草薙剣より霊力は上位?「天十握剣」を追って『石上布都魂神社』へ
さて今回は、お寺・城・古墳と順次UPしてきましたので、順番的に『石上布都魂神社』を御紹介したいと思います。
そして、こんなにも早く岡山取材の秘密兵器レポートをUPする予定は無かったのですが、岡山で一生懸命探しながら、極上桃を食べられなかった私は、「ほ~ら羨ましいだろう~(⌒0⌒)/~~」桃が無くてもこの神社にお詣りに行ければ満足なんだ~よ~な~と考え方を変えました(*´ω`*)(子供か?笑)。
ということで、あの八俣遠呂智を叩き斬った「天十握剣(十拳剣)」が最初に収められたといわれる、『石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)』をご紹介です(歴史ファンなら垂涎の的のはず!)。ネット状態も今二つ?だったことも秘密兵器情報投入の一因です。
さて、最初にお話するのは、勿論神話「須佐乃男命の八俣大蛇退治」からですが、此までにも幾度となくお話しておりますので、簡単に粗筋だけ行きますよ~(^^)b
それでは、『市郎右衛門』の歴史ブログをお楽しみ?くださいね(人´ω`*).☆.。



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ということで、あの八俣遠呂智を叩き斬った「天十握剣(十拳剣)」が最初に収められたといわれる、『石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)』をご紹介です(歴史ファンなら垂涎の的のはず!)。ネット状態も今二つ?だったことも秘密兵器情報投入の一因です。
さて、最初にお話するのは、勿論神話「須佐乃男命の八俣大蛇退治」からですが、此までにも幾度となくお話しておりますので、簡単に粗筋だけ行きますよ~(^^)b
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タイトルで使用した「天十束剣」は、日本三霊剣の一本で、すべての剣の祖とされる剣です。凄まじい破壊力を秘め、使いこなせば一太刀で海を割る事も出来るともいわれ、折れる事や刃毀れする事も有りません。更に、この刀は意思を持っており、自ら持ち主を選ぶといわれます。刀に気に入られた相手でなければ抜く事はおろか、持つ事すら出来ないのです。十握と言うのは、刀身が十握り分、約75.8㎝~78.8㎝程度の長さがあるという事に成ります。
別名が非常に多い剣である事も有名です。 「天羽々斬(あめのはばきり)」(天の羽羽斫、天羽羽斬)、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」十握り分という意味では「十握剣(とつかのつるぎ)」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されています。一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣と考えた方が良いかもしれません。
【「昔話」須佐乃男の八俣大蛇退治!】
むかし、その昔、そのまた古い神代のお話、高天原で悪戯がすぎて、姉の天照大御神に追放処分にされた、建速須佐之男命は、出雲国肥の河(斐伊川)上流の、鳥髪(現奥出雲町鳥上)に降ってきました。
この時、須佐乃男命が河の流れに目をやると、箸が河を流れ下ってきました。須佐乃男命は、その河上に人が居ると考え尋ねて上ってゆくと、おじいさんとおばあさんの二人が美しい娘と一緒に泣いているでは有りませんか。
須佐乃男が「あなた達は誰か?」と問うと、おじいさんは「私は国の神。大山津見神の子で名前を足名椎(あしなづち)、妻の名は手名椎(てなづち)、娘の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)といいます」と答えました。
「どうして泣いているのか?」と訳を聞くと、足名椎は「私には八人の娘がいましたが、高志(越の国)の八俣遠呂智が毎年来て、一人ずつ喰ってしまいました。今年も来る頃なので、悲しくて泣いているのです」と答えました。
その八俣遠呂智とは「どのような形をしているのか?」と尋ねると、「その目は、あかかがち(ほおずき)ように真っ赤で、一つの身に八つの頭と八つの尾があり、体には苔や檜や椙が生え、その長さは八つの峡谷と八つの尾根に渡っています。その腹を見ると、いつも血でただれています」と足名椎は答えました。
「八岐大蛇を退治するから娘を私の妻に貰えないか」と足名椎に問うと、「恐れ多いことですが、あなたの御名を存じません」と答えました。「私は、天照大御神の弟須佐乃男だ。いま高天原から降ってきたところだ」。足名椎と手名椎は畏み「それは恐れ多いことを申しました。娘をさし上げます」と申し奉りました。
