えっ!鳥居だけ?日本人が持ちうる神への畏怖の具現化『檜原神社』
今日は朝から、自宅のある兵庫県は知事選挙が有り、18歳に成った長女に一度はしっかりと国民(県民)の責任を教えなければならないと考え、妻・長女と選挙に行ってきました。
実は、今回近代史をタブー視していた私が、長女の参政を期に政治を監視する国民の責任と共に、少し近代史にも触れてみようと思っていました。
兵庫県の初代知事はあの伊藤博文です。初代内閣総理大臣、初代韓国統監を歴任し、1909年暗殺された事なども少しお話しようと考えていました。
知事公邸の写真と共に「兵庫県知事選と初代知事伊藤博文(予)」の題名でブログをUPしようと考えておりましたが、知事公邸公開、日曜日は開いておりませんでした~(;^_^A。(昨日行っとけよ!そのために一日ずらしたのに)
そこで、前回ホケノ山古墳で話題にした、第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性、「豊鍬入姫命」が最初に奉遷した倭の笠縫の邑とも伝わる「檜原神社」をご紹介いたします。
けして代打ではありません(;^_^A 、私約20テーマほどのブログを同時に書いておりまして、完成した物からUPしております関係上時代が飛んだり場所が飛んだりするのです。お許しください。
さて、三輪山の西北の山裾に鎮座する「檜原神社(ひばらじんじゃ)」です。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。



祭神は天照大神の若御魂の神と両親伊弉諾尊・伊弉册尊です。
伊勢神宮の前に「天照大神」が奉られていた「元伊勢」の地に成ります(元伊勢特集もまたいつか行わなければなりませんね)。
三輪特有の「三つ鳥居」のみといってよい神社です(拝殿・本殿は在りません)。
【どのような経緯で檜原神社は「元伊勢」と呼ばれるのか?】
『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、国中に疫病が流行り多くの人民が死に絶える事態が起き、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の二神を宮中にて人と同じ場所でお祀りしている事に有ると考え、「天照大神」を皇女豊鍬入姫命に勅して倭の笠縫の邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に磯堅城の神籬を立て、「倭大国魂神」を皇女渟名城入姫命に勅して「大和神社」に奉遷したと伝えられています。
同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託されます。その後、倭姫命は天照大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、90年後垂仁天皇26年(657年)、最後に伊勢の五十鈴川の上流にて御鎮まりになられ、これが伊勢神宮の創祀と云われています(伊勢神宮起源譚)。
『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されています(本当に簡潔)。
宮中から遷された最初の地は「倭の笠縫の邑」と記されていますが、「倭の笠縫の邑」として推測されるいくつかの候補地の中で一番有力視されているのが、ここ檜原神社です。
大神神社から狭井神社を抜け、幾重にも重なりあう「山野辺の道を」風景を楽しみながら歩く事30分程度でしょうか?、檜原神社に到着します(私は反対側から車で行きました。道が細くてじゃり道の悪路ですが、駐車場もあります)。
境内への入り口には、注連縄が張られた二本の柱、注連縄柱と呼ばれているみたいですが、鳥居の原型かも知れません。
注連縄柱の先に広がる檜原神社の境内には、一面真っ白な玉砂利が敷き詰められています。
【三輪特有の「三つ鳥居」】
「三つ鳥居」は三輪特有の鳥居です(奈良の三輪そうめんの包み紙にも大神神社の三つ鳥居がデザインされています)。
「三つ鳥居」は一般的な鳥居とは大きく異なり、三本の鳥居を組み合わせた、他では見られない独特の形をした造りです。
神殿も拝殿もなく、この鳥居を通して三輪山を拝するという、日本人が持ちうる神への畏怖の具現化の場がそこにはありました。
鳥居から先は神域となっており、人が足を踏み入れる事は出来ません。「三つ鳥居」の前に立つと、この形が神社原点の姿では無いのだろうかと考えさせられます。
私は、霊力などはあまり信じる方ではありませんが、三輪山から流れ出る土地そのもののエネルギーが龍脈のように「三つ鳥居」から飛び出して、奈良盆地へ噴き出すようなそんなイメージを受けました。
檜原神社は、人が造り上げた社殿や拝殿が存在しない分、神との対面がストレートにできる場所だと感じます。
大神神社は男神の力強いパワーを感じるましたが、檜原神社は女神のやさしさに包まれるひと時を過ごした気がします(奈良の当日の暑さは、女神様にしては鞭が強いな~と涙しましたが、笑)。
三つ鳥居の左手には、天照大神の神霊を崇神天皇から託された豊鍬入姫命の御霊を奉る宮が建てられています。
檜原神社は大神神社の摂社とされていて、大神神社と比べて参拝する人の数は少ないですが。
