伝説と歴史に彩られる『瀬田の唐橋』①
今日は日本三名橋の一つ、瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)をご紹介する予定なのですが、日本三名橋については、まず日本橋(東京都中央区/日本橋川)、錦帯橋(山口県岩国市/錦川)、眼鏡橋(長崎県長崎市/中島川)という意見があります(瀬田唐橋入っていない)。
さらには今回の瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)、二重橋(東京都千代田区/皇居の濠)、三条大橋(京都府京都市/鴨川)の意見やウィキトラベルだと、三奇橋として錦帯橋(山口)・猿橋(山梨)・かずら橋(岩国)が選ばれています。
さて今回は歴史に基づいて、日本三古橋の宇治橋(京都府宇治市/宇治川)、山崎橋(京都府八幡市・大山崎町/淀川)、と瀬田唐橋を、日本三大橋と理解して、ご紹介したいと思います。
ちなみに山崎橋(やまさきばし)は、かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋です。日本三古橋の筆頭として、山崎太郎と呼ばれましたが、現在は存在していません。
それでは、滋賀県大津市にある、瀬田川にかかる橋、瀬田の唐橋をご紹介しましょう。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【その前に(まだあるのかい)自慢話を一つ】

(是非ご覧ください)
昨夜Facebookのお友達にはお知らせしたのですが、ブログランキングの「ブログ村」日本史部門で初めて一位を獲得しました~(喜)もちろん一日だけです。(笑)先日、現在一位の「しばやん」さん(URLをご紹介する必要もないでしょう。一位なのですからね~)とコメントでお話させていただきました。ブログがとても素晴らしいのはもちろんですが、人柄や知識にも圧倒されました。
とてもじゃないが、私の様な文章も書いた事のない、理系の人間が追いつけるレベルではありえないと思っておりました。
しばやんさんから「素敵なブログを書かれますね」とコメントされた時には、お世辞とわかっていながらうれしくてふるえてしました。そのトップブロガーさんにたとえ一日でも追いつけたことは、大きな自信につながりました。二年間ブログを書いて来てこれほど諦めなくてよかったと思った日はありませんでした。
これもひとえに、応援してくださった皆様と、支え・励まし・教授してくれた。ブログ仲間の皆さんのおかげです。これからももっともっと努力して、今回のように一日天下ではない一位を目指しますので、これからもよろしくお願いいたします。
【瀬田の唐橋(せたのからはし)に話を戻して~】
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋の名前です。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を通過しています。「勢多の唐橋」とも書かれ、「瀬田の長橋」とも言われています。
京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定されました、「日本の道100選」にも選ばれています。
【歴史と伝説「古代から室町」】
戦国時代から現代までは次回のお楽しみです。立地ですが、東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要があります。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。実際に唐橋を舞台として繰り広げられた、「壬申の乱(672年 )」、寿永の乱(1180年から1185年)、承久の乱、建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)など、昔から様々な戦乱に巡り合ってきました。
本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられますが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていたようです。
唐橋が架けられた年代は不詳ですが、神功皇后の時代にはすでにあったと考えられ、摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こしたとき。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したとされます(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。
こちらを参考にしてください。
①謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!
「壬申の乱(671年)」では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んでいます(私的には瀬田の唐橋は城にも匹敵する鉄壁の防御力だと考えるねですが)。御霊神社(滋賀県大津に在る四つの御霊神社の内三つの主祭神は大友皇子です(『日本書紀』天武天皇&上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上に見られる初見です。。
「藤原仲麻呂の乱(764年)」孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件です。または、恵美押勝の乱とも言われ、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りし橋を焼き落とします。押勝は高島郡に走りますが、滅びてしまいました(『続日本紀』淳仁天皇天平宝字八年九月)。
【平安時代はよく焼ける木の橋ですから】
870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれています。近江国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われました、橋の建て替えは朝廷への報告義務が有ったようです。
【俵藤太「藤原秀郷」の伝説】
「俵藤太大ムカデ退治伝説」、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなりましたが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまいます。その夜、美しい娘が藤太を訪ねて来ました。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えた姿だったのです。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願しました。
藤太は美しい娘の話に快諾し(いつでも美女には弱いよね)、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を七巻き半する大百足が現れます。藤太は矢を射たが大百足には全く通じません。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができました。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られます。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといわれています(この伝説自体が「平将門の乱平定」から作られたと思って間違いないでしょう)。
【蜻蛉日記と更級日記】
「更級日記(竹芝伝説の章)」で、下男と帝の娘が京から武蔵国へ逃走する際、追手から逃れるため瀬田橋を破壊したとの記述があり、当時から交通の要所であったことがうかがえます(下男といえど帝の娘と駆け落ち?する度胸が有れば、橋くらいは破壊するかもしれません)。「更級日記」の作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女で、母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母です。970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母(作者本人)が明け方に船で勢多橋を渡河の記録が有ります。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」からつけられています。
【鎌倉・室町の戦】
治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家が戦います(ちなみに1183年は現代歴史でも鎌倉時代ではありませんが(-"-;A ...アセアセ)。『平家物語』において源義仲は、朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれています。
以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となります。1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのは今井兼平でした。宇治で義経に敗れた義仲と合流しますが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれています。
「承久の乱」では1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦しました。結果はご存知ですよね~。
後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流され、隠岐島で亡くなっています。百人一首99番目の歌人「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」ですね。(人を愛しくも恨めしくも思う。世の中も自分の思い通りにならなくて悩んでしまう)という感じですか?ちなみに16弁の菊の御門、後鳥羽上皇が作者です。
「建武の戦い」 1336年(建武4年)、足利直義率いる足利勢と名和長年率いる朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。足利尊氏は南下して宇治川で楠木正成に勝利し、京都へ進攻しました(宇治川は渡河できたんですね)。