須佐乃男命はすぐにを隠すために、櫛名田比賣を櫛に変えて自分の角髪に刺しました。そして足名椎と手名椎とに、「何度も醸した、八鹽折の強い酒を造り、垣根をめぐらし、垣根に八つの門を作り、門毎に八つの桟敷を作り、その桟敷毎に酒船を置き、船ごとに八鹽折の酒を盛って待て」と命じました。
命ぜられたように備えをして待っていと、八俣遠呂智がが本当に現われ来て、八つの頭を酒船ごとに垂らし入れ、その酒を飲み干すと、強い酒に酔いが回り死んだように伏して寝てしまったのです。すかさず須佐乃男命は、十拳剣を抜いて、「大蛇」を切り散らすと、肥の河は「血の河」に変わり流れ下りました。
中の尾を切った時、十拳剣の剣先が欠けたので、怪しいと思い御刀で刺し割って見ると、都牟刈大刀(つむかりのたちは、草薙の剣であり、天叢雲劒でもあります。)が出て来ました。須佐乃男はこの不思議な大刀を、姉の天照大御神に献上しました。この大刀が、天皇の証「三種の神器」の一つ『草那藝之大刀(くさなぎのたち)』なのです。
さてこうして、須佐乃男命は、宮作りの地を出雲国に求めて須賀の地に着くと「この地に来て我が心はすがすがしくなった」と申され宮を作られました。それでこの地を今でも須賀といっています。
須佐乃男命が、初めて須賀の宮を作られたとき、その地より雲が立ち騰ぼりました。そこで歌をつくられました。その歌は、八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣つくるその八重垣を(やくもたついずもやえがきつまごみにやえがきつくるそのやえがきを)ですが。この歌が日本最初の和歌と言われています。
須佐乃男命は足名椎を喚び「我が宮の首」に任じ、「稲田宮主須賀之八耳神」(イナダノミヤヌシ スガノヤツミミノカミ)と名號けました。須佐乃男命は、櫛名田比賣と共に暮らし出雲国の基礎をつくり、子孫の「大國主命」が大八州国を平定し治めました。
【石上布都魂神社を訪れてみた】
所在地:岡山県赤磐市石上字風呂谷1448に成ります(山の中ですし、奥の宮まで登るのならトレッキングシューズが必要です)。
主祭神は1柱:素盞嗚尊です(明治時代に布都明神から改められました)。
社格:式内社(小)備前国一宮・旧郷社、創建不詳、本殿の様式流造です。
【まずは草薙の剣の行方】
須佐乃男命は、八岐大蛇由来の神剣を高天原の天照大御神に献上しました。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共に邇邇芸命に託され、地上に降臨しました。崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたといわれます。景行天皇の時代、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)は、東征に向かう「倭建命」(古事記)「日本武尊」(日本書紀)に神剣(草薙の剣)を託します。倭建命の死後、草薙剣は神宮に戻ることなく宮簀媛(倭建命の妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けたます。これが熱田神宮の起源となって、現在も同宮の御神体として祀られています。
宮中(天皇の側)に残った、形代の草薙剣は、壇ノ浦合戦(源平合戦)における安徳天皇(第81代天皇)入水により関門海峡に沈み、失われてしまいました。神剣の喪失により、様々な伝説・神話が生まれました(中世神話)。その結果、後鳥羽天皇(第82代天皇)は三種の神器がないまま即位、平氏滅亡により神璽と神鏡は確保できましたが、神剣を手にすることは出来ませんでした。その後、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とします。南北朝時代、北朝陣営・南朝陣営とも三種神器(神剣を含む)の所持を主張して正統性を争い、この混乱は後小松天皇(第100代天皇)における南北朝合一まで続いたのです(明徳の和約)。現在、神剣(形代)は宮中に祭られています。
【不遜ながら十拳剣(天羽々斬・天十握剣)の方が霊力は上なのでは?】
さて、以前から、申します通りに、大蛇の尻尾から出て来た草薙剣よりも、大蛇を退治した十拳剣の方が霊力では上なのでは?と疑問?を持っているのです。
八俣遠呂智については色々な説が有りますが、「斐伊川が血で染まる」を斐伊川の洪水を静めた須佐乃男と考える方も居られますし。「赤く染まった斐伊川」から砂鉄の存在を示唆する方々も居られます。この場合は草薙剣は鉄剣となり強力な武器と考えても良いかもしれません。更に「越の八俣遠呂智」から越国の攻撃とも考えられますね!浪漫溢れる幾つもの説、皆さんはどの説が正しいと思われますか?
