歴史のいたずらが神々の系図を二つに分ける!『出雲国造 千家家』 - 「高天原の縁側日記」
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2017/09/06

歴史のいたずらが神々の系図を二つに分ける!『出雲国造 千家家』

「祝」大変おめでたい話題から始めましょう。

秋篠宮家の長女、眞子様(25)と、大学時代の同級生で法律事務所職員、小室圭さん(25)の婚約内定が9月3日、宮内庁から正式発表され、お二人は東京都港区の赤坂御用地の赤坂東邸で記者会見されました。

結納にあたる「納采のうさいの儀」などを経て、来秋にも結婚式が行われる見通しです。眞子さまは結婚後、皇籍を離れられることになります。皇族女子の結婚は戦後8例目で、天皇、皇后両陛下の孫では初となります。

素敵なお二人のご結婚は、たいへんおめでたい事ですが、皇族が一人少なくなることで、悠仁親王(ひさひとしんのう)へのプレッシャーが半端なくなるのでは?と心配している一人です。

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(出雲大社では今、兎たちが大人気です。この可愛いい二匹にも秘密が隠れています。)


さて、今日の本論なんですが、『出雲大社』のご紹介をしたいのですが、書くべきことが多過ぎて一度ではとても無理と考えまして、少しずつ外堀から埋めて最後にどど~~ンと『出雲大社』大社造りの大神殿で完結と考えています(そういうパターン多いな!(-_-;))。
2014年(平成26年)10月5日にも、出雲大社の権宮司「千家国麿さん」が、高円宮憲仁親王と妃久子さんの次女「典子女王」とご結婚されました。こちらも、話題で取り上げられたので、皆さんご存知ですよね。

今回は、出雲国造『千家家』『北島家』より『千家家』を取りあげます。

それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。
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記者会見で千家国麿さんは自ら、 「私の祖先は2000年前の、天照大御神の弟です」とちゃめっぽく自己紹介されていましたが実際はちょっと違うかも?遠慮されたのかな。
『千家家』って何?誰~?と思われる方も多いかも知れませんね。かくいう私も、出雲巡りをするようになって初めて、古来の国造が連綿と続いていること、又その国造が二家に別れて大国主の御霊を祀っておられることを知りました。



【出雲国造って何?】

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(千家国造館・永職館)
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(永職館とは?)
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(出雲大社側からの入り口です。)
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(こちらが千家家のお住まいです。)

出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方現在の出雲市とは違いますよ。)を古に支配した国造です。

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)とは、古代日本の行政機構において、地方を治める官職のことです(また、その官職に就いた人)。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者でしたが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となりました。その氏族の出雲氏の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いできました。

『先代旧事本紀』『国造本紀』によれば、第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとあります(つまり神様の末裔ですね(゜ロ゜;ノ)ノ)。

「古事記」では『天穂日命』は、誓約によって須佐之男命が天照命の勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の次男に成ります。ちなみに天皇家は、「天照大神」→「天忍穂耳命(アメノオシホミミ・五皇子長男)」→「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から地上に降りた(天孫降臨の神様)→「火遠理命(ホオリノミコト)」一般には山幸彦(ヤマサチヒコ)の名で知られている(神武天皇の祖父)→「神武天皇(初代天皇)」の系図に成ります。

『古事記』によれば、无邪志国造(武蔵国東部)・上菟上国造(上総国海上郡)・下菟上国造(下総国東部)・伊自牟国造(上総国埴生郡)・遠江国造(遠江国西部)も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)をおなじ祖としています。

出雲氏は、国譲りに応じた大国主命を祀るため、天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った「天穂日命」を始祖、その子神「建比良鳥命」が第2代と成ります。初めて出雲国造に任じられたのは『先代旧事本紀』(国造本紀)によれば第12代宇賀都久怒からとの記載があるようですが、千家家の伝承をまとめた『出雲国造伝統略』によれば第17代出雲宮向からであるといわれています。

第12代景行天皇の条には、倭建命(やまとたけるのみこと)が地名を名に負う出雲建を殺した話があるように、いにしえの出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、倭王政権下において出雲国造に任ぜられました。

【全国の国造の廃止】

7世紀半ばの大化の改新以後、中央集権化が進むにつれて、国造制は全国的に廃止される方向に進み、『続日本紀』によれば第43代元明天皇の和銅元年(708年)に、忌部宿禰子首が新たに出雲国守に任ぜられます。国造に代わり中央から国司が派遣されるように成ったことは、国造制から律令に基づく国郡里制に支配体制が移行したことを示しています。

