本当に眠るのは「卑弥呼」なのか?纒向遺跡最後を飾る『箸墓古墳』
今回の取材旅行のもうひとつの目的のひとつでした纒向古墳群のトリを勤めるのは、卑弥呼の墓ではないか?ともいわれる「箸墓古墳」です。
宮内庁は、「倭迹迹日百襲姫命」墳墓と治定しています。不遜な意見を承知で言わせて頂けましたら、「調べさせてください」m(__)m。
『箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳)』は、奈良県桜井市箸中にある三世紀最大の前方後円墳です。
【箸墓古墳(箸中山古墳データ)】
墳丘全景(右に前方部、左に後円部)
別名:箸中山古墳
所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市箸中
形状:前方後円墳
規模:墳丘長278m高さ30m
築造年代:3世紀中頃
被葬者:(宮内庁治定)倭迹迹日百襲姫・(推定)卑弥呼
出土品:特殊器台形埴輪・壷形埴輪
指定文化財:宮内庁治定「大市墓」国の史跡「箸墓古墳周濠」
特記事項:全国第11位/奈良県第3位の規模、全国最古級の前方後円墳、『日本書紀』崇神天皇紀に記述
【箸墓古墳概要】
実際の被葬者は明らかでは有りませんが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されています。また周濠が国の史跡に指定されているほか、周濠の一部は「箸中大池」としてため池百選(此は知らなかった、(((^^;))の1つに選定されています。
纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳(最後に造られた全ての纒向古墳の集大成)で、古墳出現期の3世紀中の古墳でも最古級と考えられている、大型前方後円墳です。
この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もあります。以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼が死亡したとされる3世紀前半(248年)との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきました。しかし、1980年代以降の新しい考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説も出てきました。
現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されています(残念)。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では10代崇神天皇の祖父8代孝元天皇の姉妹になります。大市(纒向遺跡の出土品から市場の存在)は古墳のある地名です。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と記載されています。
【何故箸墓なのか?名の由来】
『日本書紀』崇神天皇19月の条に、つぎのような説話が載せられています。一般に「三輪山伝説」と呼ばれているものです。原文は難解なので完全現代語訳でお贈りいたします。
倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となりますが、大物主神は昼には来ないで夜だけに来るので、百襲姫はその顔を見ることができませんでした。そこで百襲姫が大物主神にその姿を見たいと話しますと、大物主神は「明日の朝、あなたの櫛の箱に入っているから驚かないように」と話します。夜が明けて、百襲姫が櫛の箱の中を見ると、そこには美しい小蛇がいました。百襲姫が驚いて叫ぶと大物主神は恥じて人の形になって、御諸山に登ってい行きました。百襲姫はこれを悔いて、箸で陰を撞いて亡くなってしまいます。そこで大市に墓をつくり葬りました。この話から、百襲姫の墓を名づけて箸墓と呼ぶように成りました(完全簡易現代語訳)。
なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀か)と説話の作成された時期とに大きなずれがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になったという土橋寛氏の説もあるようです。
【墳形と規模】
最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形です。測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていたことが分かる。前方部の先が撥型に開いている他の古墳は、兵庫県揖保川町の養久山(やくやま)1号墳、同県の権現山51号墳、京都府山城町の椿井大塚山古墳、岡山市の浦間茶臼山古墳などがあります(自宅から其ほど遠くないので又出かけます)。ちなみに浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の2分の1の相似形といわれ、長さも幅も2分の1であるが前方部の頂の形は横長の長方形と台形の違いがあるようです。
現状での規模は墳長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートルを測る。その体積は約37万立方メートル。周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかった可能性もあります。
後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる、つまりは五段築成!)が載ったものと指摘する研究者も居られるようです。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされます。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。被葬者の格付けを表しているのかも知れません。
奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していた可能性の在ることがわかりました。巨大な前方後円墳がその最古の時期から周壕を持っていた可能性があります。
【外表施設・遺物について】
前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されています。
この時期には埴輪列はまだ存在していませんが、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違い在りません。また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高いと考えられます。特殊器台や特殊壺などの出土から古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられています。
