曳山」が登場し、その舞台の上で「子ども歌舞伎」が演じられます(子ども歌舞伎が演じられるのは毎年4台のようです)。曳山は「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基あります。
長浜曳山まつりの由来ですが、秀吉が長浜城主だったころに初めての男の子が生まれました?(誰の事でしょうね)。たぶん羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳~天正4年10月14日(1576年11月4日))と思われます。羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松のことと思われます。その他にも織田信長の四男で秀吉の養子に迎えられた於次丸「秀勝」と、秀吉の甥でのちに秀吉の養子となった小吉「秀勝」がいて少しややこしいです。
「石松丸秀勝」の出生を喜んだ秀吉は城下の人々に金(きん)を振る舞い、町民がこれをもとに山車を作って八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりといわれています。
【秀吉城主後の長浜城】
1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家でした(秀吉の計略で獲得させられたとも考えられますが)。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城ることに成りました。同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏しています。秀吉に見透かされていたのかもしれませんね。
1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が城主となり、6年間在城しています。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡しています。
【関ケ原後の長浜城】
1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になりますが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になっています。資材の大半は彦根城の築城に流用されました。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができるそうです。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられています(きれいに解体されていますね)。
現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されています。
ハッキリ言って行くだけの価値があるかですが、この地に後に天下人と呼ばれる豊臣秀吉が立っていた。同じ場所に自分自身も立っていると考えると、ほんの一時間程度のお安い買い物?違うか(笑)、一見するのも楽しいいですよ。
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