石垣も美しいが、やはり眺めが絶景「米子城址」
先日出雲大社に参拝にした帰り、朝の運動を兼ねて米子城址に登って来ました。以前米子に単身赴任していたときにも登っていたのですが、もちろん当時はブログを書くことも考えておらずに、ガラケー写真が3枚ほどしかなかったので、今回はブログ用の撮影登城となりました。
米子城は天正19(1591)年吉川広家が、月山富田城に代わる居城として築城を開始したもので、関が原の戦い後、慶長6(1601)年
伯耆17万5,000石の領主となった中村一忠により完成されました。
中村氏改易後は加藤氏(6万石)の治世を経て、近世を通して因伯32万石の池田氏のもと、家老に預けられ維新を迎えています。
現在残るのは石垣だけですが、内堀から内部は、飯山と湊山の一部を除き、「湊山公園」となっています。また、城山一帯には、市街地に残る数少ない貴重な自然が保護されており、多くの動植物に接することができます。
城山はウォーキングコースとしても市民に親しまれ、ふもとから約15分の頂上から望む大山、日本海、島根半島、中海は本当に絶景でおすすめです。
それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。




【米子城ってどんな城?】
米子市街地の西側、中海に突き出た標高約90mの湊山と、標高約600mの飯山に築かれ、湊山頂上部に総石垣の本丸があり、
5層の天守閣、4層の副天守を備えた山陰随一の近世平山城郭で、本丸北側には内膳丸があり、その東麓には政庁が置かれた二の丸がありました。その南東下には大型の外枡形を構えています。水堀を巡らした三の丸は現在埋め立てられ市街地となっていて、鳥取大学病院もその三の丸の敷地に建てられています。
西伯耆の拠点的な城であった米子城は、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。天守のあった標高90メートルの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。
湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が、華麗に連なっていました。江戸時代に発布された「一国一城令」の下、例外として存続を許された「支城」と呼ばれる城のなかで、このような天守をそなえたものは全国でも稀です。城の建物は、ほとんど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇りました。
現在その城の建物は残っていませんが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、その構造を知ることができる城跡として重要です。また、米子城に関する文献・絵図資料なども数多く、良好な状態で伝えられています。そのため、平成18年1月26日、米子城跡は国史跡に指定されました。
【米子城データ】
米子城(よなごじょう)は、鳥取県米子市久米町にあった日本の城です。久米城、湊山城ともいわれました。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁でした。
別名:久米城、湊山金城
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:不明4重(1596年)、独立式望楼型4重5階(1601年)ともに非現存。詳細は同項の構造を参照 してください。
築城主:山名氏か?
築城年:文明2年(1470年)頃
主な改修者:吉川広家、中村一忠
主な城主:山名氏、尼子氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏
廃城年:1871年
遺構:石垣
指定文化財:平成18年(2006年)1月26日 国の史跡に制定されました。
【米子城概要】
米子城には、戦国時代の飯山(いいのやま:国道9号線南側)に営まれた砦と、湊山(みなとやま:国道9号北側)を中心に営まれた近世城郭があります。江戸時代初期には伯耆国一国を支配した中村氏による米子藩の藩庁となり、その後鳥取藩の支城となりました。
戦国期には飯山の頂上に、南北約85メートル、東西約35メートルの郭を構え、東と北に野面積みで高さ2メートル前後の石垣を各2段設けていた。門が3か所あり、現在は削平されていますが、南が1段高く、建物の痕跡があったといわれています。
江戸期には湊山に新たに築かれ、山頂の本丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置き、戦国期に米子城の主郭であった飯山は出丸として利用されましたあ。四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)、30棟の櫓と20棟の門が建てられ、城域の周囲に廻した堀には中海から海水をひき入れていました。
ただし、飯山と湊山が別の山と認識されたのは後世の話で、中世には1つの山に付けられた別名が「飯山」「湊山」であったとする考えもあります。現在は国道9号線で分けられているので、別の山の印象が大きい様です。
【江戸期の米子城の構造】
標高90mの湊山と峰続きの丸山、湊山と隣接する飯山のそれぞれ山頂部と山麓部に曲輪が設けられました。
