「播磨国風土記伝」雄略天皇の迫害を逃れた、絶体絶命の二皇子の行方『志染の岩室』!
先日Facebookのお友達がUPされておられまして、「えっ!こんな物が、結構近所に有るの?」とビックリ!
是非行ってみようと、お休みの日に出掛けて来ました。
雄略天皇に皇位継承争いで殺された、市辺押磐皇子の二人の王子、袁奚王子と意奚王子の兄弟の隠れ家です!
住所はネットで調べたのですが(兵庫県三木市志染町窟屋、笑)、此が中々見つからないのです。
こっちか~?あっちか~?
私、自慢ではありませんが、以外と方向音痴では無いのですが!川の側のはずとの思い込みが、私の方向感覚を撹乱していました。
そして、山方面へ、見つけました~(⌒‐⌒)v
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいねm(__)m。



【誰が隠れ住んで居たのでしょう?】
志染の石室(しじみのいわむろ)は、兵庫県三木市にある説話伝承地です。
『播磨国風土記』美囊郡志深里(しじみのさと)条によると5世紀頃、皇位継承争いで雄略天皇派に殺された市辺押磐皇子の二人の王子、後の23代顕宗天皇である袁奚と後の24代仁賢天皇である意奚の兄弟は志深(志染)の石室に隠れ住んだとされます(継体天皇お手植の記載と名前が違います)。
日本書紀では「縮見山石室」と表記、その石室の故地であると伝承されています。
【雄略天皇って誰】
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月~雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇です。
大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと とも)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇(大悪天皇って(;^_^A)、有徳天皇ともいわれます。
また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王「武」に比定されます。
その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「犭隻加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王」と解して、その証とする説が有力です。
雄略22年1月1日、白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とし、翌23年8月、大王は病気のため崩御しました。
雄略天皇23年を機械的に西暦に換算すると479年となりますが、「梁書」によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号しています。
この解釈としては、実際の雄略天皇の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、雄略帝=倭王武の比定が誤っているとする見解が有るようです。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられます。
【一寸うんちく】
稲荷山古墳から出土した鉄剣の金文字に「ワカタケル(雄略天皇と推定)」の文字が発見されたことで日本中に名前がとどろいた埼玉県行田市のさきたま古墳公園は、9基の大型古墳が集中する東日本最大の古墳群として有名なのですが、特にその中でも円墳としては日本で一番大きな「丸墓山古墳」が在ります。
この円山古墳、映画の「のぼうの城」に登場した石田三成が本陣を構えた場所なのです。
行田市を中心に残る、水攻めに用いられた土手である「石田堤」が丸墓山古墳周囲に残っています。
映画を見直すと、最初に陣地を作るシーンに埴輪や土器が踏みつけられるシーンがありますので、気が向いてたら確認してください。
その円山古墳のすぐ隣から「ワカタケル(雄略天皇と推定)」の金文字鉄剣が見つかっているのです。
私も一度訪れてみたいのですが、まだ叶えておりません(涙)
【雄略天皇の迫害】
記紀によれば、安康天皇(20代)3年8月9日、安康天皇が幼年の眉輪王(『古事記』では7歳とあるが誤記と思われる)により暗殺されたとされます(7歳で暗殺は無理でしょ)。
安康天皇が、仁徳天皇(16代)の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭姫皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香皇子と草香幡梭姫皇女は父系の叔父と叔母に成ります)際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をします。
安康天皇は大草香皇子を殺害し、その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后としました。
中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、これが眉輪王に安康天皇が殺害される直接の原因となったといわれます。
暗殺の事実を知った大泊瀬皇子(雄略天皇)は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王を焼き殺します。
さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いたのでした。
雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇(24代)の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇(26代)の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いています。
此処で出てくるのが、『播磨国風土記』美囊郡志深里(しじみのさと)条文によると5世紀頃、皇位継承争いで雄略天皇派に殺された市辺押磐皇子の二人の王子、後の23代顕宗天皇である袁奚と後の24代仁賢天皇である意奚の兄弟が志深(志染)の石室に隠れ住んだお話なのです。
窟屋の金水
ひかり藻が生息する石室の湧水は「窟屋の金水」と呼ばれるそうです。
交通アクセス
神戸電鉄粟生線 三木駅 から神姫バスで 20 分
JR神戸線 三ノ宮駅および阪急神戸本線・阪神本線 ・ポートライナー 三宮駅 から神姫バス で 50 分
歴史ってすべてがつながっているんですよね~!