埋葬施設は不明であるが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるといわえます。この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明しています。従って、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではありません。
周濠は前方部と後円部の一部分の発掘調査から、幅10メートル前後の周濠と、幅数10メートル前後の外堤の一部が見つかっています。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺き石を積み上げた渡り土手も見つかっています。
【築造時期は何時?】
墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎氏らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていましたたが、陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が多量に出土しました。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は280~300年(±10~20年)と推定しています。しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀中頃のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えません。また炭化物による年代推定には通常数十年から百年程度の誤差があり、3世紀後半と断定できるほどの精度は今のところありません(微妙ですね)。
研究者の年代観によって造営年代は若干の異同があります。広瀬和雄氏はその時期を3世紀中ごろと考え、白石太一郎氏は3世紀中葉過ぎ、寺沢薫氏は260~280年頃、石野博信氏は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとしていいます。
これだけの大きさの古墳を作るのにブルトーザー等の機械も使わずに没後40年の中に4つの説がなんて?私には同じ時期ではいけないのと思ってしまうのですがね~(笑)
【箸墓古墳の意義】
墳丘の全長約280メートル、後円部の高さ約30メートルで自然にできた小山と錯覚するほどの規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点などそれまでの墳墓とは明らかに一線を画しています。また規模、埴輪などは以後の古墳のモデルとなったと考えられ箸墓古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多いのもうなずけますね。
【被葬者は誰だ!】
勿論誰もが知りたいこの質問ですが、宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されています。
しかしながら、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者も多く存在します。その根拠ですが、この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩(径約150メートル)」にほぼ一致すること、後円部にある段築構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること、大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること、などが挙げられていますが、現時点では正確なことは分かりません(じれったいです)。
大きさについては、魏・晋時代の一里は300歩で魏・晋時代の1里は435.6メートル、1歩はほぼ145センチメートルとなり100余歩は約145メートル強となります。一方、魏志倭人伝で短里(76-77m)が採用されているとすれば、1歩は約25cmとなり100余歩で約30mほどとなり、大きさが違います。さらに魏志倭人伝ではそもそも塚の大きさが直径で表されていたので円墳であり前方後円墳でなかったとする意見もあります。
また、前方後円墳は、もともと円墳の回りの周堤の無い部分で祭祀が行われており、この部分が拡大して方墳となった説が有力で、箸墓古墳が前方後円墳のごく初期の古墳とすれば、あとで方墳を追加するのは不自然かもしれませんね。
白石太一郎氏は「卑弥呼の墓であっても不思議ではない」と述べるのに対し、石野博信氏は台与(壹与)の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫氏は壹与(台与)の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓である可能性もある言われています(「寿陵」とは君主たちが生前にあらかじめ造っておく陵墓の事で、中国では始皇陵が有名ですね)。
いずれにせよ、箸墓古墳が卑弥呼の墓のある可能性については奈良県立橿原考古学研究所などの限られた施設からの発信で、考古学的には定説とは言えません(残念)。現在(2009年位からですか?)ようやく発掘許可(完全な物では在りませんし少しずつです)がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりです。
最後に一言!もし箸墓古墳を調査して、「親魏倭王」の金印と一緒に100枚の銅鏡が枕元から見つかれば、子供たちは歴史の授業で卑弥呼という人物を覚えることは無くなるに違いありません。「倭迹迹日百襲姫」という難しい漢字を覚えなければならなく成りますが、少なくとも中国人が「姫巫女」「姫詔」を聞き違えたと思われる、卑弥呼という女性は日本史からいなくなります。(卑弥呼)と魏では間違って呼ばれたの注釈が付くようになるでしょう。
その上、欠史八代といわれる第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの8人の天皇とその時代を指す実在説も同時に証明されることに成り日本の古代史が一度に解明されるという歴史ファンにはたまらない事が起きると思います(クーラー点けてるのに汗が出てきた、笑)。
いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
「三年のご愛顧感謝します」新規ブログが始まりました。
癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる
99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」
