歴史の禁忌を開放するIF「秀頼野戦を選択」『瀬田の唐橋で家康を迎え撃つ』
前回のお約束、歴史にIFはありませんが、その禁忌を破って、豊臣秀頼が野戦を選んで近畿を制圧、瀬田の唐橋において家康を迎え撃ちます。そんな設定でシュミレーションを楽しんでみましょう。
紀州九度山で 真田昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策に勝利の奇跡は起こるのか?から想像を働けせて見ましょう。
【真田昌幸の秘策は、こんな作戦】
豊臣秀頼から兵を借り 青野ヶ原(現大垣市)へ布陣、します。そこは何もないただの平原で何故真田がこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思います。物見などを出してこちらの様子を伺いますが(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があり、真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないと推測します)。そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼ぐ事に成功、真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば、豊臣有利とみて寝返る武将も出てくるのではないかと想像できます。そうなると徳川方に猜疑心が生まれ、混乱も起き始めます。そこを一気に攻め立てて劇はする作戦でした。しかし野戦上手の家康をそうも簡単に敗れるはすはありません。その時は「瀬田の唐橋」を落としてさらに時間を稼ぎ、西国大名の心変わりを待つというものでした。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【真田幸村の父真田昌幸ってどんな武将?】
真田昌幸は現代の歴史小説においては「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に強い武将です。もちろん幸村の活躍によって創作された部分も多いかと考えます。 江戸期に書かれた、『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれますが、これから昌幸の人物像を紹介しますと、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと記載され、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの西国大名を味方に付けるように策す事を幸村に遺言したとされています。
戦上手で徳川軍に大損害を与えた真田昌幸、真田昌幸は、基本的に少数で大軍を追い払うことと、調略戦術を得意としていました。第一次上田合戦で徳川家康を撃退した時も、第二次上田合戦(関ケ原前夜です)で徳川秀忠を追い払ったときも、軍勢で大きく劣る相手を挑発して限界までひきつけ、怒涛の攻撃を加えています。
ちなみに、第一次上田合戦で家康と戦った際は2000弱の兵力で7000の軍勢を、第二次上田合戦では3000~4000の軍勢で38000の秀忠軍を打ち払うという離れ業を演じています。
昌幸は自軍手前ぎりぎりまで敵を引き付けての、一斉攻撃が得意でした。攻め入る敵を見て焦る家臣や兵たちを前に碁を楽しんだり、配下の者に能の演目を踊るように命じたなどの逸話もあり、冷静沈着で豪快、戦慣れした名参謀としての名を欲しいままにしています。
大坂の陣で真田が大阪城に入城したと聞いた徳川家康は、「それは親か?子か?」と配下の者に聞いたという逸話があります。過去に真田昌幸に手痛い目に遭わされていた家康は昌幸を非常に恐れていたらしく、手をかけていた戸がガタガタ音を立てて震えるほどだったといわれています(ちょっと大河ドラマの見過ぎですね)。配下の者が「昌幸は既に死去しており、息子の信繁(幸村)が入城致しました」と返答すると、家康は安堵してへたり込んでいました。
【私が豊臣VS徳川を選んだ理由】
現在の瀬田の唐橋状態が一番防御力に優れていると現地で考えたからです。織田信長が現在の位置に架橋(少し上流に移動しています)しています。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成させたといわれます。
明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、光秀が安土を攻めようと橋を渡ろうとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止しました。光秀が仮橋を架けるのに3日かかっています。焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。(ハッキリしませんが長さ一八〇軒(約327m)の橋は現在の全長260mの橋に比べてはるかに長いですよね、つまり一本橋ではなかったかと考えるのです。
