『丹後国分寺』は海に面した美しい寺だった!
本日ご紹介するのは、丹後の国国分寺跡です。丹後国分寺跡の前面に、宮津湾を二分する天橋立が有り、約7000本の松林が続く長さ3.3kmの砂州が望見できます。眺望は最高なのですが、こちらの国分寺はこれまでご紹介した国分寺と少し違うところが有るのです。
京都府立丹後資料館の前に「史跡丹後国分寺跡」と書かれた標石が立っていて、その先の広大な芝生が広がっています。国の史跡に指定された寺域です。その中に礎石が露出して保存されている場所があり、金堂跡と塔跡の標識があることから、かってこの地に壮大な伽藍が存在したことを連想させてくれます。
しかしながら残念な事に、これらの丹後国分寺跡は、奈良時代のものでは有りません。現在の史跡は「天平国分寺跡」を保存しているのではなく、鎌倉時代に再建された「建武国分寺跡」だったのです(残念?(-"-;A ...アセアセ)そんなことは有りませんよね。
奈良時代に全国に建てられた国分寺は、鎮護国家思想に基づいて仏教により護国を祈る寺でした。丹後の国にも国分寺が建立されたのですが、だが、その所在はまだ正式には特定されていません。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。




京都府宮津市国分にある国分寺院跡。丹後半島の東南、成相山(なりあいさん)から南へなだらかに下る扇状地に所在しています。現在の真言宗国分寺境内には、金堂跡、塔跡、中門跡などの礎石や基壇が残り、奈良時代の瓦が出土し、往時の国分寺の様子が想定できることなどから、1930年(昭和5)に国の史跡に指定されました。
正確な創建年代は不明ですが、8世紀末には建立されていたものと推定されています。金堂跡には35個、塔跡には16個、中門跡には2個の礎石が残りますが、中門の礎石以外は粗雑なもので、火災を受けた痕(あと)があることから、創建当初のものではなく再建されたときのものと考えられています。現在、国分寺跡一帯は整備が行われ公開されています。北側に隣接して京都府立丹後郷土資料館があり、出土瓦の一部と関係資料が展示されています。
【国分寺って何?いつも説明してますけどね~!】
国分寺に付いて少し詳しく説明しましょう!国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院です、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれています。
正式名称がこれまた長いんですよ、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました(当たり前の事ですね、笑)。また、大和国の東大寺と法華寺は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。
【うんちく~!いつも書いてるし】
平安京の「東寺」(私も弘法市で良く行くのですが)は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担ったのですが、その「東寺」正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。本当にそっくりでしょう、役目も同じく都を守りそれぞれの国を守るために建立されたということでしょう。
【さて丹後国が丹波国から分裂したなんて事ご存知ですか?】
丹波国府が置かれていたと推定される、現在の南丹市や亀岡市から丹後の中心(現在の橋立近辺かな)が遠方にあることが分国の背景にあったと考えられています。南部の亀岡桑田郡には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られています。和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、「丹後国」として設置されました。
そして私にとっては悲しいお知らせをしなければなりません~。我が故郷但馬も丹波同様丹波から分裂したんです(ワオ~~~~ン)。かつては丹波(たにわ)が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心は日本海に面した丹後半島地域だったとも言われています。海洋交通の担い手丹後の地位は強かったと考えられています。
また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備国を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられます。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為と考えられます。(但馬も「タニハノミチノウマ」だったのかな~?私の勝手な推測です。)
なお分国後の国名については、『大日本古文書』で丹波国を「丹波前国」、『日本霊異記』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えらます(いずれも「ミチ(道)」が省略されています)。
京都国立博物館蔵には、水墨画で知られる雪舟がこの地にやってきて描いた「天橋立図」が所蔵されています。「天橋立図」に描かれている塔は「五重塔」だそうです。「天平国分寺」の塔は「七重塔」だったとされていますから、彼が描いたのは後に建武元年(1334)に再建された「建武国分寺」だったことになりますね。
私が確認してきた礎石は、創建時のものではなく、建武元年(1334)再建時の礎石ということに成りますが、創建時も位置はだいたい同じ場所に建てられていたといわれています。雪舟の「天橋立図」には、金堂とその脇に五重塔が描かれていますが、その礎石がこれらと思われます。雪舟の絵にはほかには伽藍が見られず、たぶん再建された国分寺はこれだけの規模であったようです。
創建当時のものは周辺から出土した軒丸瓦と軒平瓦の2個だけだそうです。これらから創建は奈良期の末頃と推測されていて、時期としてはあまり早くは有りません。
【現在も残る丹後国分寺概要】
天平13年(741)、聖武天皇の勅願により創建された丹後国分寺の流れを汲む寺院で、境内前には鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて再建した時の礎石や土檀の跡が残っています。苔むした参道に正面には一間一戸、入母屋、桟瓦葺の鐘楼門があり境内には石仏や五輪塔などが安置されています。高野山真言宗「丹後国分寺」。
