『水戸黄門』再開!漫遊もせず、名君でも無かった、史実的見処のご紹介! - 「高天原の縁側日記」
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2017/10/04

『水戸黄門』再開!漫遊もせず、名君でも無かった、史実的見処のご紹介!

時代劇がなくて寂しく毎日を過ごしておりましたが、『徳川光圀』がTVで再開されるそうです。(もうしたのかな?)
アッ!今日からでした(笑)


そこで今日は東京や水戸迄は取材に行けないので、TVドラマ水戸黄門観賞法?もお話しながら、実際の水戸光國公のお話をさせて頂きます。

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(フレッシュなメンバーで楽しみです。)

今回のTVシリーズは、水戸光圀に武田鉄矢さん、佐々木助三郎(助さん)に財木琢磨さん、渥美格之進(格さん)に荒井敦史さん、風車の弥七(復活)津田寛治を迎え、6年ぶりの再開に成ります。

武田さん以外全く知りませんでしたm(__)m

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【何故水戸黄門様?】

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(水戸光圀公の肖像)


水戸家は御三家の中では格下で、尾張・紀伊が大納言なのに比べて、歴代藩主の殆どが最終的には従三位権中納言に叙任されていました。水戸黄門というのは歴代水戸藩主の別名でもあります。その中でも特に第二代藩主の徳川光圀が著名ななので、水戸黄門と言うと一般的には徳川光圀を指します。

中国の宮殿の「禁門」(きんもん)を、秦や漢では、宮殿の門が黄色に塗られていたことに由来して「黄門」と呼びました。中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務であった「黄門侍郎」(または「給事黄門侍郎」)を略して黄門と呼び、転じて、日本の中納言を唐名の「黄門侍郎」または「黄門」と呼んだことから、水戸の中納言「水戸黄門」なわけですね。ドラマでは「諸国漫遊」を楽しむ黄門様ですが、水戸家は参勤交代もなく、当主は江戸常駐を言い渡されていたので、漫遊どころか、実際は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海(新編鎌倉志参照)を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録は無いはずです。

【徳川光圀ってどんな人】

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られます。 水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たります。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくりました。

生誕寛永5年6月10日(1628年7月11日)死没元禄13年12月6日(1701年1月14日)。

藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行っています。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業も行いました。さらに、徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも大きな影響力を持っていました。

光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のために頼房時代からすでに悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらに財政悪化をもたらしたとの指摘がなされています。

水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たります。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくりました。

【出産~~~!】

寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれています。

後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、久子は奥付きの老女の娘で、正式な側室ではありませんでした。母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て(ドキドキ)、光圀の同母兄である頼重を懐妊しましたたが、久子の母はこのことに憤慨し、正式な側室であったお勝(円理院、佐々木氏)も機嫌を損ねたため、頼房に堕胎を命じられています。

同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母である英勝院と相談し、密かに江戸の三木邸で頼重を出産したといいます。光圀にも同様に堕胎の命令が出されましたが、光圀は水戸の三木邸で生まれました。英勝院は大河ドラマ「真田丸」で家康の側にいた女性(話題の?斉藤由貴さんが演じてました。)「一番上手いものは塩」の逸話で有名な女性です。

寛永9年(1632年)に水戸城に入城します。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は兄を差し置いて世子になるこtが決定し、翌月には江戸小石川邸に入り世子教育を受けることに成りました。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっていますが、頼房の付家老・中山信吉が水戸へ下向して行われており、第3代将軍・徳川家光や英勝院の意向もあったのではないかといわれています。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で家光に拝謁しました。

寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と名前を改めました。また水戸藩家老職の山野辺義忠の薫陶を受けるようになります。義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動で改易される要因になりましたが、有能な人物として知られています。光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け不良光圀から正義の力を授かっています(笑)。

【兄を差し置いて水戸藩相続】

寛文元年(1661年)7月、父・頼房が水戸城で死去しました。葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬られました。光圀は当時の風習であった家臣の殉死を禁じ、自ら殉死の噂が有った家臣宅を廻り、「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ですよ~」と問いかけ殉死をやめさせたといわれています。幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後なので、『義公行実』では殉死の禁止の初例としています。ただし、同じ頃、紀州・彦根・会津でも殉死を禁ずる旨の記録があるので、水戸藩が初例かどうかは定かではありませんね。

藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行・望月恒隆に水道設置を命じました。頼房時代に造営された水戸下町はもともと湿地帯であったため井戸水が濁り、住民は飲料水に不自由でした。望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め、笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した岩樋でつなぐ笠原水道に着工、実際の敷設は永田勘衛門とその息子が担当しています。約1年半で完成、笠原水道は改修を重ね、明治時代に近代的な水道が整備されるまで利用されています。

寛文5年(1665年)、明の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派でした。朱舜水を招いた主な目的は、学校建設にあったようですが、おそらく費用の面から実現しなかったようです。しかし、その儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残りました。朱舜水は、17年後の天和2年(1682年)死去し、瑞竜山に葬られています。

【不良少年光圀君】

だが、少年の頃の光圀の振る舞いはいわゆる不良であり、光圀16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求め程だそうです。

幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。

光圀が18歳の時、『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、それまでの素行を改めて学問に精を出すようになった。この経験により、紀伝体の日本の史書を編纂したいと考えるようになったと、後年、京都の遣迎院応空宛の書簡(元禄8年10月29日付)に書いている。19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話しています。

没後15年後に書かれた『大日本史』の序文には、「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめ、将に以て世教に裨益し綱常を維持せんとす」とあり、紀伝体の史書を編み歴史を振り返ることにより、物事の善悪や行動の指針としようという考えでした。個人がいかなる役割を果たしたかを明らかにし、それにふさわしい「名」をその人物に与えるという、儒教の正名論に基づいたものでした。

【兄への贖罪】

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(神戸「摂津」湊川の黄門様です。ちょっとイメージが(-"-;A ...アセアセ)

寛文元年(1661年)8月19日、幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となりました。『桃源遺事』では、この前日、兄・頼重と弟たちに「兄の長男・松千代(綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り、遁世するつもりである」と言ったとされます。兄弟は光圀を説得しましたが、光圀の意志は固く、今度は弟たちが頼重を説得し、頼重もやむなく松千代を養子に出すことを承諾した、とされています。しかし実際には、綱方が光圀の養子となったのは、寛文3年(1663年)12月でした。翌寛文4年(1664年)2月、光圀の実子・頼常が頼重の養子となりました。さらに寛文5年には頼重の次男・采女(綱條)が水戸家に移り、綱方死後の寛文11年(1671年)に光圀の養子となって水戸家を継ぐことになります。また、弟・頼元に那珂郡2万石(額田藩)を、頼隆に久慈郡2万石(保内藩)を分与しています。

水戸家三代、水戸綱條は、明暦2年(1656年)8月26日、讃岐高松藩主・松平頼重の次男として江戸の高松藩邸にて生まれます。
寛文5年(1665年)8月、本家・水戸家に移り、2,000石を与えられます。これに先立って同母兄・徳川綱方が第2代水戸藩主・徳川光圀の養嗣子に迎えられており、綱條は光圀の次男格という扱いでした。

綱條の実父・松平頼重は光圀の実兄ですから、綱條は甥に当たります。父・頼重の後嗣には、光圀の子・頼常が内定していたため、高松藩主の次男であるより水戸藩主の次男である方がいいだろうということで、水戸家に入ったといわれています。 兄・綱方が早世したため、寛文11年(1671年)6月、正式に光圀の養嗣子として迎えられました。

光圀が養嗣子を迎えた理由は、彼の生い立ちにあります。光圀の父・徳川頼房(綱條の祖父)は、頼重・光圀の母である久昌院が身ごもると、家老・三木之次に久昌院を預け、頼重は江戸で、光圀は水戸で生まれました。頼重はその後に京へ送られたため、同母兄弟であったが、互いに会ったのは頼重12歳、光圀6歳のときでした。

こうしたことから光圀は、実子による藩主の世襲にこだわらず、他家から養子に迎えた者の方が色々な識見もあってよいとの考えが有ったようです。光圀はまた、『史記』の「伯夷伝」の影響や、兄を差し置いて家督を継いだことへの負い目もあって、兄の子を養子として迎えることを決意したといわれます。なお、頼常は生後間もなく京都に、翌年には高松に送られて、2歳から高松城内にて養育されています。のちに頼重の養嗣子となる(高松藩2代目藩主)です。いわば兄弟の子のトレードがなされたのでした。

【あの御隠居が住む西山荘】

元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継ぎました。翌15日、権中納言に任じられた光圀は。11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲しました。佐々宗淳ら60余人が伺候しました。