歴史を楽しめるようになると、映画も楽しめるようになるんですよ(笑)
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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(やっと見つけた~!)
【誰が隠れ住んで居たのでしょう?】
志染の石室(しじみのいわむろ)は、兵庫県三木市にある説話伝承地です。
『播磨国風土記』美囊郡志深里(しじみのさと)条によると5世紀頃、皇位継承争いで雄略天皇派に殺された市辺押磐皇子の二人の王子、後の23代顕宗天皇である袁奚と後の24代仁賢天皇である意奚の兄弟は志深(志染)の石室に隠れ住んだとされます(継体天皇お手植の記載と名前が違います)。
日本書紀では「縮見山石室」と表記、その石室の故地であると伝承されています。
【雄略天皇って誰】
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月~雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇です。
大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと とも)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇(大悪天皇って(;^_^A)、有徳天皇ともいわれます。
また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王「武」に比定されます。
その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「犭隻加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王」と解して、その証とする説が有力です。
雄略22年1月1日、白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とし、翌23年8月、大王は病気のため崩御しました。
雄略天皇23年を機械的に西暦に換算すると479年となりますが、「梁書」によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号しています。
この解釈としては、実際の雄略天皇の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、雄略帝=倭王武の比定が誤っているとする見解が有るようです。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられます。
【一寸うんちく】
稲荷山古墳から出土した鉄剣の金文字に「ワカタケル(雄略天皇と推定)」の文字が発見されたことで日本中に名前がとどろいた埼玉県行田市のさきたま古墳公園は、9基の大型古墳が集中する東日本最大の古墳群として有名なのですが、特にその中でも円墳としては日本で一番大きな「丸墓山古墳」が在ります。
この円山古墳、映画の「のぼうの城」に登場した石田三成が本陣を構えた場所なのです。
行田市を中心に残る、水攻めに用いられた土手である「石田堤」が丸墓山古墳周囲に残っています。
映画を見直すと、最初に陣地を作るシーンに埴輪や土器が踏みつけられるシーンがありますので、気が向いてたら確認してください。
その円山古墳のすぐ隣から「ワカタケル(雄略天皇と推定)」の金文字鉄剣が見つかっているのです。
私も一度訪れてみたいのですが、まだ叶えておりません(涙)
【雄略天皇の迫害】
記紀によれば、安康天皇(20代)3年8月9日、安康天皇が幼年の眉輪王(『古事記』では7歳とあるが誤記と思われる)により暗殺されたとされます(7歳で暗殺は無理でしょ)。
安康天皇が、仁徳天皇(16代)の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭姫皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香皇子と草香幡梭姫皇女は父系の叔父と叔母に成ります)際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をします。
安康天皇は大草香皇子を殺害し、その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后としました。
中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、これが眉輪王に安康天皇が殺害される直接の原因となったといわれます。
暗殺の事実を知った大泊瀬皇子(雄略天皇)は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王を焼き殺します。
さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いたのでした。
雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇(24代)の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇(26代)の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いています。
此処で出てくるのが、『播磨国風土記』美囊郡志深里(しじみのさと)条文によると5世紀頃、皇位継承争いで雄略天皇派に殺された市辺押磐皇子の二人の王子、後の23代顕宗天皇である袁奚と後の24代仁賢天皇である意奚の兄弟が志深(志染)の石室に隠れ住んだお話なのです。
窟屋の金水
ひかり藻が生息する石室の湧水は「窟屋の金水」と呼ばれるそうです。
交通アクセス
神戸電鉄粟生線 三木駅 から神姫バスで 20 分
JR神戸線 三ノ宮駅および阪急神戸本線・阪神本線 ・ポートライナー 三宮駅 から神姫バス で 50 分
歴史ってすべてがつながっているんですよね~!
歴史を楽しめるようになると、映画も楽しめるようになるんですよ(笑)
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