中州を西に持つ現在の形なら、防御力の差は歴然です。実際に一本橋だったと思われる時代の戦乱を見ると、橋を焼き払って防御するしか方法も無く、焼き払って防御した陣営がほとんどの場合負けています。、「壬申の乱(672年 )」、「藤原仲麻呂の乱(764年)」、「寿永の乱(1180年から1185年)」、「承久の乱(1221年)」、「建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)」等どがその例に成ります。一本橋の上で「や~や~我こそは」とやってた時代はそんなものだったのかもしれませんね。
【真田昌幸の秘策?は実現できたのか?】
関ヶ原の戦いの時代とは異なり、20年の間に、家康は豊臣の力を弱めるために鉄壁とも呼べる布陣を行っています。大阪の陣の頃には、徳川家康の天下普請により築かれた堅城が大阪城を囲うように築かれています。
西濃への通り道は彦根藩(東国へ到る三関の一つ不破関の西方を治める)は譜代大名筆頭の井伊氏の所領であり、その居城の彦根城は、西国大名が徳川に反旗を翻した際にその軍勢を押し留める事を目的に光成の佐和山城を解体するがごとく、天下普請で築かれた城です。
彦根藩を大幅に迂回する経路(南周り)を進撃しようとしても、伊勢(東国へ到る三関の一つ鈴鹿関)は家康の信任あつい藤堂家が治めています。外様大名でありながら譜代大名格であり、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂という慣例ができた程の家康親藩です。
運よく彦根城を抜いて、美濃に入る事が出来ても、西濃(青野ヶ原を含む大垣藩)は徳川歴代の譜代家臣である石川氏の所領に成っており、その居城の大垣城は関ヶ原の合戦の際に家康がこの城に篭った西軍との決戦を避けて迂回し関ヶ原に布陣したほどの堅城です。複雑に絡み合った河川と水壕で大垣は水の都と呼ばれ、大垣城は巨鹿城とも呼ばれていました。
さらに、美濃国には家康の娘婿たる奥平信昌が立藩した加納藩が控えていますし、しかも美濃の隣国尾張には御三家筆頭となる家康の九男、徳川 義直(とくがわ よしなお)が守っているのです。先日尾張城がさらに堅固な守備機能を持とうとしていた、古図面も確認されましたね。
それなら東国へ到る最後の三関の愛発関。越前(北周り)は、家康の次男秀康が立藩した福井藩(67万石)があります。
『うんちく三関(さんげん、さんかん)』とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称です。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市近辺)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内)の三つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わりました。また、三関のある律令国は三関国と呼ばれています。
結論から言いますと真田昌幸の策は無理だったと考えます。それでは、豊臣側に勝機は無かったのか?と考えるのですが、私は「瀬田の唐橋」で家康を迎え撃つ方法なら勝利できたと、現地を見て考えました~(*^^*)
【豊臣勝利の法則「瀬田の唐橋」】
大阪冬の陣の時点の双方の勢力です。徳川将軍家側約20万、豊臣側約9万でした。私の構想では豊臣側は半数の4万5千でも勝利できたのではないかと考えます。
幾つか条件が在るのですが、まず天皇です。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) ~寛永6年11月8日(1629年12月22日))を調略する事です。後陽成天皇の第三皇子ですが、母は、関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子(兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子)で後陽成女御の中和門院・近衛前子ですから意外とすんなり調略できるかもしれません。さらに当然幕府を開くことは政治から切り離されることであり、天皇としては喜ばしい事ではないはずです。
次に天皇の綸旨を発して西国の武将を味方に付けます。実際味方につけなくても家康の誘いに乗らないだけで充分です。
【いざ決戦~】
畿内を手中に治めた、豊臣軍の本体は「瀬田の唐橋」で家康軍を迎え撃ちます。一部一万は福井藩秀康の牽制に向かいます(牽制して軍を止めるだけで充分です)。
一万は南下して桂川を牽制(山崎の橋はもったいないけど落とします)に向かいます。これにより渡河できるのは瀬田の唐橋のみです。さらに、もう一万は(必要ないかもしれませんが)姫路の池田家に備えて湊川を守備します(池田家は徳川家と親族関係に有りもしかすると?の懸念があります)。
西国の武将は九州には関ヶ原敗戦組の島津家の動向が気になって動けないでしょうし、中国地方も同様に毛利家が後ろに控えていますから、そう軽々には動けませんね。土佐に入った山内家も長宗我部の残党に苦しめられているので四国も動きは無いと考えました。
さあ舞台は整いました。豊臣軍の残存勢力は6万ですが、対する徳川将軍家は、前述の事情で、20万から2割減の16万ほどに減っている筈です。決戦はもちろん『瀬田の唐橋』です。出来れば西側正面に新真田丸でも築けば完璧ですが(笑)。
