聖武天皇は東大寺より先に大仏を作っていた?『甲賀寺跡』なのか『紫香楽宮跡』
昨夜は大阪でミュージカル「キャッツ」の家族サービス。
今日はFacebookのお友達、篠原希さんにお会いしたくて、珍しく妻と信楽焼き祭りに出かけました。素敵な焼き締めの徳利を頂き帰宅しようと、会場を後にすると、直ぐな場所に「紫香楽宮前」という駅名があるではありませんか!歴史好きの私の事「ピピン」と頭の歴史レーダーが反応しました。
帰宅して資料を調べてみると面白いことが分かったので、ご紹介したいと思います。ただこの『紫香楽宮跡』が本物の宮跡なのか?東大寺に先立って作られた『甲賀寺跡』なのかはいまだに議論があるようです。
ただ私が重い身体を引きずりながら、汗だくで走り廻った限りにおいては、巨大な寺院か宮殿跡が存在したことは間違いありません。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【紫香楽宮って何?】
紫香楽宮・信楽宮(しがらきのみや)は、奈良時代に聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮の事で、後に甲賀宮(こうかのみや)とも呼ばれ、都となりました。
740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸しました。これが紫香楽宮といわれています。
『うんちく「藤原広嗣の乱」』
奈良時代、天平 12 (740) 年9月北九州で起こった反乱です。大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷され不満のあった藤原広嗣(宇合(うまかい)の子)は、管轄下の兵1万に及ぶ兵をを動員して九州で反乱を起しました。左大臣橘諸兄の政権を構成する、吉備真備 (きびのまきび) 、僧正玄 昉 (げんぼう) を除こうとして東上を開始しました。朝廷では大野東人を将として1万 7000の兵で鎮圧にあたらせます。戦闘はほぼ2ヵ月にも及びましたが、広嗣は捕えられて処刑され鎮圧されました。この結果、広嗣の出た藤原式家は一時衰えて南家が台頭し遷都が計画されました。玄 昉、真備は左遷されています。
翌年743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願します(奈良東大寺に先だってですよ~事件です!)。これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものだと考えられます(中国の真似がしたかったのね)。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められました。
【信楽宮から甲賀宮へ】
翌年744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられ始めます。
745年(天平17年)1月にはもう新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされることに成りました。更に同年4月15日には、流罪となっていた塩焼王(名前が凄いね)を許して京に入ることを許していることから、実態はいまだ不明ながら京(紫香楽京)の範囲が設定されていたとみられます。しかし人臣の賛同を得られず、また天災など不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになりました(わがままに振り回される周りも大変ですね)。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになりました。
『うんちく「塩焼王」』塩焼王(しおやきおう)は、日本の奈良時代の皇族です。 ?-764 奈良時代,新田部(にいたべ)親王の王子で道祖(ふなど)王の兄で、不破(ふわ)内親王の夫に成ります。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)9年(757)皇太子候補となりますが、しりぞけられています。のちに臣籍降下し氷上 塩焼(ひがみ の しおやき)と称しました。天武天皇の孫にあたります。
紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があります、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂ら藤原氏に関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁・行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがあります(なお、藤原氏と同氏出身の光明皇后に関しては紫香楽宮放棄と大仏計画中止の原因になった紫香楽周辺での不審な山火事に関与したとする説もあります)。
「紫香楽」の地名表記については、正倉院文書には「信楽宮」としたものが3件ある一方で、「紫香楽」と表記したものが全く無いため、続日本紀が編纂されたときの修辞(うまく書き直された)の可能性も考えられます。また744年(天平16年)を境に、宮名が「信楽宮」(続日本紀では「紫香楽宮」)から「甲賀宮」へと変化しており、これは単なる離宮から甲賀寺と一体の都とされたことにより宮名が改められたか、離宮の紫香楽宮とは別に宮町遺跡の地に甲賀宮が新しく造営されたことによるともいわれます。
【紫香楽宮遺跡】
かつては甲賀郡信楽町(現・甲賀市)黄瀬・牧地区の遺跡(1926年「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定)が紫香楽宮跡と考えられていましたが、北約1kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、税納入を示す木簡が大量に出土したことなどから、宮町遺跡が宮跡と考えられるようになり、黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力に成りました。2005年には宮町遺跡を含む19.3ヘクタールが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定れています。北約1kmに位置する宮町遺跡が本当の『信楽宮→甲賀宮』ですかね?