「観応の擾乱」 1350年(観応元年)12月4日、足利直義派の伊勢・志摩守護石塔頼房が上野直勝とともに近江に進出し、近江守護軍と交戦しました。その日のうちに瀬田へ進出し、唐橋を焼き払っています(観応の擾乱 、こちらは 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦いです) 。
【最後まで戦乱】
このように、瀬田の唐橋は古代からずっと日本の栄華と衰退を見て来た橋といって過言ではありません。次回は戦国時代から瀬田の唐橋の面白エピソードをご紹介します。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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さらには今回の瀬田唐橋(滋賀県大津市/瀬田川)、二重橋(東京都千代田区/皇居の濠)、三条大橋(京都府京都市/鴨川)の意見やウィキトラベルだと、三奇橋として錦帯橋(山口)・猿橋(山梨)・かずら橋(岩国)が選ばれています。
さて今回は歴史に基づいて、日本三古橋の宇治橋(京都府宇治市/宇治川)、山崎橋(京都府八幡市・大山崎町/淀川)、と瀬田唐橋を、日本三大橋と理解して、ご紹介したいと思います。
ちなみに山崎橋(やまさきばし)は、かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋です。日本三古橋の筆頭として、山崎太郎と呼ばれましたが、現在は存在していません。
それでは、滋賀県大津市にある、瀬田川にかかる橋、瀬田の唐橋をご紹介しましょう。
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|o´艸)。oO(Thank you)。
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【瀬田の唐橋(せたのからはし)に話を戻して~】
瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋の名前です。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を通過しています。「勢多の唐橋」とも書かれ、「瀬田の長橋」とも言われています。
京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大橋の一つとされてきました。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定されました、「日本の道100選」にも選ばれています。
【歴史と伝説「古代から室町」】
戦国時代から現代までは次回のお楽しみです。立地ですが、東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要があります。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われて来ました。実際に唐橋を舞台として繰り広げられた、「壬申の乱(672年 )」、寿永の乱(1180年から1185年)、承久の乱、建武の乱(もしくは、延元の乱・1336年4月11日)など、昔から様々な戦乱に巡り合ってきました。
本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられますが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていたようです。
唐橋が架けられた年代は不詳ですが、神功皇后の時代にはすでにあったと考えられ、摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こしたとき。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したとされます(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。
こちらを参考にしてください。
①謀略の偽陵なのか?「五色塚古墳」に浪漫を求めて!
「壬申の乱(671年)」では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となりました。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んでいます(私的には瀬田の唐橋は城にも匹敵する鉄壁の防御力だと考えるねですが)。御霊神社(滋賀県大津に在る四つの御霊神社の内三つの主祭神は大友皇子です(『日本書紀』天武天皇&上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上に見られる初見です。。
「藤原仲麻呂の乱(764年)」孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件です。または、恵美押勝の乱とも言われ、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りし橋を焼き落とします。押勝は高島郡に走りますが、滅びてしまいました(『続日本紀』淳仁天皇天平宝字八年九月)。
【平安時代はよく焼ける木の橋ですから】
870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれています。近江国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われました、橋の建て替えは朝廷への報告義務が有ったようです。
【俵藤太「藤原秀郷」の伝説】
「俵藤太大ムカデ退治伝説」、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなりましたが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまいます。その夜、美しい娘が藤太を訪ねて来ました。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えた姿だったのです。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願しました。
藤太は美しい娘の話に快諾し(いつでも美女には弱いよね)、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を七巻き半する大百足が現れます。藤太は矢を射たが大百足には全く通じません。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができました。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られます。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたといわれています(この伝説自体が「平将門の乱平定」から作られたと思って間違いないでしょう)。
【蜻蛉日記と更級日記】
「更級日記(竹芝伝説の章)」で、下男と帝の娘が京から武蔵国へ逃走する際、追手から逃れるため瀬田橋を破壊したとの記述があり、当時から交通の要所であったことがうかがえます(下男といえど帝の娘と駆け落ち?する度胸が有れば、橋くらいは破壊するかもしれません)。「更級日記」の作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女で、母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母です。970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母(作者本人)が明け方に船で勢多橋を渡河の記録が有ります。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」からつけられています。
【鎌倉・室町の戦】
治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家が戦います(ちなみに1183年は現代歴史でも鎌倉時代ではありませんが(-"-;A ...アセアセ)。『平家物語』において源義仲は、朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれています。
以仁王の令旨によって挙兵、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となります。1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのは今井兼平でした。宇治で義経に敗れた義仲と合流しますが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれています。
「承久の乱」では1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦しました。結果はご存知ですよね~。
後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流され、隠岐島で亡くなっています。百人一首99番目の歌人「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」ですね。(人を愛しくも恨めしくも思う。世の中も自分の思い通りにならなくて悩んでしまう)という感じですか?ちなみに16弁の菊の御門、後鳥羽上皇が作者です。
「建武の戦い」 1336年(建武4年)、足利直義率いる足利勢と名和長年率いる朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。足利尊氏は南下して宇治川で楠木正成に勝利し、京都へ進攻しました(宇治川は渡河できたんですね)。
「観応の擾乱」 1350年(観応元年)12月4日、足利直義派の伊勢・志摩守護石塔頼房が上野直勝とともに近江に進出し、近江守護軍と交戦しました。その日のうちに瀬田へ進出し、唐橋を焼き払っています(観応の擾乱 、こちらは 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦いです) 。
【最後まで戦乱】
このように、瀬田の唐橋は古代からずっと日本の栄華と衰退を見て来た橋といって過言ではありません。次回は戦国時代から瀬田の唐橋の面白エピソードをご紹介します。
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