備前地域最大の前方後円墳、『両宮山古墳』は倭への架け橋か!
さて、皆さん今日はTV見てらっしゃいますよね~~!私も珍しくリアルタイムでTV見てるんです。もちろんサッカーです(W杯ロシア大会アジア最終予選のオーストラリア戦が今始まろうとしています。ブログ書くの遅れると思いますがお許しください。ブログの途中に変な歓声が入ってしまうかもしれません(笑)
Jリーグはそれほどでもないのに、オールジャパンになると、ナショナリズムが触発されますよね~。日の丸と八咫烏(ヤタガラス)のマークにジャパニーズブルーに、ついつい拳に力が入ります。
いつもより右よりのブログになるかもしれませんね~。今日ご紹介するのは、備前地域最大(岡山県では三番目の大きさ)の前方後円墳、『両宮山古墳』です。
それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【八咫烏(ヤタガラス)ってどんなカラス?】
最初から脱線しますが、サッカー日本代表の胸のマークにも採用されている八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話において神武東征(じんむとうせい)の際、高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラスです。一般的に三本足のカラスとして知られていますよね。
熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされています。
『日本書紀』では、神武天皇を、「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」といい、磐余彦は八咫烏に導かれて畝傍山の東南の橿原の地を都と定めます。辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称しました。「神武天皇」は天孫降臨の瓊瓊杵尊の孫とされ、伝説の人物です。実際に「神武天皇」と呼ばれ始めたのは8世紀頃だそうです。アッ!「GOOOOOAL!日本先制~」
【ハーフタイムに両宮山古墳のご紹介】
両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)は、岡山県赤磐市穂崎・和田にある古墳です。形状は前方後円墳。両宮山古墳群(西高月古墳群)を構成する古墳の1つで国の史跡に指定されています。
所在地:岡山県赤磐市穂崎山陽町穂崎
所属:両宮山古墳群(西高月古墳群)
形状:前方部2段築成の前方後円墳。中央くびれ部の両側に造出があります。二重周濠を巡らします。周堤(基底幅24m、上部幅14m)の外側に幅約13m、深さ約3mの外濠ありました(現在は田畑に成っています)。
総長346m、墳長206m、後円部径104m、高さ25.1m、頂径23x18m、前方部幅124m、長さ90m、高さ22.3m、くびれ幅75m、後後高差0.64m。葺石はありません(埴輪もありません)。
築造年代:5世紀後半(古墳時代中期)頃の築造と推定される。
埋葬施設:未調査のため不明
指定文化財:国の史跡「両宮山古墳」
特記事項:全国第36位(墳丘長200mとする場合)、岡山県第3位、備前地方第1位の規模になります。
大仙陵古墳の5分の2相似形といわれます。
その他:西の造出は、戦国時代にしろとして利用された際盛りつけたため高くなっています。
【両宮山古墳の概要】
岡山県南部、本宮高倉山南東麓の扇状地斜面に築造された巨大前方後円墳です。一帯では本古墳含む前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などからなる両宮山古墳群(西高月古墳群)の営造が知られ、本古墳はその主墳となります。墳丘上では前方部に両宮神社が造営されているほか、墳丘周囲部ではこれまでに数次の発掘調査が実施されています。ちょっと「鬼ノ城」への道を間違えて、両宮神社へのお参りはかないませんでした。