今回「妖怪レーダー」ならぬ私の「歴史レーダー」に反応したのは黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡の可能歳が強くなっています。しかしながら、現在でも、「宮町」「勅旨」「内裏野」などの地名が残り、往事の宮城の名残を残しています。
【紫香楽宮(しがらきのみや)跡比定地ご紹介】
聖武天皇が天平17年(745年)に遷都した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡に比定され、1926年(大正15年)に史跡として約33000平方メートルが指定されました。しかし、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町の宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、黄瀬・牧にある遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国国分寺の跡である可能性が高くなっています。
黄瀬・牧の遺跡は、300あまりの礎石が残るなど遺構の保全状態はとても良好です。礎石の配列から東大寺の伽藍配置と同様の建物配置を持つ寺院跡とみられています。当遺跡から出土した軒丸瓦が種類、軒平瓦2種類のうち、創建期とされる瓦は、恭仁宮大極殿造営に際して新調された瓦をモチーフとした単弁十七葉蓮華文の軒丸瓦と均整唐草文の軒平瓦が、恭仁宮廃都後に建立された山城国分寺の塔跡と同笵瓦であることが確認されていることから、寺院跡であることは疑う余地はありません。
遺跡の北東約600メートルには2000年(平成12年) ~2002年(平成14年)にかけて、新名神高速道路建設に関連して発掘された鍛冶屋敷遺跡があります。この遺跡は銅鋳造関連遺跡で、紫香楽宮跡にも近い場所です。遺跡周辺では当時作られた信楽製の坩堝(るつぼ)が多数出土しています。この坩堝は、銅を混ぜた合金を作るのに使われたとかんがえられます。
坩堝は、江戸時代に使用された真鍮を溶解した「梅干壷」と呼ばれるもので、大仏建立に関連した奈良時代のものではありません。大仏鋳造や寺院などの大型品の鋳造では、坩堝は用いず溶解炉から直接鋳型に流し込む技法であったことが考古学的にも立証されています。つまり大仏を作るための物ではなかったということですかね?何を作ってたんでしょう。
なお、当地域では、甲賀市信楽町勅旨の玉桂寺を保良宮の跡とする伝承もあるようです。つまりどういうことだ?今回私が見つけた『紫香楽宮跡』は本来は『甲賀寺跡』で後に奈良に建築された『東大寺』の試作モデルだったのかもしれません?
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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今日はFacebookのお友達、篠原希さんにお会いしたくて、珍しく妻と信楽焼き祭りに出かけました。素敵な焼き締めの徳利を頂き帰宅しようと、会場を後にすると、直ぐな場所に「紫香楽宮前」という駅名があるではありませんか!歴史好きの私の事「ピピン」と頭の歴史レーダーが反応しました。
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【紫香楽宮って何?】
(見つけた~て感じだったんですけどね、笑)
(ちょっと田舎すぎますかね?)
紫香楽宮・信楽宮(しがらきのみや)は、奈良時代に聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮の事で、後に甲賀宮(こうかのみや)とも呼ばれ、都となりました。
740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸しました。これが紫香楽宮といわれています。
『うんちく「藤原広嗣の乱」』
奈良時代、天平 12 (740) 年9月北九州で起こった反乱です。大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷され不満のあった藤原広嗣(宇合(うまかい)の子)は、管轄下の兵1万に及ぶ兵をを動員して九州で反乱を起しました。左大臣橘諸兄の政権を構成する、吉備真備 (きびのまきび) 、僧正玄 昉 (げんぼう) を除こうとして東上を開始しました。朝廷では大野東人を将として1万 7000の兵で鎮圧にあたらせます。戦闘はほぼ2ヵ月にも及びましたが、広嗣は捕えられて処刑され鎮圧されました。この結果、広嗣の出た藤原式家は一時衰えて南家が台頭し遷都が計画されました。玄 昉、真備は左遷されています。
翌年743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願します(奈良東大寺に先だってですよ~事件です!)。これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものだと考えられます(中国の真似がしたかったのね)。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められました。
【信楽宮から甲賀宮へ】
翌年744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられ始めます。
745年(天平17年)1月にはもう新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされることに成りました。更に同年4月15日には、流罪となっていた塩焼王(名前が凄いね)を許して京に入ることを許していることから、実態はいまだ不明ながら京(紫香楽京)の範囲が設定されていたとみられます。しかし人臣の賛同を得られず、また天災など不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになりました(わがままに振り回される周りも大変ですね)。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになりました。