~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~
宮内庁は、「倭迹迹日百襲姫命」墳墓と治定しています。不遜な意見を承知で言わせて頂けましたら、「調べさせてください」m(__)m。
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【箸墓古墳(箸中山古墳データ)】
墳丘全景(右に前方部、左に後円部)
別名:箸中山古墳
所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市箸中
形状:前方後円墳
規模:墳丘長278m高さ30m
築造年代:3世紀中頃
被葬者:(宮内庁治定)倭迹迹日百襲姫・(推定)卑弥呼
出土品:特殊器台形埴輪・壷形埴輪
指定文化財:宮内庁治定「大市墓」国の史跡「箸墓古墳周濠」
特記事項:全国第11位/奈良県第3位の規模、全国最古級の前方後円墳、『日本書紀』崇神天皇紀に記述
【箸墓古墳概要】
実際の被葬者は明らかでは有りませんが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されています。また周濠が国の史跡に指定されているほか、周濠の一部は「箸中大池」としてため池百選(此は知らなかった、(((^^;))の1つに選定されています。
纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳(最後に造られた全ての纒向古墳の集大成)で、古墳出現期の3世紀中の古墳でも最古級と考えられている、大型前方後円墳です。
この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もあります。以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼が死亡したとされる3世紀前半(248年)との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきました。しかし、1980年代以降の新しい考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説も出てきました。
現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されています(残念)。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では10代崇神天皇の祖父8代孝元天皇の姉妹になります。大市(纒向遺跡の出土品から市場の存在)は古墳のある地名です。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と記載されています。
【何故箸墓なのか?名の由来】
『日本書紀』崇神天皇19月の条に、つぎのような説話が載せられています。一般に「三輪山伝説」と呼ばれているものです。原文は難解なので完全現代語訳でお贈りいたします。
倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となりますが、大物主神は昼には来ないで夜だけに来るので、百襲姫はその顔を見ることができませんでした。そこで百襲姫が大物主神にその姿を見たいと話しますと、大物主神は「明日の朝、あなたの櫛の箱に入っているから驚かないように」と話します。夜が明けて、百襲姫が櫛の箱の中を見ると、そこには美しい小蛇がいました。百襲姫が驚いて叫ぶと大物主神は恥じて人の形になって、御諸山に登ってい行きました。百襲姫はこれを悔いて、箸で陰を撞いて亡くなってしまいます。そこで大市に墓をつくり葬りました。この話から、百襲姫の墓を名づけて箸墓と呼ぶように成りました(完全簡易現代語訳)。
なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀か)と説話の作成された時期とに大きなずれがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になったという土橋寛氏の説もあるようです。
【墳形と規模】
最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形です。測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていたことが分かる。前方部の先が撥型に開いている他の古墳は、兵庫県揖保川町の養久山(やくやま)1号墳、同県の権現山51号墳、京都府山城町の椿井大塚山古墳、岡山市の浦間茶臼山古墳などがあります(自宅から其ほど遠くないので又出かけます)。ちなみに浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の2分の1の相似形といわれ、長さも幅も2分の1であるが前方部の頂の形は横長の長方形と台形の違いがあるようです。
現状での規模は墳長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートルを測る。その体積は約37万立方メートル。周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかった可能性もあります。
後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる、つまりは五段築成!)が載ったものと指摘する研究者も居られるようです。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされます。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。被葬者の格付けを表しているのかも知れません。
奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していた可能性の在ることがわかりました。巨大な前方後円墳がその最古の時期から周壕を持っていた可能性があります。
【外表施設・遺物について】
前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されています。
この時期には埴輪列はまだ存在していませんが、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違い在りません。また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高いと考えられます。特殊器台や特殊壺などの出土から古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられています。