墳形は前方後円形で、墳丘主軸を傾斜面と平行とし、前方部を南東方(傾斜面の低位方)に向けます。墳丘は3段築成。墳丘長は206メートルを測るが、これは備前地方(岡山県南東部)では最大規模で、岡山県では造山古墳(岡山市北区新庄下、350メートル:全国第4位)・作山古墳(総社市三須、282メートル:全国第10位)に次ぐ第3位(全国第39位)の規模になります。墳丘の左右くびれ部には高い造出があります。墳丘表面で葺石・埴輪は検出されていません(ちょっと不思議ですね)。主体部の埋葬施設は未調査のため明らかにされていません。墳丘周囲には2重周濠が巡らされており、周濠を含めた全長は349メートルにもおよびます。2重周濠のうち外濠は周辺田畑に埋没していますが、内濠は現在も水をたたえています。また周辺では、後円部側に陪塚と見られる和田茶臼山古墳が築造されています。
周辺古墳では森山古墳(帆立貝形古墳82m)が後継首長墓と推測され、続いて朱千駄古墳(前方後円墳85m)・小山古墳(前方後円墳67m)・廻り山古墳(前方後円墳47m)と規模を縮小しながら築造されたと考えられます。また、吉備の3大古墳としては造山古墳・作山古墳に次ぐ3番目の築造になりますが、両古墳と異なり2重周濠を採用して「畿内型」の様相が強い点、および巨大古墳でありながら本古墳には葺石・埴輪が見られない点が注目されます。なお『日本書紀』雄略天皇紀には吉備の反乱伝承が見えており、その伝承と両宮山古墳以後に吉備で古墳規模が縮小することとの関連性が推測されます。
古墳域は1927年(昭和2年)に国の史跡に指定されています。なお両宮山古墳付近では、後世に古代山陽道が引かれているほか(造山古墳・作山古墳も同様)、西側では後世に備前国分寺も営まれています。
【葺石も埴輪も出土しない古墳の謎】
おおお!「GO~AL!日本追加点~~!」
この古墳は平地に作られた古墳です。盛り上げる土を採取したあとが巨大な周濠となっています。現在は後円部の北側が一部水田となっていますが、周濠を持つ古墳は岡山県ではとても珍しいです。中世には城として一部改変されたが、後円部に比べ前方部が発達している点や、造り出しの位置などから、5世紀後半の築造と推定されています。
5世紀後半は、大和朝廷の推し進める中央集権化の荒波の中で、吉備勢力が弱体化し次第に力を失っていく時期にあたります。造山古墳(全長360m)や作山古墳(全長286m)など天皇陵と規模を競うほどの墓を築造した吉備勢力は、両宮前古墳を最後に大きな墓を作らなくなります。両宮前古墳は吉備全体の盟主墳とされながら、墳丘の規模は206mと、造山、作山古墳に比べて格段に小さのです。
その後の調査の結果、後円部の周り5カ所で行った試掘の結果、幅約13m、深さ約3mの外濠(そとぼり)が幅28mの周堤の外側に巡らされていることが確認されました。この外濠は古墳を全周しています。その結果、濠を含めた古墳の総長は346メートルにも達します。すなわち、作山古墳を抜いて造山古墳に迫る大きさを持ち、畿内天皇墓に迫る規模の古墳だったことがわかりました。
発掘調査に併せて行なった墳丘測量の結果、この古墳が我が国最大の大山(だいせん)古墳のちょうど5分の2の規格で作られていることも分かりました。この古墳の被葬者は、弱体化しながらも造山・作山古墳を築いてきた系列を継ぐ首長であると、今までは考えられてきました。
【雄略天皇と稚媛の愛憎劇】
両宮山古墳には、以前から大きな謎がありました。天皇陵にも匹敵する前方後円墳でありながら、この時代の古墳には常識の葺石が墳丘に敷かれておらず、また埴輪の列柱も見あたらないのです。以前は、このことが弱体化した吉備勢力の象徴と考えられてきました。しかし、大山古墳の規格をきっちりとコピーし二重周濠まで築き、造山・作山古墳を築いてきた系列とは別系列であることを主張しているような古墳です。その理由は何だったのでしょう。