同年、水戸藩領・那須郡馬頭村近隣の湯津上村(旗本領)にある那須国造碑の周辺の土地買い取りが整い、佐々宗淳に命じて碑の修繕、鞘堂の建設を行います。加えて、碑のそばの古墳(上侍塚・下侍塚)を那須国造の墓と推定して発掘調査を行っています。出土品は絵師に描き取らせたのち、厚い松板の箱に入れて元のように古墳内におさめさせています。これは日本初の学術的着想による発掘といわれています。

調査は、翌元禄5年(1693年)4月に終了し、6月には光圀が湯津上村を訪れ、那須国造碑と両古墳を視察しました。また、古墳の調査を終えた同年4月、佐々を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川(神戸)に派遣し、楠木正成を讃える墓を建造させました(湊川神社)。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれています。
CIMG1842.jpg(説明版です。)
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(光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」)


72歳頃から食欲不振が目立ち始め、元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため死去した。享年73(満71歳没)。

【水戸黄門の初めて?】

日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆があります。ラーメンも光圀が最初と言われてきたが、光圀が食した時期より200年以上前の『蔭涼軒日録』(相国寺の僧による公用日記)に、ラーメンのルーツとされる経帯麺を食べたことが記されていたことが2017年に判明しました~(残念)。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した「生類憐れみの令」を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていました。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという俗説も生まれています。鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだようです。

オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てています。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としています。また、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けています。

朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作りました。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとり、薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使っていますね、正に現在でいうラーメンです。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録もあります。

『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与えました。

【全然名君じゃなかった?】

「大日本史」の編纂に水戸藩は多大な費用を掛けました。一説に藩の収入の3分の1近くをこの事業に注ぎ込んだといわれている(3分の1説の他、多くの費用を当てて完成した説もあります。)。

水戸藩の財政は初代の父・頼房の藩主時代から苦しく、光圀の藩主時代後期には財政難が表面化していました。光圀は藩士の俸禄の借り上げ(給料削減)を行っているが、大きな成果は上がりませんでした。光圀の養子・綱條も財政改革に乗り出しますが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は大失敗します。その後も水戸藩にとって財政の立て直しは重要課題であり続け、様々な改革と幕府からの借金を繰り返しました。一方で「大日本史」の編纂は光圀の死後も継続され、豊かとはいえない慢性的な逼迫財政をさらに苦しめたとされます(少しは考えろよ~!)。

また光圀は他の御三家(尾張・紀伊)に対抗するため、当時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め、表高が28万石だった水戸藩を見かけ上36万9千石にしました(どうするよ)。この石高が次代の綱條の代に幕府に認められることとなり、これが上記大日本史編纂事業とあいまって水戸藩困窮の要因となりました(見栄っ張りですね)。

光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきですが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担が大きく、そのため農民の逃散が絶えなかったのは残念ですね。結果的には「民を愛して悪を憎む」水戸黄門思想の理想からは逸脱している側面も存在し、単純に「名君」とはいえません。

反面、父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去すると3日も食事がのどを通らなかった。など、のやさしさも見せています。

五代将軍綱吉期に大老の堀田正俊が稲葉正休に刺殺され、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害された事件が発生します。光圀は幕閣の前で「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し、幕閣に対して強い不信を抱いたといいます(正義感は強いようです)。

【先の副将軍水戸光圀公に在らせられるぞ~は嘘?】

水戸徳川家は参勤交代を行わず江戸に常駐しており、帰国は申し出によるものでした(常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は(俗称として)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになります(実際に副将軍という地位はありません)。財政悪化もあり、中・後期の水戸藩主はほとんど帰国しませんでした。光圀は藩主時代計11回帰国しており、歴代藩主の中では最も多い回数帰国しています。また歴代藩主唯一の水戸生まれであり、誕生から江戸に出るまでの5年と、隠居してから没するまでの10年を水戸藩領内で過ごしました。そのため、水戸藩領内における関連した史跡は後の藩主に比べると格段に多いようです。

初期のTVドラマでは「先の中納言(副将軍ではない)水戸光圀公に在らせられるぞ~」といって格さんが印籠を出していました。その時間は午後8時45分前後に固定されていました。背景には二代目黄門様の西村晃さんが、特攻隊時代からの友人である千玄室(茶道裏千家前家元15代汎叟宗室)が時代劇が好きでどうしても見たいが、お茶の稽古が40分まであるので、印籠シーンの時間を一定(45分)にするよう西村晃さんに依頼したことがきっかけで45分に決まったといわれています。

