『備前国分寺』の周りは古墳の宝庫だった!そして大仙古墳を上回る巨大古墳の噂!
今日は以前ご紹介した「両宮山古墳」のすぐそばにある『備前国分寺跡』です。備前国分寺の周りには、「両宮山古墳」をはじめとして、ある程度規模の大きな前方後円墳が数多くあるのです。一度ではご紹介できないかもしれませんが、次の機会に必ずご紹介したいと思います。
さらに、今日Facebookのお友達の投稿読んでおりますと、凄い発見がありました。なんとあの仁徳陵墓よりも規模の大きい巨大古墳が吉備の国にあるというのです。私はびっくりしてしまいました~~!吉備国恐るべし(笑)
興奮がMaxになる前に、まずは基本の『備前国分寺跡』のご紹介です。
それでは、『市郎右衛門』の日本史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【いつも説明している国分寺の復習】
国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、天平13年(741年)の国分寺建立の詔を発して、当時の日本の各国に建立を命じた寺院です、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれています。
正式名称がこれまた長いんですよ、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました(島なんですから当たり前の事なんですけどね)。大和国の「東大寺」と「法華寺」は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。
【うんちく~!こちらもいっつも書いてるし~~!】
平安京の「東寺」(私も弘法市でたまに行くのですが)は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担ったのですが、その「東寺」正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。「国分寺」に本当にそっくりでしょう。
役目も同じく都を守りそれぞれ国を守るために建立されたということでしょうね。ちなみに東寺の位置知っておられますか?京都駅の西南西方向にあるんです。京都の中心が今とずれているのに築かれましたでしょうか?東寺が有るということは当然西寺も有った事に成りますね、その中心を都大路が通っていたことに成ります。観光で良く行く東山のお寺群ど田舎です。(笑)
【さて備前国分寺ですよね】
備前国分寺跡(びぜんこくぶんじあと)は、岡山県赤磐市馬屋(まや)にある古代寺院跡です。もちろん国の史跡に指定されています。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備前国国分僧寺の寺院跡にあたります。備前国分尼寺跡(史跡指定なし)についてもご紹介したいと思います。
「備前国分寺跡」は岡山県南部、赤磐市南西部の扇状地斜面に位置しています。聖武天皇の詔で創建された国分僧寺の遺構に比定されています。寺域南方には古代山陽道が通り、現在は寺域西辺中央に国分寺八幡宮が鎮座するほか、寺域東方には両宮山古墳が、古代山陽道を挟んだ南方には国分尼寺跡が位置しています。
寺域では、宅地開発の計画を受けて1974年(昭和49年)に確認調査が実施されたのち、1975年(昭和50年)に国の史跡に指定されました。また2003~2012年度(平成15~24年度)に計6次(少ないですね但馬なんかの昨年34次調査が行われました。)発掘調査が実施されており、判明した主要伽藍の一部は史跡整備されています。
両宮山古墳の記事も参考にしてください。①備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!
【備前国分寺の歴史】
創建年は不明ですが、天平13年(741年)から暫らくしてと考えられます。延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、備前国の国分寺料として稲4万束があてられていました。
考古学的には、平安時代中頃から後半頃(10世紀代)に改修が実施されたのち、平安時代末頃(12世紀中頃-後半頃)には講堂および北側回廊が焼失したものと見られ、その頃には金堂・塔などの諸堂宇も機能を喪失したものと推測されます。「国分寺」は全国だいたい同じ造りに成っています。回廊で囲まれた中に講堂と金堂それに七重の塔の三点セットです。
中世期の変遷は詳らかではありませんが、考古学的には鎌倉時代前半頃に講堂東北部に堂宇1宇(中世期の本堂と推定)の再建が認められています。また鎌倉時代後期頃には、塔跡に石造七重層塔が建てられていて、現在も残っています(赤磐市指定有形文化財)。
16世紀後半~17世紀初頭頃には、上記堂宇(推定本堂)の廃絶が確認されていることから、寺院としての機能は完全に喪失したと考えられます。
江戸時代に諸国一宮・国分寺を参詣した人物の記録では、寛政3年(1791年)に備前国において円寿院・八幡宮(国分寺八幡宮か)・吉備津宮(吉備津彦神社)の3箇所に参った旨が記載されており、当時頃からは西方の円寿院が備前国分寺の法燈を継承する寺院と見なされていたようです。
また土肥経平の『寸簸之塵(きびのちり)』や松本亮の『東備郡村誌』においても、備前国分寺および国分寺八幡宮のことが記述されています。天明年間(1781年~1789年)には塔付近において銅製小塔(非現存が残念ですね)が出土したといい、その底面には「宝亀元年(770年)春三月慈園奉詔」と記されていたといわれます。
【伽藍について、パターン通りです】
