古さでも有名ですが、「卑弥呼の父親かも?」『纒向勝山古墳』
前回の続きで、本日御紹介しますのは纒向墳群の古墳の一つ『纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)』です。
奈良県桜井市の、纒向古墳群に属する古墳の一つです。
纏向石塚古墳と同じ様に、最も古いと言われる前方後円墳の一つです。
先日発見されて大きな話題に成っている『纒向遺跡』もすぐ近くに在りますし、纒向は日本最初の都所在地かも知れません。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログ(暫く古墳ずくし)をお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。



纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)は、奈良県桜井市の纒向古墳群に属する古墳です。
2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定されました。
【規模・年代等の編集】
所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市東田字勝山
形状:纒向型前方後円墳
規模:全長約115m、後円部径約70m、前方部長約45m、周濠幅約25m(葺石・埴輪もなし)
築造年代:3世紀前期~後期
被葬者:不明
国指定指定文化財(纒向古墳群として)
【纏向勝山古墳出土遺物】
埋葬施設:未調査のため詳細不明(早く~調べて!)。
出土遺物:主として周濠部より出土しています。
木製の刀剣把手・団扇・槽等の祭祀具・U字形木製品(くびれ部の周濠から出土)・土師器(布留0式土器)
【纒向古墳群とは?】
前回も説明しましたが、初めての方々へ、纒向古墳群(まきむくこふんぐん)は、奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の古墳群です。
「オオヤマト古墳集団」は、奈良盆地の南東部に所在し、北から、萱生古墳群・柳本古墳群・纒向古墳群・磯城の古墳の4グループに分類され、本古墳群は、天理市から桜井市の「山辺の道」沿いに広がる柳本古墳群の南、かつての「水垣郷」に位置し、広大な纒向遺跡のなかに分布しています。
纒向古墳群の古墳は、3世紀の中頃から後半に築造されたと推定されます。
この定型化古墳の出現をもって「古墳時代」が始まったという時期区分が一般的に採用されています。
つまり、前方後円墳「発祥の地」というわけです。
こちらより古い前方後円墳は無いのですが、実は岡山の「楯築墳丘墓」が前方後円墳のモデルとも言われています(まだ行って無いんです~涙)。
箸墓古墳は『魏志』倭人伝のいう邪馬台国に都した倭の女王卑弥呼の墓ではないかという説を唱える研究者もいますが、宮内庁では「倭迹迹日百襲姫命大市墓」として管理しています。
地形的には、珠城山丘陵によって柳本古墳群とは分断されます。
盟主墳とされる「箸墓古墳(箸中山古墳)」は、定型化した最初の前方後円墳とみなされており、その他の纒向古墳群古墳の特徴は特別です。
ちなみに箸墓古墳以外の主な古墳は、纒向勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳です。
順番にご紹介しますね。
箸墓古墳をのぞく5基の前方後円形の墳墓は「纒向型前方後円墳」と呼ばれ、帆立貝のような形状をもっており、以下のような共通の特徴を有しています。
後円部に比べ前方部が著しく小さく低平でに成っています。
墳丘全長・後円部直径・前方部の長さの比は、正しく3:2:1を原則としています。
後円部は、扁球・倒卵か不正円形で正円形ではありません。
周濠を持つ古墳は、前方部が狭いようです。
いっぽう箸墓古墳は、後円部が5段築成によるものであり、前方部の前面幅は撥(ばち)状を呈し、規模も他の5基の約3倍に相当する278メートルであり、そこには隔絶性が明らかに存在し、しばしば「初期ヤマト王権最初の王墓」と評されます。
【最後に私の妄想を膨らませてみましょう】
纏向石塚古墳出土遺物の周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器と共に、弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物)が出土していますね、この吉備の遺物にとても興味深いロマンを感じるのです。
当然、纏向石塚古墳だけでなく、纏向勝山古墳も吉備の人物が埋葬されている可能性があります。
被葬者は不明ですが卑弥呼の父親とも言われているのです。
邪馬台国論争はいつも「場所がどこだ?」に成りますよね~しかし「都はどこだ?」と考えてみてはどうでしょう。
日本の首都は東京ですか?因みに、遷都は天皇が行う行為で、明治天皇の即位は元服前の満14歳(今の中学校二年生)、「東京に遷都するぞ~d(^-^)」なんて事実が有るでしょうか?取り巻きの海千山千の大人発想ですよね。
つまり東京は首都ですが、実は都では無い事に成りますね、間違っていても私の妄想ですから(笑)
しかしながら天皇が居られる場所が都だと考えると、今上天皇が居られる東京は都ということに成ります。
同じ論理で高天原や邪馬台国も大王と一緒に移動したと考えてみてはどうでしょう。
古事記によると神武天皇の東征過程は吉備に8年もの間滞在しています。
この長い滞在は何を意味するのでしょうか?私は、神武天皇が此処で大きな味方を二つ見つけたのだと考えました。
一つは吉備の巫女「卑弥呼」です(倭迹迹日百襲姫命の系図には代八代孝元天皇と共に吉備津彦命の名前が有ります。
もう一つは隣の国、出雲の「大国主」です。
隣の国なら交渉「国譲り」も出来ますよね~(-_-;)
この時代、三国大連合国家に歯向かって勝てる国が有ったでしょうか?