本丸は湊山山頂に位置し、西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海、島根半島、中国山地が一望できます。大天守や四重櫓、二重櫓、多聞櫓、鉄御門(くろがねごもん)などが置かれました。なお、本丸までに番所跡や遠見櫓(とおみやぐら)跡などが残っています。
天守は1600年(慶長5)に城主となった中村一忠が吉川広家の四重天守の横に建てた独立式望楼型4重5階の天守で、1878年(明治11)に撮影された古写真が残っています。
初重平面は10間×8間、2重目も同じ規模で、3重目は7間×6間、4重目と5重目は3間×2間半を測り、外観は2重目を大入母屋破風と千鳥破風・軒唐破風、3重目には入母屋破風と千鳥破風、最上重には軒唐破風があった。5階には望楼部の外廻り縁高欄を覆ったと見られている板庇があり、特異な外観となっていた。高さは21メートルはあったと考えられており、本城である鳥取城の天守(2重2階)や三階櫓をもしのいでいました。
四重櫓は、1591年(天正19)に城主となった吉川広家が建てた初代の天守であるといわれ、中村一忠が新たに5重の天守を建てた後に「四重櫓」と呼んで存続させたという伝承があります。規模を考慮して古天守や副天守とも呼ばれます。独立式望楼型3重4階の大型櫓で初重平面形は不整形で、石落としや出張がありました。天守と同じく、最上層の外廻り縁高欄を板庇で覆っていたことが分かっています。
古写真は残っていないが、幕末に櫓台と小天守の修築工事をしているため、外観および内部各階の詳細な絵図面が残っています。また米子市にある山陰歴史館、米子市立義方小学校、及び鹿島家分家に四重櫓の鯱一つずつ保存されています。
二の丸は、城主の御殿や、その台所、藩の役所が置かれていた。1603年(慶長8)に横田村詮は二の丸の建物内で暗殺された。
二の丸入口は、東西25.4メートル・南北22.7メートルの桝形があります。現在、裏門にあたる太鼓御門跡や御殿御用井戸が残るほか、1953年(昭和28)に移築された小原家の表門長屋が置かれ、テニスコートとなっている部分もあります。
三の丸は、作事小屋、厩舎、資材小屋、米蔵、番人詰所などか建ち並んでいました。外周には内堀を廻らせ、大手門、搦手門、鈴の門(すんずのもん)で守られていた。現在、鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地となっています。
内膳丸は、本丸に登る途中右手に分かれて登ったところにあります。丸山と呼ばれ、標高52メートル。中村一忠の家老である横田内膳正村詮が担当して構築したため「内膳丸」と呼ばれました。二重櫓数棟と武器庫が設置されました。横田村詮が暗殺された時、その一族が立て籠もったという記録もあるようですが、一族が立て籠もったのは、飯山との見方が強い様です。飯山は戦国期の砦跡が出丸として改修され、「東の丸」あるいは「采女丸(うねめまる)」と呼ばれたと伝わります。
【中世の歴史】
応仁の乱時、西軍の山名氏が支配する伯耆と、東軍京極氏が支配する出雲の国境は緊張します。『出雲私伝』によると、文明2年(1470年)尼子清定と戦った伯耆方が敗れて米子城に入るとあり、この頃の築城と考えられます(飯山砦)。
大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となる。永禄5年(1562年)頃、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、山名氏の支配に復します。
永禄12年(1569年)、尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛(鹿之助)らは、米子城主山名之玄と結ぶ。しかし、毛利方の吉川元春(毛利元就次男)に攻められ落城、城主・山名之玄は自害しています。吉川元春は配下の福頼元秀、天正5年(1577年)から古曳吉種を城主にしたと推定されています。
天正19年(1591年)、東出雲・隠岐・西伯耆を領した吉川広家が城主となり、古曳吉種に命じ、湊山に築城を始める。しかし古曳吉種は文禄の役で戦死し、吉川広家は関ヶ原の戦いの結果、岩国へ転封されました。
【江戸時代(米子藩と横田村詮謀殺事件て何?)】
豊臣秀吉の死後、徳川派と反徳川派の中、豊臣家の三中老である父・一氏は、嫡子・一忠の将来と中村家の存続を願う家老・横田村詮の意見を聞き、慶長5年(1600年)、駿府城下の村詮内膳屋敷で徳川家康と会談し、東軍方に加わることを決めました。しかしながら、重い病にかかっていた一氏は、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年7月17日(1600年8月25日)に死去してしまいます。
関ヶ原の戦いの後の同年11月、先の会談での一氏の約束論功を踏まえた家康は、11歳の一忠に伯耆一国を与え、米子17万5,000石領し米子城に拠り、初代米子藩主となります。さらに一忠は伯耆守に任じられ国持大名とされました。また、幼少の一忠に叔父の横田村詮を後見役、執政家老として同行させました。一忠は執政家老の横田村詮と共に、米子城を完成させ、さらに新たに米子城下町を建設し、現在の商都米子の礎を築来ました。