しかし、出雲国造は紀伊国造などとともに、ごく一部の例外的な氏族として国造の称号存続を許され『続日本紀』の第42代文武天皇2年(698年) 三月の条に、「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三親等以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が記され、また、『類聚三代格』に「慶雲三年(706年)以来令國造帯郡領」とあって、律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗るとともに、出雲国東部にあたる意宇郡(おうぐん)の郡司の職にも任じられました。

意宇郡司職を支族に譲った後の出雲氏本家は、意宇郡から出雲郡杵築郷(現在の出雲大社周辺)に拠点を移し、元々出雲国造家の本拠である意宇の熊野大社と併せて行っていた出雲大社における祭祀に専念するようになったと考えられています。

その後、現在に至るまで、出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が出雲国造を世襲しておられます。また、国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式(秘密のベールに包まれた儀式です。)が行われ、現在でも熊野大社との関係を維持しています。

【国造家の分裂】

出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝でしたが、康永年間(1340年頃)以降、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになりました。

これは、どこの名門の家でもありがちな?、兄弟の跡目争いが原因となりました。南北朝時代の第54代国造・出雲孝時(いずも のりとき)は、子の「六郎貞孝(わかりにくいので三男と考えてください)」を寵愛し、国造を継がせようと考えていました。しかし、孝時の母である覚日尼(塩冶頼泰の娘)から「三郎清孝(長男です)」は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせてほしい」と説得を受け、清孝を後継者に決めました。

おばあさまの思惑どおり、清孝が第55代国造となりましたが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の「五郎孝宗(次男ですね)」を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永2年(興国3年/1343年)、国造職を孝宗に譲ってしまいます。

これに対して六郎貞孝(そりゃ頭に来ますよね!)は、「自分に国造職を譲るのが本来である」と猛烈に反発し、神事を中止して軍勢を集め、社殿に立てこもって紛争状態となってしまいました。

事態を重く見た守護代の吉田厳覚は、清孝・孝宗側と貞孝側の両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和睦を結ばせました。こうして康永3年(興国4年/1344年)6月5日)以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称して国造家が並立し、19世紀後半の幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担する事に成りました。

明治時代には、千家氏・北島氏ともに男爵として遇されましたが、出雲大社自体は内務省神社局の傘下(社格は官幣大社)となり、千家氏は「出雲大社教(いずもおおやしろきょう)」、北島氏は「出雲教」と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担う事に成りました。何故千家氏が担うことになったのか不思議ですよね。

戦後、神社が国家管理を離れた後は、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、宗教法人出雲大社教の宗祠して、宮司は千家氏が担っています。

私はFacebookでどちらの宮司さんともお友達に成って頂いておりますが、当たり前ですが現在は、仲が悪いというような事は無いようです(笑)

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(Facebookのお友達、権禰宜の飯塚さんです。男前ですね~隣のおっさんがいけませんな。)

【歴代出雲国造(一部省略)】

初代:天穂日命
2代:武夷鳥命~(中略)~
11代:阿多命- 出雲振根。『日本書紀』「崇神紀」60年の条に出雲臣之遠祖とあり、神宝を崇神天皇に差し出した弟・飯入根を殺し、崇神天皇の命により吉備津彦らに誅殺されたと記載されます。
12代:氏祖命- 鵜濡渟、宇迦都久怒。『先代旧事本紀』(国造本紀)よればこの宇迦都久怒が最初の出雲国造の名前を名乗っています。『日本書紀』「崇神紀」60年の条には、振根の別の弟・甘美韓日狭の子として神宝を差し出し、後に振根の弟殺しの件を報告しました。
13代:襲髄命- 『日本書紀』垂仁天皇紀に登場する野見宿禰と同一人物だといわれます。
14代:来日田維穂命- 『古事記』垂仁天皇の条に出雲国造の祖として登場する岐比佐都美と同一人物だといわれます。
15代:三島足奴命
16代:意宇足奴;- 意宇宿禰。『日本書紀』巻第十一 仁徳天皇即位前紀(応神天皇41年/310年)の条に淤宇宿禰の名で出雲臣之祖とあり、倭(奈良県)の屯田司に任じられていたが額田大中彦(仁徳天皇の兄)に職務を妨害された話が載っています。
17代:出雲宮向-允恭天皇元年(412年)に初めて国造となり出雲の姓を賜った(一説によれば允恭天皇元年ではなく反正天皇4年ともいわれます。
いずれにしろ記紀には記載されていません。)。
18代:出雲布奈~(中略)~27代:出雲廣島-『出雲国風土記』を編纂しました。
28代:出雲弟山~(中略)~55代:出雲清孝

