「こいこい」恋しい青空 『教王護国寺の柳と蛙のお話』 - 「高天原の縁側日記」
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2017/06/25

「こいこい」恋しい青空 『教王護国寺の柳と蛙のお話』

皆さん梅雨ですね~!流石に雨の日は古墳も一休みしてカウチポテトを楽しみましょうか(笑)。
雨が気にならない方なら、この時期は紫陽花や苔の綺麗な寺院などに出かけると良いのでしょうが。

私、実は出不精なんです(どれだけ出かけとんねん!と怒られるかもしれませんが(;^_^A)。
今日はブログを書き続ける自分への自戒も込めてこちらのお話をご紹介します。
皆さんもこちらの絵はご存知ですよね(そう「こいこい・花札」の蛙に小野道風ですね)。


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(花札の柳に飛びつく蛙と小野道風です)

この絵柄の人物誰だか知っておられましたか?
小野道風さんといわれる公卿さんです。
その公卿さんと、蛙の関係は?そして「教王護国寺」てどこ?

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログ「梅雨時」をお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。
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【教王護国寺てどこのお寺】



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(東寺なんです。弘法市の早朝の南大門!)
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(たぶん今日あたりこんな風景が見られているはずです。)
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(たまらない絶景!右に見えているのが問題の柳なのです。)


教王護国寺は京都の東寺の事です。
正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称があります。
宗教法人としての登録名は「教王護国寺」というのですね~!
奈良時代の各国にできた国分寺・国分尼寺の正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と言います。
「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」、まさしく同じですね~平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えました(役割は国分寺と同じなんですよね)。

東寺の場所、意外と西に在ると思われませんか(JR京都駅よりも西です)?
東寺が在るのですから西寺も在ったはずですよね~?、そして真ん中に朱雀大道が在ったと考えると、御所の位置がずれているのがお判りでしょうか?平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いに在りました。
現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つ、土御門東洞院殿なんです。

土御門東洞院殿は、南北朝時代(14世紀半ば)元弘元年(元徳3年・1331年)、後醍醐天皇が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がこれを里内裏として使用したことから、北朝側の内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となりました。

もうわかりますよね~そう、この花札の柳が、東寺の中に残っているんです。

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(特別公開日の五重塔、歴史好きにはたまりません!)
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(中にも入れるのです~ウキッキ~!!!!)

【小野 道風さんはどんな人物?】

小野 道風(おのの みちかぜ/とうふう)は、平安時代の貴族で能書家(書道家)です。
参議であった小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子です(知らないですよね~私も知りませんでした)。
藤原純友討伐に功を成した公卿の小野好古は実兄で(官位は正四位下・内蔵頭)、「三蹟」の一人です。

時代:平安時代前期~中期
生誕:寛平6年(894年)死没康保3年12月27日(967年2月9日)
官位:正四位下・内蔵頭
主君:醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇
氏族:小野氏
父:小野葛絃
兄弟:好古、
道風子:奉時、長範、奉忠、奉明、公時(一説には小野小町の従弟)

平安時代前期、10世紀に活動した能書家で、それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されています。
後に、藤原佐理と藤原行成と合わせ、「三蹟」と称されています。

『因みに三筆とは』
書道が上手な御三人ですが、三筆(さんぴつ)とは、日本の書道史上の能書のうちで最も優れた3人の並称で、平安時代初期の空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人を嚆矢(始まり)と言われます(三蹟と三筆を比べるのはやめときましょう)。

道風は中務省に属する少内記という役職にあり、宮中で用いる屏風に文字を書いたり、公文書の清書をしたりするのがその職務でした。
能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされました。
『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っています。
没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っています。

「小野道風神社」小野神社(滋賀県)祭神は小野道風(おののとうふう)(894-966)。
道風は小野篁(おののたかむら)の孫(甥という説もある)にあたる人物です。

一方で気性が激しく、「空海筆の額を批判した」などという不評も同時に伝わっており、晩年は健康を壊し、随分苦しんだといわれています。

【小野道風と蛙】

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(これがその伝柳です。宝蔵の周りを囲む堀の前に在ります。)
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(歌舞伎の物語はかなり複雑になっています。千年経ったとは思えません(;^_^A)

道風が、自分の才能のなさに自己嫌悪に陥り、書道をやめようかと真剣に悩む程落ち込んでいた時のこと。
ある雨の日散歩に(東寺ですね)出かけていて、柳に蛙が飛びつこうと、何度も挑戦している姿を見て「蛙はバカだ、いくら飛んでもあれほどの高さの柳に飛びつけるわけない」と馬鹿にしていた時、偶然にも強い風が吹き、柳がしなり、見事に飛び移ることが出来ました。
これを見た道風は「馬鹿は自分の方だ、蛙は一生懸命努力をして偶然を自分の味方としたのに、自分はまだまだ努力が足りないではないか」と目が覚め、血を滲むほどの努力をするきっかけになったといわれています。

ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり:宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られます。
その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられ、多くの人に広まる事に成りました。
戦後の道徳の教科書にも採用されています。

この逸話は多くの絵画の題材とされ、花札の札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としています。
また現在では東名高速道路上での春日井市のカントリーサインの絵柄にこの絵が採用されています。

【最後に】

今日は柳に蛙、東寺についてはいずれまたの機会にご紹介いたします。
皆さん、あの世界の?「任天堂」が花札の会社だった事をご存知でしょうか?
任天堂も、蛙と同じくいつも一生懸命に飛び続けて、蛙と同じように柳(テレビゲームか!)をつかんだんですね~!


実はわたくし蛙が大好きなんです~あの蛙と同じように跳び続けて、柳を必ずつかみますので皆さん応援してくださいね。
しかし「柳の下には泥鰌は二匹居ない」とも言いますけどね~(;^_^A


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いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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