ここで現在の航空写真をご覧いただきましょう。中州が意外に多きい事に気が付かれましたか?大きな駐車場やレストラン、食堂など実際の地図は浮世絵とは全く違います。攻める徳川軍は7.5m幅の橋を200mも攻め込まなければ前線での戦いは出来ませんし、橋の幅は7.5mしかありません、横に並んで戦えるのは、10人が限度だと考えます。徳川軍は最前列の50人程度が戦闘に参加できたら精一杯ではないでしょうか。
一方豊臣軍は中州の両側に2000人ずつ位は入れると現地で感じました。正面には3000人!ちょっと、ぎゅぎゅう詰めですが(実質戦闘参加は500人程度かと考えます。)、それでも徳川軍の10倍の戦力の上にこちら(もう西軍の味方、笑)は1人に対して3方向(中州南北と西側)から攻め込めます。城でいえば桝形構造のうえに鶴翼陣形。それが小橋のお陰で二重に配置出来る所に、更に地形の有利さが有ります。対する徳川軍は突撃して突き破る以外に方法はありません。
戦いが始まれば、損失の差は数だけでも10:1ですね、単純に考えれば初戦?の徳川勢2万人が突撃して、戦闘不能に落ちいった時点で、こちら(豊臣軍)の損失は2000人です。200mの橋の上で引くこともできない徳川軍に対してこちらは60mで補給ができます。豊臣軍の損失は2000を毎回補うこととすると、徳川軍が14万に成った時点でこちらは58000人、12万で56000人、10万で54000人、8万人で52000人、6万人で5万人、4万人で48000人!もういいでしょう。家康軍が壊滅した時点で、豊臣軍は44000人が残っていることになります。
「瀬田の唐橋」での豊臣勝利後の展開ですが、家康ももちろん歴戦の強者です。自軍が壊滅するまでの戦闘は行わないと考えますし、一度関東に引いて態勢を整えようとするはずです。豊臣軍?は、「瀬田の唐橋」を最前線に畿内連合を作って真田昌幸が提唱した、少しでも多くの西国大名と条約を結び時を稼ぐ作戦を取ります。史実でもそうですが、大阪夏の陣の二年後家康は天ぷらにあたって死亡しています(事実か知りませんよ?笑)。対する秀頼、史実は(享年23「満21歳没」)でしたから、これからですよね~天下の形勢がどちらに傾いたかは、考える必要も無いでしょう。
【最後に、歴史のIF「taboo」は本当に面白いですよね】
首都は京都か大阪でしょう。明治維新も起こらなかったと思いますね~。アッ!大学とかで歴史を学んでいたらこんなおとぎ話をブログに書いたりはしないと思います。
私が歴史に素人で、理系の人間だから面白可笑しく考えてみました。皆さんどうですか?楽しんでいただけました?(笑)
(最後にプレゼントです。笑)
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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紀州九度山で 真田昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策に勝利の奇跡は起こるのか?から想像を働けせて見ましょう。
【真田昌幸の秘策は、こんな作戦】
豊臣秀頼から兵を借り 青野ヶ原(現大垣市)へ布陣、します。そこは何もないただの平原で何故真田がこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思います。物見などを出してこちらの様子を伺いますが(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があり、真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないと推測します)。そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼ぐ事に成功、真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば、豊臣有利とみて寝返る武将も出てくるのではないかと想像できます。そうなると徳川方に猜疑心が生まれ、混乱も起き始めます。そこを一気に攻め立てて劇はする作戦でした。しかし野戦上手の家康をそうも簡単に敗れるはすはありません。その時は「瀬田の唐橋」を落としてさらに時間を稼ぎ、西国大名の心変わりを待つというものでした。
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【真田幸村の父真田昌幸ってどんな武将?】
真田昌幸は現代の歴史小説においては「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に強い武将です。もちろん幸村の活躍によって創作された部分も多いかと考えます。 江戸期に書かれた、『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれますが、これから昌幸の人物像を紹介しますと、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと記載され、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの西国大名を味方に付けるように策す事を幸村に遺言したとされています。