【千家家(分裂を経て!)】

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(神楽殿・結婚式が行われます。)
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(大きなしめ縄です。日本一かもしれませんね。)
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(松江の友人は千家家での婚儀の方が離婚率が多いといいます(;^_^A、友人の私見です。m(__)m)

56代:千家孝宗~(中略)~68代:千家尊能
69代:千家尊光 - 通称右京~(中略)~76代:千家俊秀 - 通称清主。千家俊信の兄で千家俊信の門弟。千家 俊信(せんげ としざね)は、日本の国学者であり歌人です。第七十六代出雲国造千家俊秀の弟。のちに分家して、千家日古主と名乗ったり、清主と改名したりしています。明治の文豪小泉八雲の妻セツは玄孫にあたります。
77代:千家尊之~(中略)~79代:千家尊澄
80代:千家尊福 - 出雲大社教を設立。司法大臣・東京府知事等を歴任されています。
81代:千家尊紀 - 先代の弟、明治15年(1882年)に継がれます。
82代:千家尊統 - 著書『出雲大社』(学生社)があります。昭和43年(1968年)没。
83代:千家尊祀 - 昭和22年(1947年)に父から国造職を継ぎ、半世紀以上務めました。
84代:千家尊祐 - 平成14年(2002年)に父から、国造職を継いでおられます。
84代の長男:千家国麿 - 出雲大社権宮司。2014年(平成26年)10月5日、高円宮憲仁親王と同妃久子の次女典子女王と結婚されました。

【『出雲国造神賀詞』の奏上】

奈良・平安時代の出雲国造は、その代替わりごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上する儀礼を行っていました。儀式の次第は『延喜式』に記されており、それによれば、まず新しく国造となった者は朝廷に上って新任の式を行い、天皇から「負幸物」を賜ります。その後、出雲に帰って1年間潔斎をした後、再び朝廷に上り、神宝・御贄を献って神賀詞を奏上します。また、出雲に帰ってまた1年の潔斎を行い、再び朝廷に参向して献物を捧げて神賀詞を奏上するという儀礼をおこなっていました(大変ですね)。

文献の記録では、霊亀2年(716年)2月に第23代国造出雲臣果安が奏上したとの記事(『続日本紀』)が初見で、以後、天長10年(833年)4月の第35代国造出雲臣豊持による二度目の奏上(『続日本後紀』)まで15回の記録が見られます。しかしこれはあくまでも文献上であり、実際は最初の奏上が果安以前の国造であったり、最後の奏上が豊持以降の国造である可能性は高いといえるでしょう。

また神賀詞の内容や儀式の次第についても記録は延喜式制定時点のものであり、各代の奏上において同一ではなく、時代を追って変遷していると思われます。奏上儀式の起源については、朝廷が古代の在地勢力による服属儀礼を、代表として出雲国造に命じて行わせたとする説や、出雲国造が自らの系譜を朝廷の神話体系の中に売り込むべく始めたとする説などがあり、定かではないようです。

しかしいずれにしろ、この儀式は古代日本において他の国造に見られない出雲国造独特の儀式であって、記紀神話において出雲神話が非常に大きなウェートを占めていることや、国造制の廃止後も出雲国造が存続された理由とも切り離すことのできない儀式です。

またまた、長々と書いてしまいましたが、出雲国造の仕事とは、国譲りで傷ついた大国主(出雲王国)の御霊を慰め祀ることだと考えます。
巨大な空中神殿、古事記に書かれた神話部分の多くを占める出雲神話、倭大王がいかに出雲の霊力(科学を生業とする私には認めるわけにはいきませんが!)を恐れていたかがうかがえるのではないでしょうか?

参考までに以前UPしました「北島家」もご覧ください。ほとんど同じ家なので変わらないのですがね~(笑)
歴史のいたずらが神々の系図を二つに分ける!『出雲国造 北島家』

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(最初の可愛い兎の秘密!国麿さんと典子さんのご結婚祝いの兎だったんです。凄く多い兎たち秘密の国に迷い込みましょう。)


いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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北円堂の秘密

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貴職におかれてもホットな話題を知っておくことは仕事に少なからず役立つでしょう。
先ずはブログ主様ご本人からベストセラー小説「北円堂の秘密」の読破をされては如何だろうか。
読めば日本史のミラクルワールド全開です。お友達に教える時はネタバレ無しで口コミして下されば幸いです。

Re: 北円堂の秘密

大町阿礼さんコメントありがとうございました。先日西国三十三霊場の南円堂はお参りしてきました。北円堂は確か国宝に指定されていましたね。私は理系の人間で歴史の勉強はまだまだ不足しております。機会が出来ましたら是非読ませていただきたいと思います。わざわざご紹介ありがとうございました。