『日本書紀』はそのことに関係する「稚媛(わかひめ)伝説」が載っています。稚媛の夫、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみ・たさ)は宮廷で自分の妻の稚媛が魅力的な女性であると自慢していました。これを聞いた雄略天皇は、田狭を「任那国司」に任じて国外に追いやり、稚媛を奪っってしまったのです。もしこの話が史実であれば、田狭が任那に追いやられた時点で寿陵の築造が中断し、そのままになって葺石や埴輪が見つからない理由もうなずけます。
田狭の妻だった稚媛と雄略天皇の間には星川皇子という皇子が生まれます。雄略天皇の死後、稚媛は星川皇子を天皇位につけようとして、星川皇子にクーデターを勧めます。星川皇子は諸国からの貢ぎ物を収容する大蔵を占領しますが、雄略の寵臣だった大伴室屋や東漢掬(つか)らに包囲されて、星川皇子は焼死してしまいます。 このとき吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)らは星川皇子のクーデターを聞いて水軍を率いて駆けつけようとしますが、時すでに遅く皇子は焼死したことを聞いて引き上げます。しかし、雄略天皇の後を継いだ清寧天皇は吉備上道臣らの行動を責め、その支配する山部を取りあげたといわれます。
この両宮山古墳の築造時期は5世紀の後半に想定されていましたね、その点は雄略天皇の治世の時期と重なります。もし、田狭が任那の地で計画が発覚して殺害されたのであれば、この古墳の石室には埋葬された遺体はないことになりますが、どうでしょう。(笑)
【陪塚古墳のご紹介】
和田茶臼山古墳 墳丘(わだちゃうすやまこふん)
両宮山古墳周辺では中小古墳数基が分布するが、そのうち次の1基は陪塚と推定される。
所在地:赤磐市和田
形状:帆立貝形古墳
規模:墳丘長55メートル、後円部直径41.5メートル(推定)、前方部長さ15メートル、前方部幅19.5メートル。
両宮山古墳の後円部北側に位置します。墳丘主軸は両宮山古墳とほぼ直交し、前方部を西方に向けています。墳丘は2段築成と考えられます。現在では墳丘は後円部のみを遺存しますが、発掘調査により前方部が確認されたほか、2重周濠を伴うことも判明しています。また、両宮山古墳と同様に葺石・埴輪は検出されていません。築造時期は5世紀後半-末頃と推定されます。外濠を両宮山古墳と共有すると見られるなど、両宮山古墳とは計画的に配置されて古墳の様相も類似することから、和田茶臼山古墳被葬者は両宮山古墳被葬者と親密な関係にあると考えます。
両宮山古墳の前面には森山古墳・正免東古墳(非現存)も築造されましたが、両古墳には葺石・埴輪を伴う点が注目されます。一帯では朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳といった古墳の築造も認められますが、全ての古墳で埴輪が出土しています。
【最後に!】
日本勝ちました~~~!W杯ロシア大会出場決定しました~~!
選手の皆さん、日本の皆さん、おめでとうございます。今日はしょうがないな(笑)
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされています。
『日本書紀』では、神武天皇を、「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」といい、磐余彦は八咫烏に導かれて畝傍山の東南の橿原の地を都と定めます。辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称しました。「神武天皇」は天孫降臨の瓊瓊杵尊の孫とされ、伝説の人物です。実際に「神武天皇」と呼ばれ始めたのは8世紀頃だそうです。アッ!「GOOOOOAL!日本先制~」
【ハーフタイムに両宮山古墳のご紹介】
両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)は、岡山県赤磐市穂崎・和田にある古墳です。形状は前方後円墳。両宮山古墳群(西高月古墳群)を構成する古墳の1つで国の史跡に指定されています。
所在地:岡山県赤磐市穂崎山陽町穂崎
所属:両宮山古墳群(西高月古墳群)