この後、神武天皇は大和へ入り、橿原の宮で即位、卑弥呼は箸墓古墳に眠り、大国主は大物主として三輪山に眠ったなんてサクセスストーリーはいかがですか?(笑)
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
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奈良県桜井市の、纒向古墳群に属する古墳の一つです。
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【纒向勝山古墳ってどんな古墳なの?】
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【纒向勝山古墳ってどんな古墳なの?】
纒向勝山古墳(まきむくかつやまこふん)は、奈良県桜井市の纒向古墳群に属する古墳です。
2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定されました。
【規模・年代等の編集】
所属:纒向古墳群
所在地:奈良県桜井市東田字勝山
形状:纒向型前方後円墳
規模:全長約115m、後円部径約70m、前方部長約45m、周濠幅約25m(葺石・埴輪もなし)
築造年代:3世紀前期~後期
被葬者:不明
国指定指定文化財(纒向古墳群として)
【纏向勝山古墳出土遺物】
埋葬施設:未調査のため詳細不明(早く~調べて!)。
出土遺物:主として周濠部より出土しています。
木製の刀剣把手・団扇・槽等の祭祀具・U字形木製品(くびれ部の周濠から出土)・土師器(布留0式土器)
【纒向古墳群とは?】
前回も説明しましたが、初めての方々へ、纒向古墳群(まきむくこふんぐん)は、奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の古墳群です。
「オオヤマト古墳集団」は、奈良盆地の南東部に所在し、北から、萱生古墳群・柳本古墳群・纒向古墳群・磯城の古墳の4グループに分類され、本古墳群は、天理市から桜井市の「山辺の道」沿いに広がる柳本古墳群の南、かつての「水垣郷」に位置し、広大な纒向遺跡のなかに分布しています。
纒向古墳群の古墳は、3世紀の中頃から後半に築造されたと推定されます。
この定型化古墳の出現をもって「古墳時代」が始まったという時期区分が一般的に採用されています。
つまり、前方後円墳「発祥の地」というわけです。
こちらより古い前方後円墳は無いのですが、実は岡山の「楯築墳丘墓」が前方後円墳のモデルとも言われています(まだ行って無いんです~涙)。
箸墓古墳は『魏志』倭人伝のいう邪馬台国に都した倭の女王卑弥呼の墓ではないかという説を唱える研究者もいますが、宮内庁では「倭迹迹日百襲姫命大市墓」として管理しています。
地形的には、珠城山丘陵によって柳本古墳群とは分断されます。
盟主墳とされる「箸墓古墳(箸中山古墳)」は、定型化した最初の前方後円墳とみなされており、その他の纒向古墳群古墳の特徴は特別です。
ちなみに箸墓古墳以外の主な古墳は、纒向勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳です。
順番にご紹介しますね。
箸墓古墳をのぞく5基の前方後円形の墳墓は「纒向型前方後円墳」と呼ばれ、帆立貝のような形状をもっており、以下のような共通の特徴を有しています。
後円部に比べ前方部が著しく小さく低平でに成っています。
墳丘全長・後円部直径・前方部の長さの比は、正しく3:2:1を原則としています。
後円部は、扁球・倒卵か不正円形で正円形ではありません。
周濠を持つ古墳は、前方部が狭いようです。
いっぽう箸墓古墳は、後円部が5段築成によるものであり、前方部の前面幅は撥(ばち)状を呈し、規模も他の5基の約3倍に相当する278メートルであり、そこには隔絶性が明らかに存在し、しばしば「初期ヤマト王権最初の王墓」と評されます。
【最後に私の妄想を膨らませてみましょう】
纏向石塚古墳出土遺物の周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器と共に、弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物)が出土していますね、この吉備の遺物にとても興味深いロマンを感じるのです。
当然、纏向石塚古墳だけでなく、纏向勝山古墳も吉備の人物が埋葬されている可能性があります。
被葬者は不明ですが卑弥呼の父親とも言われているのです。
邪馬台国論争はいつも「場所がどこだ?」に成りますよね~しかし「都はどこだ?」と考えてみてはどうでしょう。
日本の首都は東京ですか?因みに、遷都は天皇が行う行為で、明治天皇の即位は元服前の満14歳(今の中学校二年生)、「東京に遷都するぞ~d(^-^)」なんて事実が有るでしょうか?取り巻きの海千山千の大人発想ですよね。
つまり東京は首都ですが、実は都では無い事に成りますね、間違っていても私の妄想ですから(笑)
しかしながら天皇が居られる場所が都だと考えると、今上天皇が居られる東京は都ということに成ります。
同じ論理で高天原や邪馬台国も大王と一緒に移動したと考えてみてはどうでしょう。
古事記によると神武天皇の東征過程は吉備に8年もの間滞在しています。
この長い滞在は何を意味するのでしょうか?私は、神武天皇が此処で大きな味方を二つ見つけたのだと考えました。
一つは吉備の巫女「卑弥呼」です(倭迹迹日百襲姫命の系図には代八代孝元天皇と共に吉備津彦命の名前が有ります。
もう一つは隣の国、出雲の「大国主」です。
隣の国なら交渉「国譲り」も出来ますよね~(-_-;)
この時代、三国大連合国家に歯向かって勝てる国が有ったでしょうか?
この後、神武天皇は大和へ入り、橿原の宮で即位、卑弥呼は箸墓古墳に眠り、大国主は大物主として三輪山に眠ったなんてサクセスストーリーはいかがですか?(笑)
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