そんな八俣遠呂智を退治した十拳剣、私が不遜にも三種の神器よりも霊力が上だと勝手に考えている。十拳剣が最初に納められたのが、今回の『石上布都魂神社』なのです。どのような、経緯でこちらの神社にもたらされたのかは不明ですが、十拳剣は日本神話に登場する八俣遠呂智を切り裂いた、あの刀剣です。別名「天羽々斬剣」(あめのはばきりのつるぎ)は 、奈良石上神宮では「布都斯魂剣」として祀られています。 別名「天十握剣」(あめのとつかのつるぎ)、 「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)、 「蛇之韓鋤」(をろちのからさひ/おろちのからさび)、 「天蠅斫剣」(あめのははきりのつるぎ/あめのはえきりのつるぎ)等の別名が有ります。
須佐乃男命が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から石上神宮へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとされています。
須佐乃男が八俣遠呂智を退治した時に用いた神剣。 当初は十掌剣/十握剣/天十握剣としか言及されず、古事記と日本書紀本文では固有名詞を与えていません。十掌剣とは「一握り十個分の長さの剣(約75.8㎝~78.8㎝)」という普通名詞の事です。 須佐乃男の十握剣には、八俣遠呂智(八岐大蛇)退治の時に天羽々斬剣と名称がつけられました。日本書紀では複数の別名があ事は説明いたしました。伝承によれば、現在は石上神宮で祀られています。
【十拳剣は幾つも在る?】
三貴子の一柱、須佐之男命(素戔嗚尊)が最初にもっていた十掌剣は、天照大御神(アマテラス)と宇気比(誓約)した際、姉神によって三つに折られて口に含まれ、宗像三女神(多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命)に生まれ変わっています(古事記、日本書紀本文)。
天岩戸隠れを経て高天原を追放された須佐乃男は、新たな剣を持っていた。まず大気都比売神を斬り殺してしまいますが、剣の名称について古事記では言及していません。こちらも十拳剣といえるのかもしれませんね、日本書紀では穀物神の保食命(うけもち神)を斬り殺したのは月読尊(つくよみ)とされています。
「日本書紀」では布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡っています。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていましが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が「石上大神」として石上神宮に祀られています。
現在、石上神宮では天羽々斬剣とされる鉄刀が、布都御魂剣とともに石上神宮本殿内陣に奉安され祭られています。これは明治11年(1878年)の石上神宮の社殿建造のための禁足地発掘の際、出土した全長120cm位の片刃の刀です。本殿内陣には布都御魂剣とこの片刃鉄刀の他に、同じ明治11年の発掘で出土した全長60cm位の両刃の鉄剣も奉安され祭られていますが、片刃鉄刀の方が天羽々斬剣とされています。
一方、岡山の「石上布都魂神社」は布都明神を祀っていたが、明治時代に祭神を素戔嗚尊に改められました。更には鹿島神宮にも、「十握剣」とされる直刀(国宝)が納められています。こちらは国譲り神話で武甕槌が使用した十拳剣ですかね~。
【石上布都魂神社奥の宮を訪れよう】
本宮(奥の院)、石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)は、明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていた。明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれています。
上述の十握剣を祀ったのが当社の創始と伝えられる。この剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、このことは石上神宮の社伝にも記されています。『延喜式神名帳』では小社に列し、備前国総社神名帳では128社中2位に正二位布都魂神社と記載されている。寛文9年(1669年)、岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興しました。次代綱政は延宝2年(1674年)社領20石を寄進し、宝永7年(1710年)に社殿・神楽殿を造営します。その後も歴代の藩主の崇敬を受けました。
明治6年(1873年)に郷社に列した。祭神を素盞嗚尊に変更したのはこのときと考えられます。明治40年(1907年)、大火で山頂の社殿が焼失し、大正4年(1915年)に中腹の現在地に再建されました。昭和21年(1946年)1月10日、内務省より由諸などから県社となるべき資格ありと認定されたが、この年の2月2日に社格制度が廃止されています。山上にある本宮(奥の院)が、昭和59年(1984年)2月18日に赤磐市史跡(指定当時は旧吉井町)に指定されました。
看板には、「石上布津魂神社の由来」として、「当社は日本書紀に素盞嗚命が八岐大蛇を退治した剣を奉斎したと記す古社である。延喜式内社であり備前一宮として格式高い神社で、広く全国から参拝される。山頂は磐座で、禁足地である。」と書いてあります。
この地に何故「天十握剣」が眠っていたのか、須佐乃男が持ってきたのか?出雲と吉備関係の結果なのか?そして倭「石上神宮」へ移動させたのはなぜなのか?それぞれの点が線に繋がる時、倭の政権の本質がわかるのだろうか、謎は解けるのかそれとも深まっていくのか、皆さんどう思われますか?
