特派員報告第二弾「 廃墟ファン必見・世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸①!
特派員報告第二弾「世界文化遺産」『軍艦島』へ上陸①!ですが、何時もは自分自身が行った場所(遺跡・自社仏閣・自城)、実体験した事(登山・トレッキング・陶芸)、グルメ(スイーツ)等自分の体験以外は御紹介しない事にしておりますが、家族特派員だけは例外にさせて頂きましたm(__)m。
以前弟が京都の桂川でおおサンショウウオを見つけた写真を送って来たので、おおサンショウウオ(天然記念物)の遺伝子汚染に危機感を覚えて、記事にさせて頂きました経緯も有ります。
今回は妻が友人との旅行で「端島」に上陸しましたので御報告致します(^人^)。世界遺産『軍艦島』です。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。



【軍艦島って何?】
『軍艦島(ぐんかんじま)』の通称で知られている、端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧高島町)にある島です。明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していましたが、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島と成っています。2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されました(世界遺産シリーズでは有りません(^人^))。
『端島「軍艦島」』
面積0.063 km²海岸線長1.2 km最高標高47.7 m
所在海域:五島灘
所属国・地域:日本(長崎県)
【端島(軍艦島)の地理や気候等】
長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にあります。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートルの距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れています。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されましたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していました。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていました。
端島は本来、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬でした。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張して利用を始めました。その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われています。面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1200メートル。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がありました。
年間平均気温は15から16℃。平均降水量は2000ミリメートル、冬は比較的雨量が多く、夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い(いずれも旧高島町資料によります)。
端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れていますが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かったようです。また、主婦には生け花が人気でした。西山夘三も草木はほとんどないと述べていますが、これについては誇張的という指摘があります。閉山後の調査では二十数種類の植物が確認されており、特にオニヤブマオ(イラクサ科)、ボタンボウフウ(セリ科)、ハマススキ(イネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられています。
【端島の歴史】
端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810~1889年)、第二期・納屋制度期(1890~1914年)、第三期・産業報国期(1914~1945年)、第四期・復興・近代化期(1945~1964年)、第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)、第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年~)に分けられます。
今日は闇とも呼ばれた暗い歴史が有ったとも言われる、太平洋戦争前迄を御紹介します。
【第一期・原始的採炭期(1810~1889年)】
端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されています。『天保国絵図』にも「端島」と記載されています。
端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされます(発見者は不明)[1が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べています。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようです(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)。
上記のように石炭発見の時期ははっきりしませんが、江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度だったようです。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、台風による被害のために廃業に追い込まれました。36メートルの竪坑が完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑です。
【第二期・納屋制度期(1890~1914年)】
1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)は三菱社へ10万円で譲渡します。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となりました。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって、端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長しています。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、(1897年から1931年)島の周囲が段階的に埋め立てられました。
1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていましたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていました。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった様です。
納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通りです。端島における納屋制度の廃止は高島よりも時間が掛かりましたが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となっています。
『納屋制度(なやせいど)』
明治に炭鉱などでみられた前近代的労務管理制度の事です。明治の初め、炭鉱労働者は囚人を主体としていましたが、徐々に農村からの労働者へと移行しました。炭鉱資本家はこうした労働者を直接管理せずに、納屋頭(親方ですかね)を設け、それに労働者の雇入れや管理をまかせます。納屋頭は、雇入れた労働者を納屋と称する合宿所に収容し、家具や作業器具一式を貸与するとともに、仕事の割当てから賃金の一括受取りまで行なっていました。そしてさまざまな名目で搾取し、待遇は残忍でさえあったといわれています。鉱夫の死亡率は高く、逃亡する者には私刑も加えられていました。このような制度は、囚人労働の慣行が引継がれたためでしたが、大炭鉱の進出につれ次第に後退していきました。
そういえば、2015年度下半期放送のNHK「連続テレビ小説」第93シリーズの作品『あさが来た』の中でも、納屋制度に苦労させられる「あさ(波瑠)」さんの姿が有りましたね。
三菱端島労働状況(1907(M40)3~8月ごろ) 日本労務管理年誌・労務管理資料編纂会 S37~S39
1 坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る。炭坑を楽園のごとく吹聴し、世人を欺瞞。
2 坑夫は何れも故郷忘れがたく、募集人の舌端に欺されたるを悔いている。
3 会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励。
4 坑夫はあわれこの陥穽に陥入り、前借の弱身に自由を縛し去られている。
ひどい待遇だったようですね。
【三期・産業報国期(1914~1945年)】
納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設されます。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいることから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとおもわれます。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てでした。
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。それを支える労働者のための福利厚生も猛烈な勢いで整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていました。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉があるほどです。戦時中の1941年から始まる「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[(端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2062トンを出炭しました。
1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始されています。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたといわれます(闇の歴史ですか?次回少し詳しくご紹介しましょう)。
戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の中国人労働者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定しています。
【長崎で建造された戦艦「土佐」】
戦艦「土佐」とはどのような船なのでしょう。1921年(大正9年)三菱重工業長崎造船所で起工され、1921年(大正10年)に進水した日本海軍の戦艦「土佐」に形似ていたため「軍艦島」と呼ばれる様になりました。「土佐」が進水式を終えた同時期に、アメリカではワシントン会議が開かれており、そこで軍縮条約が調印されました。それにより、建造途中だった「土佐」を含む9隻に建造中止命令が出されたのです。役目を失った「土佐」は海軍の標的演習用の戦艦として利用されることが決まり、魚雷や防弾を船体に受けて海中に沈んで行ったのです。悲劇の軍艦「土佐」!その悲運を予知するかのように、進水式でのくす玉は何故か割れなかったと伝わっています。
1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈しましたが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になりました。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没しています。