大神神社にお詣りされましたなら、是非檜原神社にも足を延ばされることをお勧めします。
さて元伊勢90年の変節という大きなテーマが宿題として残されました。勉強不足の私ですが、ブログをつづるという行為は本当に勉強に成ると共に、「自分自身の人生のテーマを探し出す」という大きな仕事に思えてきた近頃の市郎右衛門です。
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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実は、今回近代史をタブー視していた私が、長女の参政を期に政治を監視する国民の責任と共に、少し近代史にも触れてみようと思っていました。
兵庫県の初代知事はあの伊藤博文です。初代内閣総理大臣、初代韓国統監を歴任し、1909年暗殺された事なども少しお話しようと考えていました。
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【檜原神社ってどんな神社なの?】
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三輪特有の「三つ鳥居」のみといってよい神社です(拝殿・本殿は在りません)。
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『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、国中に疫病が流行り多くの人民が死に絶える事態が起き、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の二神を宮中にて人と同じ場所でお祀りしている事に有ると考え、「天照大神」を皇女豊鍬入姫命に勅して倭の笠縫の邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に磯堅城の神籬を立て、「倭大国魂神」を皇女渟名城入姫命に勅して「大和神社」に奉遷したと伝えられています。
同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託されます。その後、倭姫命は天照大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、90年後垂仁天皇26年(657年)、最後に伊勢の五十鈴川の上流にて御鎮まりになられ、これが伊勢神宮の創祀と云われています(伊勢神宮起源譚)。
『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されています(本当に簡潔)。
宮中から遷された最初の地は「倭の笠縫の邑」と記されていますが、「倭の笠縫の邑」として推測されるいくつかの候補地の中で一番有力視されているのが、ここ檜原神社です。
大神神社から狭井神社を抜け、幾重にも重なりあう「山野辺の道を」風景を楽しみながら歩く事30分程度でしょうか?、檜原神社に到着します(私は反対側から車で行きました。道が細くてじゃり道の悪路ですが、駐車場もあります)。
境内への入り口には、注連縄が張られた二本の柱、注連縄柱と呼ばれているみたいですが、鳥居の原型かも知れません。
注連縄柱の先に広がる檜原神社の境内には、一面真っ白な玉砂利が敷き詰められています。
【三輪特有の「三つ鳥居」】
「三つ鳥居」は三輪特有の鳥居です(奈良の三輪そうめんの包み紙にも大神神社の三つ鳥居がデザインされています)。
「三つ鳥居」は一般的な鳥居とは大きく異なり、三本の鳥居を組み合わせた、他では見られない独特の形をした造りです。
神殿も拝殿もなく、この鳥居を通して三輪山を拝するという、日本人が持ちうる神への畏怖の具現化の場がそこにはありました。
鳥居から先は神域となっており、人が足を踏み入れる事は出来ません。「三つ鳥居」の前に立つと、この形が神社原点の姿では無いのだろうかと考えさせられます。
私は、霊力などはあまり信じる方ではありませんが、三輪山から流れ出る土地そのもののエネルギーが龍脈のように「三つ鳥居」から飛び出して、奈良盆地へ噴き出すようなそんなイメージを受けました。
檜原神社は、人が造り上げた社殿や拝殿が存在しない分、神との対面がストレートにできる場所だと感じます。
大神神社は男神の力強いパワーを感じるましたが、檜原神社は女神のやさしさに包まれるひと時を過ごした気がします(奈良の当日の暑さは、女神様にしては鞭が強いな~と涙しましたが、笑)。
三つ鳥居の左手には、天照大神の神霊を崇神天皇から託された豊鍬入姫命の御霊を奉る宮が建てられています。
檜原神社は大神神社の摂社とされていて、大神神社と比べて参拝する人の数は少ないですが。
大神神社にお詣りされましたなら、是非檜原神社にも足を延ばされることをお勧めします。
さて元伊勢90年の変節という大きなテーマが宿題として残されました。勉強不足の私ですが、ブログをつづるという行為は本当に勉強に成ると共に、「自分自身の人生のテーマを探し出す」という大きな仕事に思えてきた近頃の市郎右衛門です。
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