埋葬施設は不明であるが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるといわえます。この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明しています。従って、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではありません。
周濠は前方部と後円部の一部分の発掘調査から、幅10メートル前後の周濠と、幅数10メートル前後の外堤の一部が見つかっています。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺き石を積み上げた渡り土手も見つかっています。
【築造時期は何時?】
墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎氏らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていましたたが、陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が多量に出土しました。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は280~300年(±10~20年)と推定しています。しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀中頃のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えません。また炭化物による年代推定には通常数十年から百年程度の誤差があり、3世紀後半と断定できるほどの精度は今のところありません(微妙ですね)。
研究者の年代観によって造営年代は若干の異同があります。広瀬和雄氏はその時期を3世紀中ごろと考え、白石太一郎氏は3世紀中葉過ぎ、寺沢薫氏は260~280年頃、石野博信氏は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとしていいます。
これだけの大きさの古墳を作るのにブルトーザー等の機械も使わずに没後40年の中に4つの説がなんて?私には同じ時期ではいけないのと思ってしまうのですがね~(笑)
【箸墓古墳の意義】
墳丘の全長約280メートル、後円部の高さ約30メートルで自然にできた小山と錯覚するほどの規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点などそれまでの墳墓とは明らかに一線を画しています。また規模、埴輪などは以後の古墳のモデルとなったと考えられ箸墓古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多いのもうなずけますね。
【被葬者は誰だ!】
勿論誰もが知りたいこの質問ですが、宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されています。
しかしながら、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者も多く存在します。その根拠ですが、この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩(径約150メートル)」にほぼ一致すること、後円部にある段築構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること、大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること、などが挙げられていますが、現時点では正確なことは分かりません(じれったいです)。
大きさについては、魏・晋時代の一里は300歩で魏・晋時代の1里は435.6メートル、1歩はほぼ145センチメートルとなり100余歩は約145メートル強となります。一方、魏志倭人伝で短里(76-77m)が採用されているとすれば、1歩は約25cmとなり100余歩で約30mほどとなり、大きさが違います。さらに魏志倭人伝ではそもそも塚の大きさが直径で表されていたので円墳であり前方後円墳でなかったとする意見もあります。
また、前方後円墳は、もともと円墳の回りの周堤の無い部分で祭祀が行われており、この部分が拡大して方墳となった説が有力で、箸墓古墳が前方後円墳のごく初期の古墳とすれば、あとで方墳を追加するのは不自然かもしれませんね。
白石太一郎氏は「卑弥呼の墓であっても不思議ではない」と述べるのに対し、石野博信氏は台与(壹与)の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫氏は壹与(台与)の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓である可能性もある言われています(「寿陵」とは君主たちが生前にあらかじめ造っておく陵墓の事で、中国では始皇陵が有名ですね)。
いずれにせよ、箸墓古墳が卑弥呼の墓のある可能性については奈良県立橿原考古学研究所などの限られた施設からの発信で、考古学的には定説とは言えません(残念)。現在(2009年位からですか?)ようやく発掘許可(完全な物では在りませんし少しずつです)がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりです。
最後に一言!もし箸墓古墳を調査して、「親魏倭王」の金印と一緒に100枚の銅鏡が枕元から見つかれば、子供たちは歴史の授業で卑弥呼という人物を覚えることは無くなるに違いありません。「倭迹迹日百襲姫」という難しい漢字を覚えなければならなく成りますが、少なくとも中国人が「姫巫女」「姫詔」を聞き違えたと思われる、卑弥呼という女性は日本史からいなくなります。(卑弥呼)と魏では間違って呼ばれたの注釈が付くようになるでしょう。
その上、欠史八代といわれる第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの8人の天皇とその時代を指す実在説も同時に証明されることに成り日本の古代史が一度に解明されるという歴史ファンにはたまらない事が起きると思います(クーラー点けてるのに汗が出てきた、笑)。
いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!
「三年のご愛顧感謝します」新規ブログが始まりました。
癒しとストレス解消の遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣巡り、きっとあなたは日本が好きになる
99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」
~縄文・弥生時代から近現代まで、日本の歴史と文化の旅に神様目線で旅立とう~
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