村詮は年少の一忠に替わって藩政に携わり、城下町米子の建設に辣腕を振るいます。この村詮の手腕を妬み、出世を目論む一忠の側近・安井清一郎、天野宗杷らは村詮の排除を計画し、一忠に甘言を弄して惑わせます。慶長8年11月14日(1603年12月16日)、一忠は正室浄明院との慶事に託けて責めを負わせて村詮を謀殺します。村詮の子・主馬助、柳生宗章らは飯山に立て篭もったが、一忠は隣国出雲松江藩主・堀尾吉晴の助勢を求め、これを鎮圧しました。徳川幕府は、首謀者、安井、天野両名を容赦なく切腹に処しています。
慶長14年(1609年)、中村一忠が急死、中村氏は家系断絶のため改易され、翌年、替わって加藤貞泰が伯耆の内で2郡6万石を領して藩主となります(中村氏旧領の残り11万5000石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治されます)。元和3年(1617年)、加藤貞泰が大洲藩に移され、米子藩は廃藩となって消えました。
伯耆・因幡が全て鳥取藩池田光政の所領となったことにより、米子城には家老の池田由成が城代として駐在した。池田光政が鳥取に入封した際、鳥取城が32万5千石の居城としては手狭であったため、新城が検討されたことがありました。その際に候補に挙がったのが、布勢天神山城・倉吉打吹城・久米郡の茶臼山・米子城でした。いずれの城・地域とも一長一短ある中、米子城は「藩侯の居城としてふさわしい城」として最後まで新城の候補地とされ、激論が交わされました。結局、鳥取城を改築する運びとなり、米子城が鳥取の首府になることはありませんでした。
寛永9年(1632年)、池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となり、明治維新に至るまで米子城は家老の荒尾氏が城代として駐在しています。
【最後に米子城が鳥取の首府だったら】
もちろん鳥取県の県庁所在地は米子市でしょう。私が単身赴任している間も山(大山)と海(中海と日本海)に囲まれた米子は素敵な町でした。商売の町ということもあり、大阪人の気質に近いかもしれませんね。それに女性が元気な印象です。それに湊山に大きな天守を持った、米子城が残っていたかもしれません。(残念!)今回もっと写真が有ったのですが紹介しきれなくて残念です。
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米子城は天正19(1591)年吉川広家が、月山富田城に代わる居城として築城を開始したもので、関が原の戦い後、慶長6(1601)年
伯耆17万5,000石の領主となった中村一忠により完成されました。
中村氏改易後は加藤氏(6万石)の治世を経て、近世を通して因伯32万石の池田氏のもと、家老に預けられ維新を迎えています。
現在残るのは石垣だけですが、内堀から内部は、飯山と湊山の一部を除き、「湊山公園」となっています。また、城山一帯には、市街地に残る数少ない貴重な自然が保護されており、多くの動植物に接することができます。
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【米子城ってどんな城?】
米子市街地の西側、中海に突き出た標高約90mの湊山と、標高約600mの飯山に築かれ、湊山頂上部に総石垣の本丸があり、
5層の天守閣、4層の副天守を備えた山陰随一の近世平山城郭で、本丸北側には内膳丸があり、その東麓には政庁が置かれた二の丸がありました。その南東下には大型の外枡形を構えています。水堀を巡らした三の丸は現在埋め立てられ市街地となっていて、鳥取大学病院もその三の丸の敷地に建てられています。
西伯耆の拠点的な城であった米子城は、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。天守のあった標高90メートルの湊山は、北側に丸山、東側に飯山、さらに南西側には中海という天然の要衝を擁する地で、この城山を内堀で囲み、さらに外郭に武家屋敷を配し、外堀を巡らせるという、典型的な平山城の特色を備えていました。
湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が、華麗に連なっていました。江戸時代に発布された「一国一城令」の下、例外として存続を許された「支城」と呼ばれる城のなかで、このような天守をそなえたものは全国でも稀です。城の建物は、ほとんど姿を変えることなく、明治にいたるまでその偉容を誇りました。
現在その城の建物は残っていませんが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、その構造を知ることができる城跡として重要です。また、米子城に関する文献・絵図資料なども数多く、良好な状態で伝えられています。そのため、平成18年1月26日、米子城跡は国史跡に指定されました。
【米子城データ】
米子城(よなごじょう)は、鳥取県米子市久米町にあった日本の城です。久米城、湊山城ともいわれました。江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁でした。
別名:久米城、湊山金城
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:不明4重(1596年)、独立式望楼型4重5階(1601年)ともに非現存。詳細は同項の構造を参照 してください。
築城主:山名氏か?