形状:前方部2段築成の前方後円墳。中央くびれ部の両側に造出があります。二重周濠を巡らします。周堤(基底幅24m、上部幅14m)の外側に幅約13m、深さ約3mの外濠ありました(現在は田畑に成っています)。
総長346m、墳長206m、後円部径104m、高さ25.1m、頂径23x18m、前方部幅124m、長さ90m、高さ22.3m、くびれ幅75m、後後高差0.64m。葺石はありません(埴輪もありません)。
築造年代:5世紀後半(古墳時代中期)頃の築造と推定される。
埋葬施設:未調査のため不明
指定文化財:国の史跡「両宮山古墳」
特記事項:全国第36位(墳丘長200mとする場合)、岡山県第3位、備前地方第1位の規模になります。
大仙陵古墳の5分の2相似形といわれます。
その他:西の造出は、戦国時代にしろとして利用された際盛りつけたため高くなっています。
【両宮山古墳の概要】
岡山県南部、本宮高倉山南東麓の扇状地斜面に築造された巨大前方後円墳です。一帯では本古墳含む前方後円墳4基・帆立貝形古墳2基などからなる両宮山古墳群(西高月古墳群)の営造が知られ、本古墳はその主墳となります。墳丘上では前方部に両宮神社が造営されているほか、墳丘周囲部ではこれまでに数次の発掘調査が実施されています。ちょっと「鬼ノ城」への道を間違えて、両宮神社へのお参りはかないませんでした。
墳形は前方後円形で、墳丘主軸を傾斜面と平行とし、前方部を南東方(傾斜面の低位方)に向けます。墳丘は3段築成。墳丘長は206メートルを測るが、これは備前地方(岡山県南東部)では最大規模で、岡山県では造山古墳(岡山市北区新庄下、350メートル:全国第4位)・作山古墳(総社市三須、282メートル:全国第10位)に次ぐ第3位(全国第39位)の規模になります。墳丘の左右くびれ部には高い造出があります。墳丘表面で葺石・埴輪は検出されていません(ちょっと不思議ですね)。主体部の埋葬施設は未調査のため明らかにされていません。墳丘周囲には2重周濠が巡らされており、周濠を含めた全長は349メートルにもおよびます。2重周濠のうち外濠は周辺田畑に埋没していますが、内濠は現在も水をたたえています。また周辺では、後円部側に陪塚と見られる和田茶臼山古墳が築造されています。
周辺古墳では森山古墳(帆立貝形古墳82m)が後継首長墓と推測され、続いて朱千駄古墳(前方後円墳85m)・小山古墳(前方後円墳67m)・廻り山古墳(前方後円墳47m)と規模を縮小しながら築造されたと考えられます。また、吉備の3大古墳としては造山古墳・作山古墳に次ぐ3番目の築造になりますが、両古墳と異なり2重周濠を採用して「畿内型」の様相が強い点、および巨大古墳でありながら本古墳には葺石・埴輪が見られない点が注目されます。なお『日本書紀』雄略天皇紀には吉備の反乱伝承が見えており、その伝承と両宮山古墳以後に吉備で古墳規模が縮小することとの関連性が推測されます。
古墳域は1927年(昭和2年)に国の史跡に指定されています。なお両宮山古墳付近では、後世に古代山陽道が引かれているほか(造山古墳・作山古墳も同様)、西側では後世に備前国分寺も営まれています。
【葺石も埴輪も出土しない古墳の謎】
おおお!「GO~AL!日本追加点~~!」
この古墳は平地に作られた古墳です。盛り上げる土を採取したあとが巨大な周濠となっています。現在は後円部の北側が一部水田となっていますが、周濠を持つ古墳は岡山県ではとても珍しいです。中世には城として一部改変されたが、後円部に比べ前方部が発達している点や、造り出しの位置などから、5世紀後半の築造と推定されています。
5世紀後半は、大和朝廷の推し進める中央集権化の荒波の中で、吉備勢力が弱体化し次第に力を失っていく時期にあたります。造山古墳(全長360m)や作山古墳(全長286m)など天皇陵と規模を競うほどの墓を築造した吉備勢力は、両宮前古墳を最後に大きな墓を作らなくなります。両宮前古墳は吉備全体の盟主墳とされながら、墳丘の規模は206mと、造山、作山古墳に比べて格段に小さのです。