【格さん助さんにはモデルが有った】

そこで活躍するのが、格さん助さんですが、ドラマでの名前は助さんは佐々木助三郎、格さんは渥美格之進です。
この二人はモデルが実在します。
本当の名前は助さんは、佐々木十竹(ささじゅちく・介三郎宗淳)、1640~1698)、格さんは、安積 澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛、1656~1737)という学者だそうです。

【史実的見処】

実の親子ではない、後継ぎ徳川綱條(養嗣子)面会の場面でよそよそしい「つなえだ殿」と遠慮がちに呼びかけます。逆に高松藩2代目藩主松平頼常(光圀実子)には優しく上座から「よりつねどの~」「父上」と親子の情を感じさせる設定に成っていますね。

今回は、南部支藩八戸藩?へ行くようです。震災もありましたからね~。もし上の様な場面が有りましたら注目です。

また、他の時代劇にも見られるため水戸黄門のみの話ではありませんが、「藩」や「藩主」といった名称は後世のものであり、江戸時代においてはそのような呼称は用いていません。これ最初私も苦労したんです。ブログを全て過去と同じに表記しようと思ったからです。ハッキリ言って無理です。例えば私が但馬出石藩士だったと仮定しましょう。ブログで名前を呼ぶには、「但馬国出石仙石家御家中○○市郎右衛門」がとなります。「出石藩○○市郎右衛門」!どうですか藩を使うと簡単ですよね~、つまりそういうことです。(笑)

光圀の敵役として柳沢吉保(今回は袴田吉彦さんです。)が登場しますが、実際の光圀隠居時には柳沢保明と名乗っており、吉保を名乗るのは光圀が亡くなってからです。

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(いつも適役でかわいそう?今の袴田さんならうってつけか?柳沢吉保公)
CIMG1670.jpg(奈良大和郡山城内にある柳沢神社です)
CIMG1678.jpg(息子が柳沢吉保を祀っています。)

毎回うるさ型の家老として、水戸藩国家老・山野辺兵庫が出演していますが、実際の光圀隠居時にはすでに亡くなっています。

最後に、但馬豊岡藩の藩主(藩が使えると楽でしょ)として京極高永が出演していましたが、実際の光圀隠居時の豊岡藩主は祖父の京極高住である。高永が豊岡藩主に就任するのは、1726年です(重箱のすみをつついて申し訳ありませんが)これも期待の表れです。

【最後に黄門様のお墓】

「墓所」 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっています。
「霊廟」 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の久昌寺の義公廟があります。
「奉斎神社」 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀られます。神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。

【まだ行くか~雑学王?】

私が子供の頃「仮面の忍者赤影」というヒーロー物がありました。前水戸黄門の里見浩太郎さんが木下藤吉郎役で出演されています。秀吉といえば「猿面冠者」といわれた天下人。個性的な俳優さんがキャスチングされるのがほとんどです。なんと40年前の里見浩太朗さんですよ~ビックリです(爆)

いや~時代劇まだまだ語りつくせませんが、今日はこの辺で失礼しときます。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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コメント

非公開コメント

No title

こんにちは😊
徳川光圀の話ではないのですが、
徳川慶喜の本を読んで「水戸学」に興味を持ちました。ただいま本を探している最中ですが、「思想」の本ってなかなかコレ!という物がなくて、そのまま手が止まっている状態です(苦笑)

時代劇が再放送以外に観られない時代、少しでも放送してくれるのは嬉しいですよね!
 「水戸黄門」も子供のころからずっと観ていましたし、武田さん版黄門様楽しみですね!

少し前には「鬼平犯科帳」のアニメがありまして、驚きましたが楽しめました♪

Re: No title

はのんさん、コメントありがとうございます。門様が「大日本史」を編纂さえたことによる影響は大きく、水戸藩は徳川家より天皇家の考えが強かったと考えられます。幕末水戸藩は、桜田門外の変や天狗党の筑波山挙兵(天狗党の乱)をはじめとして多くの犠牲者を出しました。徳川御三家であるにもかかわらず、尊皇の旗を掲げそのさきがけを担ったことは、藩の分裂ともなったといわれます。水戸学の資料としては、名越時正『水戸学の達成と展開』はどうでしょう。Wikiの受け売りですが(笑)