最後に今回のブログの表記に「須佐乃男・素盞嗚尊」又「八俣遠呂智・八岐大蛇」等の名前違いが有りますが、こちらは「記紀」中表記違い、それぞれの神社御由緒の違いからですのでご容赦願います。
いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。はげみになりますので宜しくお願い致します(^人^)
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タイトルで使用した「天十束剣」は、日本三霊剣の一本で、すべての剣の祖とされる剣です。凄まじい破壊力を秘め、使いこなせば一太刀で海を割る事も出来るともいわれ、折れる事や刃毀れする事も有りません。更に、この刀は意思を持っており、自ら持ち主を選ぶといわれます。刀に気に入られた相手でなければ抜く事はおろか、持つ事すら出来ないのです。十握と言うのは、刀身が十握り分、約75.8㎝~78.8㎝程度の長さがあるという事に成ります。
別名が非常に多い剣である事も有名です。 「天羽々斬(あめのはばきり)」(天の羽羽斫、天羽羽斬)、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」十握り分という意味では「十握剣(とつかのつるぎ)」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されています。一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣と考えた方が良いかもしれません。
【「昔話」須佐乃男の八俣大蛇退治!】
むかし、その昔、そのまた古い神代のお話、高天原で悪戯がすぎて、姉の天照大御神に追放処分にされた、建速須佐之男命は、出雲国肥の河(斐伊川)上流の、鳥髪(現奥出雲町鳥上)に降ってきました。
この時、須佐乃男命が河の流れに目をやると、箸が河を流れ下ってきました。須佐乃男命は、その河上に人が居ると考え尋ねて上ってゆくと、おじいさんとおばあさんの二人が美しい娘と一緒に泣いているでは有りませんか。
須佐乃男が「あなた達は誰か?」と問うと、おじいさんは「私は国の神。大山津見神の子で名前を足名椎(あしなづち)、妻の名は手名椎(てなづち)、娘の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)といいます」と答えました。
「どうして泣いているのか?」と訳を聞くと、足名椎は「私には八人の娘がいましたが、高志(越の国)の八俣遠呂智が毎年来て、一人ずつ喰ってしまいました。今年も来る頃なので、悲しくて泣いているのです」と答えました。
その八俣遠呂智とは「どのような形をしているのか?」と尋ねると、「その目は、あかかがち(ほおずき)ように真っ赤で、一つの身に八つの頭と八つの尾があり、体には苔や檜や椙が生え、その長さは八つの峡谷と八つの尾根に渡っています。その腹を見ると、いつも血でただれています」と足名椎は答えました。
「八岐大蛇を退治するから娘を私の妻に貰えないか」と足名椎に問うと、「恐れ多いことですが、あなたの御名を存じません」と答えました。「私は、天照大御神の弟須佐乃男だ。いま高天原から降ってきたところだ」。足名椎と手名椎は畏み「それは恐れ多いことを申しました。娘をさし上げます」と申し奉りました。
須佐乃男命はすぐにを隠すために、櫛名田比賣を櫛に変えて自分の角髪に刺しました。そして足名椎と手名椎とに、「何度も醸した、八鹽折の強い酒を造り、垣根をめぐらし、垣根に八つの門を作り、門毎に八つの桟敷を作り、その桟敷毎に酒船を置き、船ごとに八鹽折の酒を盛って待て」と命じました。
命ぜられたように備えをして待っていと、八俣遠呂智がが本当に現われ来て、八つの頭を酒船ごとに垂らし入れ、その酒を飲み干すと、強い酒に酔いが回り死んだように伏して寝てしまったのです。すかさず須佐乃男命は、十拳剣を抜いて、「大蛇」を切り散らすと、肥の河は「血の河」に変わり流れ下りました。