その後の調査の結果、後円部の周り5カ所で行った試掘の結果、幅約13m、深さ約3mの外濠(そとぼり)が幅28mの周堤の外側に巡らされていることが確認されました。この外濠は古墳を全周しています。その結果、濠を含めた古墳の総長は346メートルにも達します。すなわち、作山古墳を抜いて造山古墳に迫る大きさを持ち、畿内天皇墓に迫る規模の古墳だったことがわかりました。
発掘調査に併せて行なった墳丘測量の結果、この古墳が我が国最大の大山(だいせん)古墳のちょうど5分の2の規格で作られていることも分かりました。この古墳の被葬者は、弱体化しながらも造山・作山古墳を築いてきた系列を継ぐ首長であると、今までは考えられてきました。
【雄略天皇と稚媛の愛憎劇】
両宮山古墳には、以前から大きな謎がありました。天皇陵にも匹敵する前方後円墳でありながら、この時代の古墳には常識の葺石が墳丘に敷かれておらず、また埴輪の列柱も見あたらないのです。以前は、このことが弱体化した吉備勢力の象徴と考えられてきました。しかし、大山古墳の規格をきっちりとコピーし二重周濠まで築き、造山・作山古墳を築いてきた系列とは別系列であることを主張しているような古墳です。その理由は何だったのでしょう。
『日本書紀』はそのことに関係する「稚媛(わかひめ)伝説」が載っています。稚媛の夫、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみ・たさ)は宮廷で自分の妻の稚媛が魅力的な女性であると自慢していました。これを聞いた雄略天皇は、田狭を「任那国司」に任じて国外に追いやり、稚媛を奪っってしまったのです。もしこの話が史実であれば、田狭が任那に追いやられた時点で寿陵の築造が中断し、そのままになって葺石や埴輪が見つからない理由もうなずけます。
田狭の妻だった稚媛と雄略天皇の間には星川皇子という皇子が生まれます。雄略天皇の死後、稚媛は星川皇子を天皇位につけようとして、星川皇子にクーデターを勧めます。星川皇子は諸国からの貢ぎ物を収容する大蔵を占領しますが、雄略の寵臣だった大伴室屋や東漢掬(つか)らに包囲されて、星川皇子は焼死してしまいます。 このとき吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)らは星川皇子のクーデターを聞いて水軍を率いて駆けつけようとしますが、時すでに遅く皇子は焼死したことを聞いて引き上げます。しかし、雄略天皇の後を継いだ清寧天皇は吉備上道臣らの行動を責め、その支配する山部を取りあげたといわれます。
この両宮山古墳の築造時期は5世紀の後半に想定されていましたね、その点は雄略天皇の治世の時期と重なります。もし、田狭が任那の地で計画が発覚して殺害されたのであれば、この古墳の石室には埋葬された遺体はないことになりますが、どうでしょう。(笑)
【陪塚古墳のご紹介】
和田茶臼山古墳 墳丘(わだちゃうすやまこふん)
両宮山古墳周辺では中小古墳数基が分布するが、そのうち次の1基は陪塚と推定される。
所在地:赤磐市和田
形状:帆立貝形古墳
規模:墳丘長55メートル、後円部直径41.5メートル(推定)、前方部長さ15メートル、前方部幅19.5メートル。
両宮山古墳の後円部北側に位置します。墳丘主軸は両宮山古墳とほぼ直交し、前方部を西方に向けています。墳丘は2段築成と考えられます。現在では墳丘は後円部のみを遺存しますが、発掘調査により前方部が確認されたほか、2重周濠を伴うことも判明しています。また、両宮山古墳と同様に葺石・埴輪は検出されていません。築造時期は5世紀後半-末頃と推定されます。外濠を両宮山古墳と共有すると見られるなど、両宮山古墳とは計画的に配置されて古墳の様相も類似することから、和田茶臼山古墳被葬者は両宮山古墳被葬者と親密な関係にあると考えます。
両宮山古墳の前面には森山古墳・正免東古墳(非現存)も築造されましたが、両古墳には葺石・埴輪を伴う点が注目されます。一帯では朱千駄古墳・小山古墳・廻り山古墳といった古墳の築造も認められますが、全ての古墳で埴輪が出土しています。
【最後に!】
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