築城年:文明2年(1470年)頃
主な改修者:吉川広家、中村一忠
主な城主:山名氏、尼子氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏
廃城年:1871年
遺構:石垣
指定文化財:平成18年(2006年)1月26日 国の史跡に制定されました。
【米子城概要】
米子城には、戦国時代の飯山(いいのやま:国道9号線南側)に営まれた砦と、湊山(みなとやま:国道9号北側)を中心に営まれた近世城郭があります。江戸時代初期には伯耆国一国を支配した中村氏による米子藩の藩庁となり、その後鳥取藩の支城となりました。
戦国期には飯山の頂上に、南北約85メートル、東西約35メートルの郭を構え、東と北に野面積みで高さ2メートル前後の石垣を各2段設けていた。門が3か所あり、現在は削平されていますが、南が1段高く、建物の痕跡があったといわれています。
江戸期には湊山に新たに築かれ、山頂の本丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置き、戦国期に米子城の主郭であった飯山は出丸として利用されましたあ。四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)、30棟の櫓と20棟の門が建てられ、城域の周囲に廻した堀には中海から海水をひき入れていました。
ただし、飯山と湊山が別の山と認識されたのは後世の話で、中世には1つの山に付けられた別名が「飯山」「湊山」であったとする考えもあります。現在は国道9号線で分けられているので、別の山の印象が大きい様です。
【江戸期の米子城の構造】
標高90mの湊山と峰続きの丸山、湊山と隣接する飯山のそれぞれ山頂部と山麓部に曲輪が設けられました。
本丸は湊山山頂に位置し、西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海、島根半島、中国山地が一望できます。大天守や四重櫓、二重櫓、多聞櫓、鉄御門(くろがねごもん)などが置かれました。なお、本丸までに番所跡や遠見櫓(とおみやぐら)跡などが残っています。
天守は1600年(慶長5)に城主となった中村一忠が吉川広家の四重天守の横に建てた独立式望楼型4重5階の天守で、1878年(明治11)に撮影された古写真が残っています。
初重平面は10間×8間、2重目も同じ規模で、3重目は7間×6間、4重目と5重目は3間×2間半を測り、外観は2重目を大入母屋破風と千鳥破風・軒唐破風、3重目には入母屋破風と千鳥破風、最上重には軒唐破風があった。5階には望楼部の外廻り縁高欄を覆ったと見られている板庇があり、特異な外観となっていた。高さは21メートルはあったと考えられており、本城である鳥取城の天守(2重2階)や三階櫓をもしのいでいました。
四重櫓は、1591年(天正19)に城主となった吉川広家が建てた初代の天守であるといわれ、中村一忠が新たに5重の天守を建てた後に「四重櫓」と呼んで存続させたという伝承があります。規模を考慮して古天守や副天守とも呼ばれます。独立式望楼型3重4階の大型櫓で初重平面形は不整形で、石落としや出張がありました。天守と同じく、最上層の外廻り縁高欄を板庇で覆っていたことが分かっています。
古写真は残っていないが、幕末に櫓台と小天守の修築工事をしているため、外観および内部各階の詳細な絵図面が残っています。また米子市にある山陰歴史館、米子市立義方小学校、及び鹿島家分家に四重櫓の鯱一つずつ保存されています。
二の丸は、城主の御殿や、その台所、藩の役所が置かれていた。1603年(慶長8)に横田村詮は二の丸の建物内で暗殺された。
二の丸入口は、東西25.4メートル・南北22.7メートルの桝形があります。現在、裏門にあたる太鼓御門跡や御殿御用井戸が残るほか、1953年(昭和28)に移築された小原家の表門長屋が置かれ、テニスコートとなっている部分もあります。
三の丸は、作事小屋、厩舎、資材小屋、米蔵、番人詰所などか建ち並んでいました。外周には内堀を廻らせ、大手門、搦手門、鈴の門(すんずのもん)で守られていた。現在、鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地となっています。
内膳丸は、本丸に登る途中右手に分かれて登ったところにあります。丸山と呼ばれ、標高52メートル。中村一忠の家老である横田内膳正村詮が担当して構築したため「内膳丸」と呼ばれました。二重櫓数棟と武器庫が設置されました。横田村詮が暗殺された時、その一族が立て籠もったという記録もあるようですが、一族が立て籠もったのは、飯山との見方が強い様です。飯山は戦国期の砦跡が出丸として改修され、「東の丸」あるいは「采女丸(うねめまる)」と呼ばれたと伝わります。