戦上手で徳川軍に大損害を与えた真田昌幸、真田昌幸は、基本的に少数で大軍を追い払うことと、調略戦術を得意としていました。第一次上田合戦で徳川家康を撃退した時も、第二次上田合戦(関ケ原前夜です)で徳川秀忠を追い払ったときも、軍勢で大きく劣る相手を挑発して限界までひきつけ、怒涛の攻撃を加えています。
ちなみに、第一次上田合戦で家康と戦った際は2000弱の兵力で7000の軍勢を、第二次上田合戦では3000~4000の軍勢で38000の秀忠軍を打ち払うという離れ業を演じています。
昌幸は自軍手前ぎりぎりまで敵を引き付けての、一斉攻撃が得意でした。攻め入る敵を見て焦る家臣や兵たちを前に碁を楽しんだり、配下の者に能の演目を踊るように命じたなどの逸話もあり、冷静沈着で豪快、戦慣れした名参謀としての名を欲しいままにしています。
大坂の陣で真田が大阪城に入城したと聞いた徳川家康は、「それは親か?子か?」と配下の者に聞いたという逸話があります。過去に真田昌幸に手痛い目に遭わされていた家康は昌幸を非常に恐れていたらしく、手をかけていた戸がガタガタ音を立てて震えるほどだったといわれています(ちょっと大河ドラマの見過ぎですね)。配下の者が「昌幸は既に死去しており、息子の信繁(幸村)が入城致しました」と返答すると、家康は安堵してへたり込んでいました。
【私が豊臣VS徳川を選んだ理由】
現在の瀬田の唐橋状態が一番防御力に優れていると現地で考えたからです。織田信長が現在の位置に架橋(少し上流に移動しています)しています。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成させたといわれます。
明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、光秀が安土を攻めようと橋を渡ろうとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止しました。光秀が仮橋を架けるのに3日かかっています。焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされます。(ハッキリしませんが長さ一八〇軒(約327m)の橋は現在の全長260mの橋に比べてはるかに長いですよね、つまり一本橋ではなかったかと考えるのです。
中州を西に持つ現在の形なら、防御力の差は歴然です。実際に一本橋だったと思われる時代の戦乱を見ると、橋を焼き払って防御するしか方法も無く、焼き払って防御した陣営がほとんどの場合負けています。、「壬申の乱(672年 )」、「藤原仲麻呂の乱(764年)」、「寿永の乱(1180年から1185年)」、「承久の乱(1221年)」、「建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)」等どがその例に成ります。一本橋の上で「や~や~我こそは」とやってた時代はそんなものだったのかもしれませんね。
【真田昌幸の秘策?は実現できたのか?】
関ヶ原の戦いの時代とは異なり、20年の間に、家康は豊臣の力を弱めるために鉄壁とも呼べる布陣を行っています。大阪の陣の頃には、徳川家康の天下普請により築かれた堅城が大阪城を囲うように築かれています。
西濃への通り道は彦根藩(東国へ到る三関の一つ不破関の西方を治める)は譜代大名筆頭の井伊氏の所領であり、その居城の彦根城は、西国大名が徳川に反旗を翻した際にその軍勢を押し留める事を目的に光成の佐和山城を解体するがごとく、天下普請で築かれた城です。
彦根藩を大幅に迂回する経路(南周り)を進撃しようとしても、伊勢(東国へ到る三関の一つ鈴鹿関)は家康の信任あつい藤堂家が治めています。外様大名でありながら譜代大名格であり、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂という慣例ができた程の家康親藩です。
運よく彦根城を抜いて、美濃に入る事が出来ても、西濃(青野ヶ原を含む大垣藩)は徳川歴代の譜代家臣である石川氏の所領に成っており、その居城の大垣城は関ヶ原の合戦の際に家康がこの城に篭った西軍との決戦を避けて迂回し関ヶ原に布陣したほどの堅城です。複雑に絡み合った河川と水壕で大垣は水の都と呼ばれ、大垣城は巨鹿城とも呼ばれていました。
さらに、美濃国には家康の娘婿たる奥平信昌が立藩した加納藩が控えていますし、しかも美濃の隣国尾張には御三家筆頭となる家康の九男、徳川 義直(とくがわ よしなお)が守っているのです。先日尾張城がさらに堅固な守備機能を持とうとしていた、古図面も確認されましたね。
それなら東国へ到る最後の三関の愛発関。越前(北周り)は、家康の次男秀康が立藩した福井藩(67万石)があります。
『うんちく三関(さんげん、さんかん)』とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つの関の総称です。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市近辺)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内)の三つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わりました。また、三関のある律令国は三関国と呼ばれています。