中の尾を切った時、十拳剣の剣先が欠けたので、怪しいと思い御刀で刺し割って見ると、都牟刈大刀(つむかりのたちは、草薙の剣であり、天叢雲劒でもあります。)が出て来ました。須佐乃男はこの不思議な大刀を、姉の天照大御神に献上しました。この大刀が、天皇の証「三種の神器」の一つ『草那藝之大刀(くさなぎのたち)』なのです。
さてこうして、須佐乃男命は、宮作りの地を出雲国に求めて須賀の地に着くと「この地に来て我が心はすがすがしくなった」と申され宮を作られました。それでこの地を今でも須賀といっています。
須佐乃男命が、初めて須賀の宮を作られたとき、その地より雲が立ち騰ぼりました。そこで歌をつくられました。その歌は、八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣つくるその八重垣を(やくもたついずもやえがきつまごみにやえがきつくるそのやえがきを)ですが。この歌が日本最初の和歌と言われています。
須佐乃男命は足名椎を喚び「我が宮の首」に任じ、「稲田宮主須賀之八耳神」(イナダノミヤヌシ スガノヤツミミノカミ)と名號けました。須佐乃男命は、櫛名田比賣と共に暮らし出雲国の基礎をつくり、子孫の「大國主命」が大八州国を平定し治めました。
【石上布都魂神社を訪れてみた】
(石上布都魂神社奥の院への第一歩です。)
所在地:岡山県赤磐市石上字風呂谷1448に成ります(山の中ですし、奥の宮まで登るのならトレッキングシューズが必要です)。
主祭神は1柱:素盞嗚尊です(明治時代に布都明神から改められました)。
社格:式内社(小)備前国一宮・旧郷社、創建不詳、本殿の様式流造です。
【まずは草薙の剣の行方】
須佐乃男命は、八岐大蛇由来の神剣を高天原の天照大御神に献上しました。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共に邇邇芸命に託され、地上に降臨しました。崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたといわれます。景行天皇の時代、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)は、東征に向かう「倭建命」(古事記)「日本武尊」(日本書紀)に神剣(草薙の剣)を託します。倭建命の死後、草薙剣は神宮に戻ることなく宮簀媛(倭建命の妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けたます。これが熱田神宮の起源となって、現在も同宮の御神体として祀られています。
宮中(天皇の側)に残った、形代の草薙剣は、壇ノ浦合戦(源平合戦)における安徳天皇(第81代天皇)入水により関門海峡に沈み、失われてしまいました。神剣の喪失により、様々な伝説・神話が生まれました(中世神話)。その結果、後鳥羽天皇(第82代天皇)は三種の神器がないまま即位、平氏滅亡により神璽と神鏡は確保できましたが、神剣を手にすることは出来ませんでした。その後、朝廷は伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」とします。南北朝時代、北朝陣営・南朝陣営とも三種神器(神剣を含む)の所持を主張して正統性を争い、この混乱は後小松天皇(第100代天皇)における南北朝合一まで続いたのです(明徳の和約)。現在、神剣(形代)は宮中に祭られています。
【不遜ながら十拳剣(天羽々斬・天十握剣)の方が霊力は上なのでは?】
さて、以前から、申します通りに、大蛇の尻尾から出て来た草薙剣よりも、大蛇を退治した十拳剣の方が霊力では上なのでは?と疑問?を持っているのです。
八俣遠呂智については色々な説が有りますが、「斐伊川が血で染まる」を斐伊川の洪水を静めた須佐乃男と考える方も居られますし。「赤く染まった斐伊川」から砂鉄の存在を示唆する方々も居られます。この場合は草薙剣は鉄剣となり強力な武器と考えても良いかもしれません。更に「越の八俣遠呂智」から越国の攻撃とも考えられますね!浪漫溢れる幾つもの説、皆さんはどの説が正しいと思われますか?