【中世の歴史】
応仁の乱時、西軍の山名氏が支配する伯耆と、東軍京極氏が支配する出雲の国境は緊張します。『出雲私伝』によると、文明2年(1470年)尼子清定と戦った伯耆方が敗れて米子城に入るとあり、この頃の築城と考えられます(飯山砦)。
大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となる。永禄5年(1562年)頃、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、山名氏の支配に復します。
永禄12年(1569年)、尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛(鹿之助)らは、米子城主山名之玄と結ぶ。しかし、毛利方の吉川元春(毛利元就次男)に攻められ落城、城主・山名之玄は自害しています。吉川元春は配下の福頼元秀、天正5年(1577年)から古曳吉種を城主にしたと推定されています。
天正19年(1591年)、東出雲・隠岐・西伯耆を領した吉川広家が城主となり、古曳吉種に命じ、湊山に築城を始める。しかし古曳吉種は文禄の役で戦死し、吉川広家は関ヶ原の戦いの結果、岩国へ転封されました。
【江戸時代(米子藩と横田村詮謀殺事件て何?)】
豊臣秀吉の死後、徳川派と反徳川派の中、豊臣家の三中老である父・一氏は、嫡子・一忠の将来と中村家の存続を願う家老・横田村詮の意見を聞き、慶長5年(1600年)、駿府城下の村詮内膳屋敷で徳川家康と会談し、東軍方に加わることを決めました。しかしながら、重い病にかかっていた一氏は、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年7月17日(1600年8月25日)に死去してしまいます。
関ヶ原の戦いの後の同年11月、先の会談での一氏の約束論功を踏まえた家康は、11歳の一忠に伯耆一国を与え、米子17万5,000石領し米子城に拠り、初代米子藩主となります。さらに一忠は伯耆守に任じられ国持大名とされました。また、幼少の一忠に叔父の横田村詮を後見役、執政家老として同行させました。一忠は執政家老の横田村詮と共に、米子城を完成させ、さらに新たに米子城下町を建設し、現在の商都米子の礎を築来ました。
村詮は年少の一忠に替わって藩政に携わり、城下町米子の建設に辣腕を振るいます。この村詮の手腕を妬み、出世を目論む一忠の側近・安井清一郎、天野宗杷らは村詮の排除を計画し、一忠に甘言を弄して惑わせます。慶長8年11月14日(1603年12月16日)、一忠は正室浄明院との慶事に託けて責めを負わせて村詮を謀殺します。村詮の子・主馬助、柳生宗章らは飯山に立て篭もったが、一忠は隣国出雲松江藩主・堀尾吉晴の助勢を求め、これを鎮圧しました。徳川幕府は、首謀者、安井、天野両名を容赦なく切腹に処しています。
慶長14年(1609年)、中村一忠が急死、中村氏は家系断絶のため改易され、翌年、替わって加藤貞泰が伯耆の内で2郡6万石を領して藩主となります(中村氏旧領の残り11万5000石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治されます)。元和3年(1617年)、加藤貞泰が大洲藩に移され、米子藩は廃藩となって消えました。
伯耆・因幡が全て鳥取藩池田光政の所領となったことにより、米子城には家老の池田由成が城代として駐在した。池田光政が鳥取に入封した際、鳥取城が32万5千石の居城としては手狭であったため、新城が検討されたことがありました。その際に候補に挙がったのが、布勢天神山城・倉吉打吹城・久米郡の茶臼山・米子城でした。いずれの城・地域とも一長一短ある中、米子城は「藩侯の居城としてふさわしい城」として最後まで新城の候補地とされ、激論が交わされました。結局、鳥取城を改築する運びとなり、米子城が鳥取の首府になることはありませんでした。
寛永9年(1632年)、池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となり、明治維新に至るまで米子城は家老の荒尾氏が城代として駐在しています。
【最後に米子城が鳥取の首府だったら】
もちろん鳥取県の県庁所在地は米子市でしょう。私が単身赴任している間も山(大山)と海(中海と日本海)に囲まれた米子は素敵な町でした。商売の町ということもあり、大阪人の気質に近いかもしれませんね。それに女性が元気な印象です。それに湊山に大きな天守を持った、米子城が残っていたかもしれません。(残念!)今回もっと写真が有ったのですが紹介しきれなくて残念です。
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