豊臣秀吉の伏見城本丸跡地に眠る「明治天皇」『伏見桃山陵』 - 「高天原の縁側日記」
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2017/09/16

豊臣秀吉の伏見城本丸跡地に眠る「明治天皇」『伏見桃山陵』

前回、前方後円墳(古墳)を取りあげたので、今期はどこかの大きな天皇陵をご紹介しようと思っておりましたが、期待を裏切るのもまた面白いかなと勝手に思い、古いとは言えない?天皇陵墓をご紹介します。

今日は次女の運動会が台風の雨で中止!だらだらの一日でしたが、嬉しい事が二つありました。まず第一に入院していた父の退院が来週火曜日に決まりました。本当は今日にも退院だったのですが、次女の運動会のため一日伸ばしましたところ、この台風でさらに伸びて火曜日に成ってしまいましたが、良かったです。もう一つは明日17日にコロッケが届きます(笑)毎回皆さんが話題にしてくださるブログ仲間の「馬肉会」でメンバー続、ものグラムな生活。(ラーメン編)の「ものグラム」さんが話題にされて、「アッ!それ頼んでる」と思いだした凄いコロッケです。
また到着しましたら、ブログでご紹介します。

CIMG7435.jpg(明治天皇が眠られる伏見桃山陵)

本題に帰って、京都府京都市伏見区に在る『伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ、ふしみももやまりょう)』をご紹介します。被葬者は『明治天皇』です。
形状は上円下方墳で、1912年築造(大正元年)、 宮内庁治定「伏見桃山陵」として文化財指定されています。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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【明治天皇って誰?(不敬な表現は慎みましょう)どんな方?】

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(軍服姿の明治天天皇!、凛々しいですね)
 

明治天皇は第122代天皇です。
在位期間は1867年1月30日~1912年7月30日(慶応2年12月25日~明治45年7月30日)です。

即位礼は1868年10月12日(慶応4年8月27日)京都御所において行われました。

1852年11月3日(嘉永5年9月22日)中山忠能邸 にて誕生され、1912年(明治45年)7月30日に(宝算59)崩御されています。
喪儀は1912年(大正元年)9月13日、帝国陸軍青山練兵場 にて執り行われました。

【生誕から即位まで】

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(誕生された中山邸跡)
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(明治天皇生誕の地)
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(産湯を汲んだ井戸が二歳の時に枯れたので掘りなおした井戸だそうです。ややこしい(-"-;A ...アセアセ)

孝明天皇の第二皇子として生まれます。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に京都石薬師・中山邸にて誕生。出生8日目(9月29日)に父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名されました。中山邸で暮らし安政3年(1856年9月29日)に宮中に転居します。

予定より2年遅れて万延元年(1860年)閏3月16日に深曽木の儀を行う。7月10日、儲君(皇太子、東宮) と定められ、准后(文字の通り皇后に准ずる)・九条夙子の実子とされます。9月28日、親王宣下を受け睦仁の諱名(天皇からもらう名前で皇室は「仁」が付いています)を賜ります。

うんちく「深曽木の儀」とは?松と山橘の小枝を持って碁盤の上に乗り、子の髪を少し切った後、掛け声とともに飛び降りる儀式。悠仁親王の際41年ぶりに行われましたね。
「親王宣下」とは?、明治以前は親王宣下を受けなければ、天皇の子どもでも皇族とは認められませんでした。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御されると。慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚(「践」とは位に就くこと、「祚」は天子の位を意味する)の儀を行い皇位につきました。

慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服、同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣言しました。大嘗祭(天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭[収穫祭ですね])は明治4年11月17日(1871年12月28日)に東京で行い、12月28日、一条美子を皇后に定めています。

幕末の動乱については、あらためてご紹介する機会があると思いますので、今回は我慢していただきます。

【新時代明治始まる】

027.jpg
(紅葉が綺麗な時期でした~が、この楓一本だけです。)

慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度が採用されます。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)でしたが、改元は慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されました。

江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸を東京に、江戸城を東京城に改称します。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り崩御まで東京に居住しました。

明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許し、明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立しました。

1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めています。

明治天皇は外国要人と頻繁に会談しています。まず明治2年(1869年)に英国女王ヴィクトリアの子・アルフレートが英国王族として初めて訪日し会談、明治12年(1879年)にはユリシーズ・グラントが、アメリカ大統領経験者として初めて訪日し会談しました。明治14年(1881年)にハワイ国王(まだアメリカではありません)カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談しました。

【政府内部の政治的対立調停役としての明治天皇】

明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年の政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たしています。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化をうながしています。

明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となりました。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を育てて広めることに努めました。

【日本世界の列強国へ変貌する】

日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導にあたっています。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強につとめました。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用しています。

明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となっていきました。

もちろんすべてが明治天皇の指導で行われたわけではありませんが、大きな柱として天皇の存在が影響したことは間違いありません。

【明治天皇崩御】

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(同じ一本、画質はガラケー写真なので許してください)
CIMG7433.jpg
(ここでも階段かい~桃山台地ね)
CIMG7440.jpg(上から見た南方面、宇治方面だと思うのですが?)

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御しました。同年(大正元年)9月13日に東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪儀が執り行なわれた後、翌9月14日に埋葬されました。ん~?翌日埋葬ですか、伏見桃山陵ではありませんね~再度埋葬し直したのかな?

伏見桃山陵の敷地は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が造られたのは明治天皇の遺言だったそうです。天王は京都の御所に帰りたいと言葉を漏らすほどの京都好きだったようです。すぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接しています。周囲一帯は宮内庁の管理地となっており、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所がありました。

墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨が納められています。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めてあるようです。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたといわれます。

幕末の孝明天皇についで火葬にせず、天武天皇以前の古制に戻しています。火葬に関しては今上陛下もお考えがあるような報道がされていますね。歴代天皇の陵は伏見桃山陵に至るまで、すべて近畿以西に作られていますが、大正天皇(多摩陵)と昭和天皇(武藏野陵)の各陵は東京都八王子市の武蔵陵墓地に作られています。

CIMG8217.jpg(明治天皇が帰りたいと洩らされた、京都御所「内庭園」一枚だけお見せします)
CIMG7436.jpg(最後は紅の豚と天皇陵、妻が撮影してくれているので、ちょっと恥ずかしがっていますね、恥ずかし~~~!)


【最後にお詫び】

今回のブログは漢字を意味の通りに簡単にすることと、時代が中途半端?なために敬語の使用についてとても迷いました。あえて「ですます」で書かせていただきました。不敬につきましてはお許しください。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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