そんな八俣遠呂智を退治した十拳剣、私が不遜にも三種の神器よりも霊力が上だと勝手に考えている。十拳剣が最初に納められたのが、今回の『石上布都魂神社』なのです。どのような、経緯でこちらの神社にもたらされたのかは不明ですが、十拳剣は日本神話に登場する八俣遠呂智を切り裂いた、あの刀剣です。別名「天羽々斬剣」(あめのはばきりのつるぎ)は 、奈良石上神宮では「布都斯魂剣」として祀られています。 別名「天十握剣」(あめのとつかのつるぎ)、 「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)、 「蛇之韓鋤」(をろちのからさひ/おろちのからさび)、 「天蠅斫剣」(あめのははきりのつるぎ/あめのはえきりのつるぎ)等の別名が有ります。
須佐乃男命が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から石上神宮へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとされています。
須佐乃男が八俣遠呂智を退治した時に用いた神剣。 当初は十掌剣/十握剣/天十握剣としか言及されず、古事記と日本書紀本文では固有名詞を与えていません。十掌剣とは「一握り十個分の長さの剣(約75.8㎝~78.8㎝)」という普通名詞の事です。 須佐乃男の十握剣には、八俣遠呂智(八岐大蛇)退治の時に天羽々斬剣と名称がつけられました。日本書紀では複数の別名があ事は説明いたしました。伝承によれば、現在は石上神宮で祀られています。
【十拳剣は幾つも在る?】
三貴子の一柱、須佐之男命(素戔嗚尊)が最初にもっていた十掌剣は、天照大御神(アマテラス)と宇気比(誓約)した際、姉神によって三つに折られて口に含まれ、宗像三女神(多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命)に生まれ変わっています(古事記、日本書紀本文)。
天岩戸隠れを経て高天原を追放された須佐乃男は、新たな剣を持っていた。まず大気都比売神を斬り殺してしまいますが、剣の名称について古事記では言及していません。こちらも十拳剣といえるのかもしれませんね、日本書紀では穀物神の保食命(うけもち神)を斬り殺したのは月読尊(つくよみ)とされています。
「日本書紀」では布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡っています。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていましが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が「石上大神」として石上神宮に祀られています。
現在、石上神宮では天羽々斬剣とされる鉄刀が、布都御魂剣とともに石上神宮本殿内陣に奉安され祭られています。これは明治11年(1878年)の石上神宮の社殿建造のための禁足地発掘の際、出土した全長120cm位の片刃の刀です。本殿内陣には布都御魂剣とこの片刃鉄刀の他に、同じ明治11年の発掘で出土した全長60cm位の両刃の鉄剣も奉安され祭られていますが、片刃鉄刀の方が天羽々斬剣とされています。
一方、岡山の「石上布都魂神社」は布都明神を祀っていたが、明治時代に祭神を素戔嗚尊に改められました。更には鹿島神宮にも、「十握剣」とされる直刀(国宝)が納められています。こちらは国譲り神話で武甕槌が使用した十拳剣ですかね~。
【石上布都魂神社奥の宮を訪れよう】
本宮(奥の院)、石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)は、明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていた。明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれています。
上述の十握剣を祀ったのが当社の創始と伝えられる。この剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、このことは石上神宮の社伝にも記されています。『延喜式神名帳』では小社に列し、備前国総社神名帳では128社中2位に正二位布都魂神社と記載されている。寛文9年(1669年)、岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興しました。次代綱政は延宝2年(1674年)社領20石を寄進し、宝永7年(1710年)に社殿・神楽殿を造営します。その後も歴代の藩主の崇敬を受けました。
明治6年(1873年)に郷社に列した。祭神を素盞嗚尊に変更したのはこのときと考えられます。明治40年(1907年)、大火で山頂の社殿が焼失し、大正4年(1915年)に中腹の現在地に再建されました。昭和21年(1946年)1月10日、内務省より由諸などから県社となるべき資格ありと認定されたが、この年の2月2日に社格制度が廃止されています。山上にある本宮(奥の院)が、昭和59年(1984年)2月18日に赤磐市史跡(指定当時は旧吉井町)に指定されました。
看板には、「石上布津魂神社の由来」として、「当社は日本書紀に素盞嗚命が八岐大蛇を退治した剣を奉斎したと記す古社である。延喜式内社であり備前一宮として格式高い神社で、広く全国から参拝される。山頂は磐座で、禁足地である。」と書いてあります。
この地に何故「天十握剣」が眠っていたのか、須佐乃男が持ってきたのか?出雲と吉備関係の結果なのか?そして倭「石上神宮」へ移動させたのはなぜなのか?それぞれの点が線に繋がる時、倭の政権の本質がわかるのだろうか、謎は解けるのかそれとも深まっていくのか、皆さんどう思われますか?
最後に今回のブログの表記に「須佐乃男・素盞嗚尊」又「八俣遠呂智・八岐大蛇」等の名前違いが有りますが、こちらは「記紀」中表記違い、それぞれの神社御由緒の違いからですのでご容赦願います。
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