七世紀の土木・建築技術に驚愕!「東山古墳群」
今日は、兵庫県多可町の古墳群をご紹介します。時代が進み七世紀に成ると地方豪族の建築技術も飛躍的に進み、高い技術で作られた円墳が出現します。
兵庫県多可町の妙見山(標高693メートル)の山麓、平野部を見晴らせる位置に、こんもりとした円墳がいくつも並びます。美しい公園として整備された一帯は、直ぐ東隣(本当にお隣さんです)の多可高校の生徒らの下校途中のおしゃべりの場に成ったり、登山客が一息ついたりの、のんびりとした光景が広がっています。
その見本ともいえる古墳群が多可町の「兵庫県指定文化財)東山古墳群」です。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。



【東山古墳群概要】
7世紀、古墳時代の終わり頃に築かれた円墳が16基、これほどまとまって存在する古墳群は珍しいようです。この時代において直径15~30メートルは県内で最も大きいといいます。辺りには200基ほどの古墳が見つかっており、この東山古墳群の存在は古くから知られていましたが、1996~1999年の発掘調査で詳細が判明しました。
兵庫県内でも最大の横穴式石室を持つ古墳や巨石を用いた石室を持つ古墳が多く、当時のこの地の豪族の力がうかがえます。現在、残っている古墳は16基で、北群の4基は直径15m前後の円墳、南群の12基は直径15~30mの円墳でバラエティーに富んだ古墳群です。

(破壊された9号古墳、両袖式の横穴式石室石室下部のみ復元、奥に見えるのは12号墳と14号墳から移動してきた天井石。)
古墳の造りは当時最新の土木技術が用いられています。横穴式石室は1500年間近くも崩れない造りで、現在の技術でも難しいほどだそうです。内部は長さ10m、高さ2~3mと広々としています。夏は涼しく冬は暖かい事もあって、江戸時代には古墳としての存在を忘れられていたのか?何者かが居住した形跡も有りました。江戸時代の一朱銀や一文銭が見つかっています。
12号墳の石室には、特殊な形をした長さ140cm×幅45cmで、12本の脚と切妻風の屋根を模した家形陶棺がありとても珍しいです。その他にも土器・馬具・装身具・などが出土しています。
中央政権との関係性もうかがえ、現在の多可町・西脇市の一帯を治めていた豪族が所有していた可能性が強いようです。
播磨風土記にも名前を残す多可のこの地が、加古川流域最古の寺院「多可寺」や古代の役所とみられる「思い出遺跡」などに続く歴史の流れの原点ではないかと感じました。
【多哥寺とは?】
量興寺(多哥寺遺跡) 650年頃に推古天皇の勅願寺として建立されたと伝えられる多哥寺の後身です。平安末期に藤原顕頼が再興し、高倉天皇の母君の寺として寺格が高まり、量興寺となりました。
これまでの調査で、南大門、塔、金堂、回廊、鐘楼、参道が確認されており、多哥寺が播磨地域で最古級の寺で、多可郡の中心となり郡を代表する寺院であったことがはっきりしました。東西64㍍、南北約80㍍の大きな規模を持ち、四天王寺と同様の伽藍配置の寺院だったことが判明しています。
12世紀には九篠家の荘園となって、僧房や食堂はとりこわされて水田になりました。現在、多哥寺跡に立つ量興寺には、巨大な塔心礎が残り、出土した瓦から、播磨地方でも最古の寺院のひとつに数えられています。また、梵鐘鋳造の遺構は奈良時代のもので、町の指定文化財に指定されています。
【最後に残念!】
見学してきたのは、南群の12基でしたが北の4基は妙見山参道沿いの林の中に埋もれているのかもしれません。ちなみに知らなかったのですが、那珂ふれあい館の開館時間に申し出ればいくつかの古墳石室内部見学できます。是非休館日等確認してお出かけください。
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兵庫県多可町の妙見山(標高693メートル)の山麓、平野部を見晴らせる位置に、こんもりとした円墳がいくつも並びます。美しい公園として整備された一帯は、直ぐ東隣(本当にお隣さんです)の多可高校の生徒らの下校途中のおしゃべりの場に成ったり、登山客が一息ついたりの、のんびりとした光景が広がっています。
(15号墳の前から古墳群、奥の小高い緑が1号墳、右に多可高校校舎、後ろの山が妙見山です。)
その見本ともいえる古墳群が多可町の「兵庫県指定文化財)東山古墳群」です。
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【東山古墳群概要】
7世紀、古墳時代の終わり頃に築かれた円墳が16基、これほどまとまって存在する古墳群は珍しいようです。この時代において直径15~30メートルは県内で最も大きいといいます。辺りには200基ほどの古墳が見つかっており、この東山古墳群の存在は古くから知られていましたが、1996~1999年の発掘調査で詳細が判明しました。
兵庫県内でも最大の横穴式石室を持つ古墳や巨石を用いた石室を持つ古墳が多く、当時のこの地の豪族の力がうかがえます。現在、残っている古墳は16基で、北群の4基は直径15m前後の円墳、南群の12基は直径15~30mの円墳でバラエティーに富んだ古墳群です。

(破壊された9号古墳、両袖式の横穴式石室石室下部のみ復元、奥に見えるのは12号墳と14号墳から移動してきた天井石。)
古墳の造りは当時最新の土木技術が用いられています。横穴式石室は1500年間近くも崩れない造りで、現在の技術でも難しいほどだそうです。内部は長さ10m、高さ2~3mと広々としています。夏は涼しく冬は暖かい事もあって、江戸時代には古墳としての存在を忘れられていたのか?何者かが居住した形跡も有りました。江戸時代の一朱銀や一文銭が見つかっています。
12号墳の石室には、特殊な形をした長さ140cm×幅45cmで、12本の脚と切妻風の屋根を模した家形陶棺がありとても珍しいです。その他にも土器・馬具・装身具・などが出土しています。
中央政権との関係性もうかがえ、現在の多可町・西脇市の一帯を治めていた豪族が所有していた可能性が強いようです。
播磨風土記にも名前を残す多可のこの地が、加古川流域最古の寺院「多可寺」や古代の役所とみられる「思い出遺跡」などに続く歴史の流れの原点ではないかと感じました。
【多哥寺とは?】
量興寺(多哥寺遺跡) 650年頃に推古天皇の勅願寺として建立されたと伝えられる多哥寺の後身です。平安末期に藤原顕頼が再興し、高倉天皇の母君の寺として寺格が高まり、量興寺となりました。
これまでの調査で、南大門、塔、金堂、回廊、鐘楼、参道が確認されており、多哥寺が播磨地域で最古級の寺で、多可郡の中心となり郡を代表する寺院であったことがはっきりしました。東西64㍍、南北約80㍍の大きな規模を持ち、四天王寺と同様の伽藍配置の寺院だったことが判明しています。
12世紀には九篠家の荘園となって、僧房や食堂はとりこわされて水田になりました。現在、多哥寺跡に立つ量興寺には、巨大な塔心礎が残り、出土した瓦から、播磨地方でも最古の寺院のひとつに数えられています。また、梵鐘鋳造の遺構は奈良時代のもので、町の指定文化財に指定されています。
【最後に残念!】
見学してきたのは、南群の12基でしたが北の4基は妙見山参道沿いの林の中に埋もれているのかもしれません。ちなみに知らなかったのですが、那珂ふれあい館の開館時間に申し出ればいくつかの古墳石室内部見学できます。是非休館日等確認してお出かけください。
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