結論から言いますと真田昌幸の策は無理だったと考えます。それでは、豊臣側に勝機は無かったのか?と考えるのですが、私は「瀬田の唐橋」で家康を迎え撃つ方法なら勝利できたと、現地を見て考えました~(*^^*)
【豊臣勝利の法則「瀬田の唐橋」】
大阪冬の陣の時点の双方の勢力です。徳川将軍家側約20万、豊臣側約9万でした。私の構想では豊臣側は半数の4万5千でも勝利できたのではないかと考えます。
幾つか条件が在るのですが、まず天皇です。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) ~寛永6年11月8日(1629年12月22日))を調略する事です。後陽成天皇の第三皇子ですが、母は、関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子(兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子)で後陽成女御の中和門院・近衛前子ですから意外とすんなり調略できるかもしれません。さらに当然幕府を開くことは政治から切り離されることであり、天皇としては喜ばしい事ではないはずです。
次に天皇の綸旨を発して西国の武将を味方に付けます。実際味方につけなくても家康の誘いに乗らないだけで充分です。
【いざ決戦~】
畿内を手中に治めた、豊臣軍の本体は「瀬田の唐橋」で家康軍を迎え撃ちます。一部一万は福井藩秀康の牽制に向かいます(牽制して軍を止めるだけで充分です)。
一万は南下して桂川を牽制(山崎の橋はもったいないけど落とします)に向かいます。これにより渡河できるのは瀬田の唐橋のみです。さらに、もう一万は(必要ないかもしれませんが)姫路の池田家に備えて湊川を守備します(池田家は徳川家と親族関係に有りもしかすると?の懸念があります)。
西国の武将は九州には関ヶ原敗戦組の島津家の動向が気になって動けないでしょうし、中国地方も同様に毛利家が後ろに控えていますから、そう軽々には動けませんね。土佐に入った山内家も長宗我部の残党に苦しめられているので四国も動きは無いと考えました。
さあ舞台は整いました。豊臣軍の残存勢力は6万ですが、対する徳川将軍家は、前述の事情で、20万から2割減の16万ほどに減っている筈です。決戦はもちろん『瀬田の唐橋』です。出来れば西側正面に新真田丸でも築けば完璧ですが(笑)。
ここで現在の航空写真をご覧いただきましょう。中州が意外に多きい事に気が付かれましたか?大きな駐車場やレストラン、食堂など実際の地図は浮世絵とは全く違います。攻める徳川軍は7.5m幅の橋を200mも攻め込まなければ前線での戦いは出来ませんし、橋の幅は7.5mしかありません、横に並んで戦えるのは、10人が限度だと考えます。徳川軍は最前列の50人程度が戦闘に参加できたら精一杯ではないでしょうか。
一方豊臣軍は中州の両側に2000人ずつ位は入れると現地で感じました。正面には3000人!ちょっと、ぎゅぎゅう詰めですが(実質戦闘参加は500人程度かと考えます。)、それでも徳川軍の10倍の戦力の上にこちら(もう西軍の味方、笑)は1人に対して3方向(中州南北と西側)から攻め込めます。城でいえば桝形構造のうえに鶴翼陣形。それが小橋のお陰で二重に配置出来る所に、更に地形の有利さが有ります。対する徳川軍は突撃して突き破る以外に方法はありません。
戦いが始まれば、損失の差は数だけでも10:1ですね、単純に考えれば初戦?の徳川勢2万人が突撃して、戦闘不能に落ちいった時点で、こちら(豊臣軍)の損失は2000人です。200mの橋の上で引くこともできない徳川軍に対してこちらは60mで補給ができます。豊臣軍の損失は2000を毎回補うこととすると、徳川軍が14万に成った時点でこちらは58000人、12万で56000人、10万で54000人、8万人で52000人、6万人で5万人、4万人で48000人!もういいでしょう。家康軍が壊滅した時点で、豊臣軍は44000人が残っていることになります。
「瀬田の唐橋」での豊臣勝利後の展開ですが、家康ももちろん歴戦の強者です。自軍が壊滅するまでの戦闘は行わないと考えますし、一度関東に引いて態勢を整えようとするはずです。豊臣軍?は、「瀬田の唐橋」を最前線に畿内連合を作って真田昌幸が提唱した、少しでも多くの西国大名と条約を結び時を稼ぐ作戦を取ります。史実でもそうですが、大阪夏の陣の二年後家康は天ぷらにあたって死亡しています(事実か知りませんよ?笑)。対する秀頼、史実は(享年23「満21歳没」)でしたから、これからですよね~天下の形勢がどちらに傾いたかは、考える必要も無いでしょう。
【最後に、歴史のIF「taboo」は本当に面白いですよね】
首都は京都か大阪でしょう。明治維新も起こらなかったと思いますね~。アッ!大学とかで歴史を学んでいたらこんなおとぎ話をブログに書いたりはしないと思います。
私が歴史に素人で、理系の人間だから面白可笑しく考えてみました。皆さんどうですか?楽しんでいただけました?(笑)

歴史って本当に面白いですよね~!
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