僧寺跡の寺域は東西175メートル・南北190メートルで、築地塀をもって区画されています。主要伽藍として南門・中門・金堂・講堂・僧房が南から一直線に配されるとともに、寺域南東隅には塔が配される東大寺式伽藍配置(国分寺式伽藍配置の通り)です。講堂左右からは回廊が出て中門左右に取り付き、金堂がその回廊に囲まれる変形の様式になっています。
本尊を祀る金堂の基壇は、東西116尺(34.45メートル)・南北74尺(21.98メートル)、基壇上の建物は桁行7間(88尺)・梁間4間(46尺)です。創建期の金堂は平安時代中期に倒壊し講堂に見られる中世期の瓦が見られないため、それ以前に廃絶した推測されます。
塔経典を納めた塔(国分寺以外の場合は釈迦の遺骨(舎利)を納めた)。基壇は一辺60尺(17.82メートル)、基壇上の建物は一辺30尺(8.91メートル)。礎石は心礎のみ現存します。平安時代中期頃には廃絶したと見られ、鎌倉時代には心礎上に石塔(石造七重層塔、赤磐市指定有形文化財)が建てられています。
経典の講義・教説などを行う建物の講堂は、金堂の北方に位置し基壇は東西127尺(37.72メートル)・南北70尺(20.79メートル)、基壇上の建物は桁行7間(111尺)・梁間4間(54尺)です。創建期の講堂は12世紀半ば-後半頃に焼失し、鎌倉時代前半頃に再建されたと見られます。再建建物は基壇東北部に位置し、半分ほどに縮小されました。16世紀後半~17世紀初頭頃までの存続が認められ、備前国分寺跡では最後の建物の1つとされます。講堂の位置で中世期の本堂が営まれる例は、讃岐国分寺など多くの寺院で見られます。
寺域からは大量の瓦のほか、銅印、泥塔、三彩、土器片などが出土しています。そのほか、現在では寺域西辺中央に国分寺八幡宮が鎮座しています。
【備前国分尼寺跡】
尼寺跡は、僧寺跡から古代山陽道を挟んで南方約300メートルに位置します。推定寺域は1町半四方(135メートル四方)で、現在ではその東半は溜池(仁王堂池)、西半は農地となっています(急いでいたので行けていませんつまり写真も無いのです、ごめん)。
本格的な調査が実施されておらず詳細は明らかでないが、推定寺域からは国分僧寺のものと同様の瓦が出土しているほか、かつては礎石と見られる岩が点在したと言われています。
【最後に周りの古墳群と驚愕の巨大古墳】
『備前国分寺』の周りには、両宮山古墳群(りょうぐんざんこふんぐん)は、岡山県赤磐市にある古墳群で「西高月古墳群(にしたかつきこふんぐん)」とも言われます。岡山県南部、吉備地方南東部の備前地方に分布する古墳群です。前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などから構成され、主墳の両宮山古墳は岡山県第3位の規模の巨大古墳になっています。こちらのまだご紹介していない古墳群の古墳は次回ご紹介したいと考えています。
最後の目玉は、大仙古墳を上回る巨大古墳の噂!
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、天平13年(741年)の国分寺建立の詔を発して、当時の日本の各国に建立を命じた寺院です、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれています。
正式名称がこれまた長いんですよ、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました(島なんですから当たり前の事なんですけどね)。大和国の「東大寺」と「法華寺」は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。
【うんちく~!こちらもいっつも書いてるし~~!】
平安京の「東寺」(私も弘法市でたまに行くのですが)は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担ったのですが、その「東寺」正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。「国分寺」に本当にそっくりでしょう。
役目も同じく都を守りそれぞれ国を守るために建立されたということでしょうね。ちなみに東寺の位置知っておられますか?京都駅の西南西方向にあるんです。京都の中心が今とずれているのに築かれましたでしょうか?東寺が有るということは当然西寺も有った事に成りますね、その中心を都大路が通っていたことに成ります。観光で良く行く東山のお寺群ど田舎です。(笑)
【さて備前国分寺ですよね】
備前国分寺跡(びぜんこくぶんじあと)は、岡山県赤磐市馬屋(まや)にある古代寺院跡です。もちろん国の史跡に指定されています。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備前国国分僧寺の寺院跡にあたります。備前国分尼寺跡(史跡指定なし)についてもご紹介したいと思います。
「備前国分寺跡」は岡山県南部、赤磐市南西部の扇状地斜面に位置しています。聖武天皇の詔で創建された国分僧寺の遺構に比定されています。寺域南方には古代山陽道が通り、現在は寺域西辺中央に国分寺八幡宮が鎮座するほか、寺域東方には両宮山古墳が、古代山陽道を挟んだ南方には国分尼寺跡が位置しています。
寺域では、宅地開発の計画を受けて1974年(昭和49年)に確認調査が実施されたのち、1975年(昭和50年)に国の史跡に指定されました。また2003~2012年度(平成15~24年度)に計6次(少ないですね但馬なんかの昨年34次調査が行われました。)発掘調査が実施されており、判明した主要伽藍の一部は史跡整備されています。
両宮山古墳の記事も参考にしてください。①備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!