『うんちく「塩焼王」』塩焼王(しおやきおう)は、日本の奈良時代の皇族です。 ?-764 奈良時代,新田部(にいたべ)親王の王子で道祖(ふなど)王の兄で、不破(ふわ)内親王の夫に成ります。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)9年(757)皇太子候補となりますが、しりぞけられています。のちに臣籍降下し氷上 塩焼(ひがみ の しおやき)と称しました。天武天皇の孫にあたります。
紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があります、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂ら藤原氏に関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁・行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがあります(なお、藤原氏と同氏出身の光明皇后に関しては紫香楽宮放棄と大仏計画中止の原因になった紫香楽周辺での不審な山火事に関与したとする説もあります)。
「紫香楽」の地名表記については、正倉院文書には「信楽宮」としたものが3件ある一方で、「紫香楽」と表記したものが全く無いため、続日本紀が編纂されたときの修辞(うまく書き直された)の可能性も考えられます。また744年(天平16年)を境に、宮名が「信楽宮」(続日本紀では「紫香楽宮」)から「甲賀宮」へと変化しており、これは単なる離宮から甲賀寺と一体の都とされたことにより宮名が改められたか、離宮の紫香楽宮とは別に宮町遺跡の地に甲賀宮が新しく造営されたことによるともいわれます。
【紫香楽宮遺跡】
かつては甲賀郡信楽町(現・甲賀市)黄瀬・牧地区の遺跡(1926年「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定)が紫香楽宮跡と考えられていましたが、北約1kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、税納入を示す木簡が大量に出土したことなどから、宮町遺跡が宮跡と考えられるようになり、黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力に成りました。2005年には宮町遺跡を含む19.3ヘクタールが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定れています。北約1kmに位置する宮町遺跡が本当の『信楽宮→甲賀宮』ですかね?
今回「妖怪レーダー」ならぬ私の「歴史レーダー」に反応したのは黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡の可能歳が強くなっています。しかしながら、現在でも、「宮町」「勅旨」「内裏野」などの地名が残り、往事の宮城の名残を残しています。
【紫香楽宮(しがらきのみや)跡比定地ご紹介】
聖武天皇が天平17年(745年)に遷都した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡に比定され、1926年(大正15年)に史跡として約33000平方メートルが指定されました。しかし、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町の宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、黄瀬・牧にある遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国国分寺の跡である可能性が高くなっています。
黄瀬・牧の遺跡は、300あまりの礎石が残るなど遺構の保全状態はとても良好です。礎石の配列から東大寺の伽藍配置と同様の建物配置を持つ寺院跡とみられています。当遺跡から出土した軒丸瓦が種類、軒平瓦2種類のうち、創建期とされる瓦は、恭仁宮大極殿造営に際して新調された瓦をモチーフとした単弁十七葉蓮華文の軒丸瓦と均整唐草文の軒平瓦が、恭仁宮廃都後に建立された山城国分寺の塔跡と同笵瓦であることが確認されていることから、寺院跡であることは疑う余地はありません。
遺跡の北東約600メートルには2000年(平成12年) ~2002年(平成14年)にかけて、新名神高速道路建設に関連して発掘された鍛冶屋敷遺跡があります。この遺跡は銅鋳造関連遺跡で、紫香楽宮跡にも近い場所です。遺跡周辺では当時作られた信楽製の坩堝(るつぼ)が多数出土しています。この坩堝は、銅を混ぜた合金を作るのに使われたとかんがえられます。
坩堝は、江戸時代に使用された真鍮を溶解した「梅干壷」と呼ばれるもので、大仏建立に関連した奈良時代のものではありません。大仏鋳造や寺院などの大型品の鋳造では、坩堝は用いず溶解炉から直接鋳型に流し込む技法であったことが考古学的にも立証されています。つまり大仏を作るための物ではなかったということですかね?何を作ってたんでしょう。
なお、当地域では、甲賀市信楽町勅旨の玉桂寺を保良宮の跡とする伝承もあるようです。つまりどういうことだ?今回私が見つけた『紫香楽宮跡』は本来は『甲賀寺跡』で後に奈良に建築された『東大寺』の試作モデルだったのかもしれません?
歴史って本当に面白いですよね~!
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