最後に御見せするのが国宝です。国宝「天橋立図」 雪舟等楊 室町時代(16世紀)本物を見たい方は京都国立美術館へお出かけください。
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京都府立丹後資料館の前に「史跡丹後国分寺跡」と書かれた標石が立っていて、その先の広大な芝生が広がっています。国の史跡に指定された寺域です。その中に礎石が露出して保存されている場所があり、金堂跡と塔跡の標識があることから、かってこの地に壮大な伽藍が存在したことを連想させてくれます。
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京都府宮津市国分にある国分寺院跡。丹後半島の東南、成相山(なりあいさん)から南へなだらかに下る扇状地に所在しています。現在の真言宗国分寺境内には、金堂跡、塔跡、中門跡などの礎石や基壇が残り、奈良時代の瓦が出土し、往時の国分寺の様子が想定できることなどから、1930年(昭和5)に国の史跡に指定されました。
正確な創建年代は不明ですが、8世紀末には建立されていたものと推定されています。金堂跡には35個、塔跡には16個、中門跡には2個の礎石が残りますが、中門の礎石以外は粗雑なもので、火災を受けた痕(あと)があることから、創建当初のものではなく再建されたときのものと考えられています。現在、国分寺跡一帯は整備が行われ公開されています。北側に隣接して京都府立丹後郷土資料館があり、出土瓦の一部と関係資料が展示されています。
【国分寺って何?いつも説明してますけどね~!】
国分寺に付いて少し詳しく説明しましょう!国分寺は、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院です、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれています。
正式名称がこれまた長いんですよ、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいます。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました(当たり前の事ですね、笑)。また、大和国の東大寺と法華寺は総国分寺と総国分尼寺とされ、全国の国分寺と国分尼寺の総本山に位置づけられました。
【うんちく~!いつも書いてるし】
平安京の「東寺」(私も弘法市で良く行くのですが)は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場としての役目を担ったのですが、その「東寺」正式名称を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」といいます。本当にそっくりでしょう、役目も同じく都を守りそれぞれの国を守るために建立されたということでしょう。
【さて丹後国が丹波国から分裂したなんて事ご存知ですか?】
丹波国府が置かれていたと推定される、現在の南丹市や亀岡市から丹後の中心(現在の橋立近辺かな)が遠方にあることが分国の背景にあったと考えられています。南部の亀岡桑田郡には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られています。和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、「丹後国」として設置されました。
そして私にとっては悲しいお知らせをしなければなりません~。我が故郷但馬も丹波同様丹波から分裂したんです(ワオ~~~~ン)。かつては丹波(たにわ)が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心は日本海に面した丹後半島地域だったとも言われています。海洋交通の担い手丹後の地位は強かったと考えられています。
また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備国を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられます。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為と考えられます。(但馬も「タニハノミチノウマ」だったのかな~?私の勝手な推測です。)
なお分国後の国名については、『大日本古文書』で丹波国を「丹波前国」、『日本霊異記』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えらます(いずれも「ミチ(道)」が省略されています)。
京都国立博物館蔵には、水墨画で知られる雪舟がこの地にやってきて描いた「天橋立図」が所蔵されています。「天橋立図」に描かれている塔は「五重塔」だそうです。「天平国分寺」の塔は「七重塔」だったとされていますから、彼が描いたのは後に建武元年(1334)に再建された「建武国分寺」だったことになりますね。
私が確認してきた礎石は、創建時のものではなく、建武元年(1334)再建時の礎石ということに成りますが、創建時も位置はだいたい同じ場所に建てられていたといわれています。雪舟の「天橋立図」には、金堂とその脇に五重塔が描かれていますが、その礎石がこれらと思われます。雪舟の絵にはほかには伽藍が見られず、たぶん再建された国分寺はこれだけの規模であったようです。
創建当時のものは周辺から出土した軒丸瓦と軒平瓦の2個だけだそうです。これらから創建は奈良期の末頃と推測されていて、時期としてはあまり早くは有りません。
【現在も残る丹後国分寺概要】
天平13年(741)、聖武天皇の勅願により創建された丹後国分寺の流れを汲む寺院で、境内前には鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて再建した時の礎石や土檀の跡が残っています。苔むした参道に正面には一間一戸、入母屋、桟瓦葺の鐘楼門があり境内には石仏や五輪塔などが安置されています。高野山真言宗「丹後国分寺」。
最後に御見せするのが国宝です。国宝「天橋立図」 雪舟等楊 室町時代(16世紀)本物を見たい方は京都国立美術館へお出かけください。
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