次回は戦後の復興する日本の原動力となった「軍艦島」を御紹介したいと思います。
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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長崎港からやまさ海運のクルーズ船に乗って約20分ドルフィン桟橋に到着します。200名も乗れるクルーズ船にも関わらず救命胴衣着用です。結構揺れるらしいです。
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【軍艦島って何?】
『軍艦島(ぐんかんじま)』の通称で知られている、端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧高島町)にある島です。明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していましたが、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島と成っています。2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されました(世界遺産シリーズでは有りません(^人^))。
『端島「軍艦島」』
面積0.063 km²海岸線長1.2 km最高標高47.7 m
所在海域:五島灘
所属国・地域:日本(長崎県)
【端島(軍艦島)の地理や気候等】
長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にあります。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートルの距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れています。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されましたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していました。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていました。
端島は本来、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬でした。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張して利用を始めました。その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われています。面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1200メートル。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がありました。
年間平均気温は15から16℃。平均降水量は2000ミリメートル、冬は比較的雨量が多く、夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い(いずれも旧高島町資料によります)。
端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れていますが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かったようです。また、主婦には生け花が人気でした。西山夘三も草木はほとんどないと述べていますが、これについては誇張的という指摘があります。閉山後の調査では二十数種類の植物が確認されており、特にオニヤブマオ(イラクサ科)、ボタンボウフウ(セリ科)、ハマススキ(イネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられています。
【端島の歴史】
端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810~1889年)、第二期・納屋制度期(1890~1914年)、第三期・産業報国期(1914~1945年)、第四期・復興・近代化期(1945~1964年)、第五期・石炭衰退・閉山期(1964~1974年)、第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年~)に分けられます。
今日は闇とも呼ばれた暗い歴史が有ったとも言われる、太平洋戦争前迄を御紹介します。
【第一期・原始的採炭期(1810~1889年)】
端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されています。『天保国絵図』にも「端島」と記載されています。
端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされます(発見者は不明)[1が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べています。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようです(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)。
上記のように石炭発見の時期ははっきりしませんが、江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度だったようです。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、台風による被害のために廃業に追い込まれました。36メートルの竪坑が完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑です。
【第二期・納屋制度期(1890~1914年)】
1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)は三菱社へ10万円で譲渡します。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となりました。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって、端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長しています。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、(1897年から1931年)島の周囲が段階的に埋め立てられました。
1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていましたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていました。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった様です。
納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通りです。端島における納屋制度の廃止は高島よりも時間が掛かりましたが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となっています。
『納屋制度(なやせいど)』
明治に炭鉱などでみられた前近代的労務管理制度の事です。明治の初め、炭鉱労働者は囚人を主体としていましたが、徐々に農村からの労働者へと移行しました。炭鉱資本家はこうした労働者を直接管理せずに、納屋頭(親方ですかね)を設け、それに労働者の雇入れや管理をまかせます。納屋頭は、雇入れた労働者を納屋と称する合宿所に収容し、家具や作業器具一式を貸与するとともに、仕事の割当てから賃金の一括受取りまで行なっていました。そしてさまざまな名目で搾取し、待遇は残忍でさえあったといわれています。鉱夫の死亡率は高く、逃亡する者には私刑も加えられていました。このような制度は、囚人労働の慣行が引継がれたためでしたが、大炭鉱の進出につれ次第に後退していきました。
そういえば、2015年度下半期放送のNHK「連続テレビ小説」第93シリーズの作品『あさが来た』の中でも、納屋制度に苦労させられる「あさ(波瑠)」さんの姿が有りましたね。
三菱端島労働状況(1907(M40)3~8月ごろ) 日本労務管理年誌・労務管理資料編纂会 S37~S39
1 坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る。炭坑を楽園のごとく吹聴し、世人を欺瞞。
2 坑夫は何れも故郷忘れがたく、募集人の舌端に欺されたるを悔いている。
3 会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励。
4 坑夫はあわれこの陥穽に陥入り、前借の弱身に自由を縛し去られている。
ひどい待遇だったようですね。
【三期・産業報国期(1914~1945年)】
納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設されます。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいることから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとおもわれます。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てでした。
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。それを支える労働者のための福利厚生も猛烈な勢いで整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていました。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉があるほどです。戦時中の1941年から始まる「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[(端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2062トンを出炭しました。
1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始されています。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたといわれます(闇の歴史ですか?次回少し詳しくご紹介しましょう)。
戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の中国人労働者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定しています。
【長崎で建造された戦艦「土佐」】
戦艦「土佐」とはどのような船なのでしょう。1921年(大正9年)三菱重工業長崎造船所で起工され、1921年(大正10年)に進水した日本海軍の戦艦「土佐」に形似ていたため「軍艦島」と呼ばれる様になりました。「土佐」が進水式を終えた同時期に、アメリカではワシントン会議が開かれており、そこで軍縮条約が調印されました。それにより、建造途中だった「土佐」を含む9隻に建造中止命令が出されたのです。役目を失った「土佐」は海軍の標的演習用の戦艦として利用されることが決まり、魚雷や防弾を船体に受けて海中に沈んで行ったのです。悲劇の軍艦「土佐」!その悲運を予知するかのように、進水式でのくす玉は何故か割れなかったと伝わっています。
1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈しましたが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になりました。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没しています。
次回は戦後の復興する日本の原動力となった「軍艦島」を御紹介したいと思います。
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