【備前国分寺の歴史】
創建年は不明ですが、天平13年(741年)から暫らくしてと考えられます。延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、備前国の国分寺料として稲4万束があてられていました。
考古学的には、平安時代中頃から後半頃(10世紀代)に改修が実施されたのち、平安時代末頃(12世紀中頃-後半頃)には講堂および北側回廊が焼失したものと見られ、その頃には金堂・塔などの諸堂宇も機能を喪失したものと推測されます。「国分寺」は全国だいたい同じ造りに成っています。回廊で囲まれた中に講堂と金堂それに七重の塔の三点セットです。
中世期の変遷は詳らかではありませんが、考古学的には鎌倉時代前半頃に講堂東北部に堂宇1宇(中世期の本堂と推定)の再建が認められています。また鎌倉時代後期頃には、塔跡に石造七重層塔が建てられていて、現在も残っています(赤磐市指定有形文化財)。
16世紀後半~17世紀初頭頃には、上記堂宇(推定本堂)の廃絶が確認されていることから、寺院としての機能は完全に喪失したと考えられます。
江戸時代に諸国一宮・国分寺を参詣した人物の記録では、寛政3年(1791年)に備前国において円寿院・八幡宮(国分寺八幡宮か)・吉備津宮(吉備津彦神社)の3箇所に参った旨が記載されており、当時頃からは西方の円寿院が備前国分寺の法燈を継承する寺院と見なされていたようです。
また土肥経平の『寸簸之塵(きびのちり)』や松本亮の『東備郡村誌』においても、備前国分寺および国分寺八幡宮のことが記述されています。天明年間(1781年~1789年)には塔付近において銅製小塔(非現存が残念ですね)が出土したといい、その底面には「宝亀元年(770年)春三月慈園奉詔」と記されていたといわれます。
【伽藍について、パターン通りです】
僧寺跡の寺域は東西175メートル・南北190メートルで、築地塀をもって区画されています。主要伽藍として南門・中門・金堂・講堂・僧房が南から一直線に配されるとともに、寺域南東隅には塔が配される東大寺式伽藍配置(国分寺式伽藍配置の通り)です。講堂左右からは回廊が出て中門左右に取り付き、金堂がその回廊に囲まれる変形の様式になっています。
本尊を祀る金堂の基壇は、東西116尺(34.45メートル)・南北74尺(21.98メートル)、基壇上の建物は桁行7間(88尺)・梁間4間(46尺)です。創建期の金堂は平安時代中期に倒壊し講堂に見られる中世期の瓦が見られないため、それ以前に廃絶した推測されます。
塔経典を納めた塔(国分寺以外の場合は釈迦の遺骨(舎利)を納めた)。基壇は一辺60尺(17.82メートル)、基壇上の建物は一辺30尺(8.91メートル)。礎石は心礎のみ現存します。平安時代中期頃には廃絶したと見られ、鎌倉時代には心礎上に石塔(石造七重層塔、赤磐市指定有形文化財)が建てられています。
経典の講義・教説などを行う建物の講堂は、金堂の北方に位置し基壇は東西127尺(37.72メートル)・南北70尺(20.79メートル)、基壇上の建物は桁行7間(111尺)・梁間4間(54尺)です。創建期の講堂は12世紀半ば-後半頃に焼失し、鎌倉時代前半頃に再建されたと見られます。再建建物は基壇東北部に位置し、半分ほどに縮小されました。16世紀後半~17世紀初頭頃までの存続が認められ、備前国分寺跡では最後の建物の1つとされます。講堂の位置で中世期の本堂が営まれる例は、讃岐国分寺など多くの寺院で見られます。
寺域からは大量の瓦のほか、銅印、泥塔、三彩、土器片などが出土しています。そのほか、現在では寺域西辺中央に国分寺八幡宮が鎮座しています。
【備前国分尼寺跡】
尼寺跡は、僧寺跡から古代山陽道を挟んで南方約300メートルに位置します。推定寺域は1町半四方(135メートル四方)で、現在ではその東半は溜池(仁王堂池)、西半は農地となっています(急いでいたので行けていませんつまり写真も無いのです、ごめん)。
本格的な調査が実施されておらず詳細は明らかでないが、推定寺域からは国分僧寺のものと同様の瓦が出土しているほか、かつては礎石と見られる岩が点在したと言われています。
【最後に周りの古墳群と驚愕の巨大古墳】
『備前国分寺』の周りには、両宮山古墳群(りょうぐんざんこふんぐん)は、岡山県赤磐市にある古墳群で「西高月古墳群(にしたかつきこふんぐん)」とも言われます。岡山県南部、吉備地方南東部の備前地方に分布する古墳群です。前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などから構成され、主墳の両宮山古墳は岡山県第3位の規模の巨大古墳になっています。こちらのまだご紹介していない古墳群の古墳は次回ご紹介したいと考えています。
最後の目玉は、大仙古墳を上回る巨大古墳の噂!
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