初めて見た!「前方後方墳」『下山池古墳』の隠された意味を探る! - 「高天原の縁側日記」
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2017/05/31

初めて見た!「前方後方墳」『下山池古墳』の隠された意味を探る!

今日は私が初めて見た「前方後方墳」山辺の道に有る『下池山古墳(しもいけやまこふん)』を御紹介します。
奈良県天理市成願寺町に所在する墳丘全長約120メートルの前方後方墳です。
大和古墳群に属す古墳時代前期前半の古墳で先日ちらっと紹介した、「西殿塚古墳(にしとのづかこふん)」宮内庁により「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として第26代継体天皇皇后の手白香皇女陵(一説には卑弥呼の後継者「壱与」の墓とも言われます。)の直ぐ下(西側)に有ります。

P5190246.jpg(前方後方墳て初めて見ました~。本当は今日は石神神社の予定でしたが、黄門様が書きたくて、こちらに成ってしまいました。)


国の史跡に指定されています(史跡「大和古墳群」の一つ。)。

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【黄門様が考古学者?】

皆さん、古墳を最初に調査!測量した人物ってご存知ですか?誰あろう「先の中納言水戸光圀公に在らせられるぞ~」「水戸黄門」様です。
日本最初の考古学者といえるかもしれません、那須の「下侍塚古墳」(前方後方墳、全長84m)で4世紀末や、「上侍塚古墳」(前方後方墳、全長114m)で4世紀後半を調査しています。


【黄門って何?】

水戸家は御三家の中では格下で、尾張・紀伊が大納言なのに比べて、中納言の地位に留まっています。
中国の宮殿の「禁門」(きんもん)を、秦や漢では、宮殿の門が黄色に塗られていたことに由来して「黄門」と呼びました。
中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務であった「黄門侍郎」(または「給事黄門侍郎」)を略して黄門と呼び、転じて、日本の中納言を唐名の「黄門侍郎」または「黄門」と呼んだことから、水戸の中納言「水戸黄門」なわけですね。
ドラマでは「諸国漫遊」を楽しむ黄門様ですが、水戸家は参勤交代もなく、当主は江戸常駐を言い渡されていたので、漫遊どころか、江戸から出たことも無いと思われます。

そこで活躍するのが、格さん助さんですが、ドラマでの名前は助さんは佐々木助三郎、格さんは渥美格之進です。
この二人はモデルが実在します。
本当の名前は助さんは、佐々木十竹(ささじゅちく)(介三郎宗淳)(1640~1698)、格さんは、安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)(1656~1737)という学者だそうです。

さてお話をこの上記二つの古墳に戻して、元禄5年(1682)に水戸黄門様(水戸光圀)の命によって近侍の佐々木十竹と地元庄屋 の大金重貞によって両古墳の発掘がなされました。
此処で重要なのは、栃木県の古墳といえば、下侍塚古墳と上侍塚古墳を指すこと、この二つの古墳が前方後方墳であることに実は大きな意味が有るのでは?と考えて見たのです。


【下山池古墳データ】

P5190249.jpg(写真が少ないのは道が少ないからです。言い訳まで(;^_^A)

(拡大してみてください)
1995年(平成7年)から1996年(平成8年)にかけて奈良県立橿原考古学研究所により竪穴式石室の発掘調査が行われました。
多数の板石の用いられた石室は、長さが6.8メートルで、その内部からは木棺とともに鉄製品等が出土しています。
石室の北西側からは小石室が検出され、その内部で大形の内行花文鏡が発見されました。
共伴する遺物等より、古墳の造営年代は4世紀前半と推定されています。

2014年(平成26年)10月6日、ノムギ古墳・中山大塚古墳とともに「大和古墳群」として国の史跡に指定されました。

萱生集落の南西側に所在し、山の辺の道(南)ルートを南下し、萱生の集落を抜けて西を見ると、約200m位先に見えてきます。
春日断層崖から盆地へ延びる丘陵の一つに立地し、同じ丘陵の東約450mには西殿塚古墳が所在します。
古墳の周りには水田と果樹園が広がっています。
下池山古墳は東側の東殿塚古墳、西殿塚古墳と同じ丘陵の西端に位置し、主軸は両古墳と同じ南北方向です。
墳形は前方後方墳で、この地域では少数派の墳形です。

古墳の南側には溜池が広がり、北側と東側には周濠の痕跡を示す水田や溜池があります。
墳丘規模は現状で全長約120m、後方部長約60m、後方部幅57m、後方部の高さ約14m、前方部長約60m、前方部の幅27m、前方部の高さ約6mを測ります。
平成7(1995)年と8(1996)年に調査が行われ、後方部で埋葬施設が見つかりました。
内法の長さ6.8m、幅0.9~1.3m、高さ1.8m前後の合掌形をする竪穴式石室で、内部には全長約6mのコウヤマキ製の割竹形木棺や、鉄製品などが納められていました。
また、石室の北西側で小石室が見つかり、直径37cmもある大形の内行花文鏡が一面出土しています。
築造された年代は4世紀前半(古墳時代前期前半)と考えられています。
参考文献:奈良県立橿原考古学研究所編 2001 「大和前方後円墳集成」

墳丘はやや傾斜が急で、当時からそれほど崩れていないものと見られます。
また、墳頂部では耕作が行われておらず、盆地を眺めるのには絶好の場所ですが、蛇などがいるので晩秋から冬の間がお勧めです(ということで今回は眺めるだけです)。

【私の妄想】

前方後方墳の分布を調べると、東日本に多い事がわかります(黄門様が調べた古墳も栃木県です)。
それが早い時期にヤマトに築かれたことに意味が有ると思うのです。

ズバリ、『下山池古墳』埋葬者は東国人だと考えました。
つまり関東とヤマトの同盟が出雲の国譲りを成し遂げたと考えます。

古事記では「建御雷神」が葦原中国平定をなし終え、高天原に復命します。
日本書紀では「經津主神(ふつぬし)」・「武甕槌神(たけみかづち)」を遣して葦原中國を平定させました。

建御雷神が祀られる鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市宮中にあり常陸国一宮です。
經津主神が祀られる香取神宮は、千葉県香取市香取にあり下総国一宮です。


両方とも東国じゃないですか~(笑)
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