「天日槍」の玄孫『田道間守』の墓に冷や汗が止まらない!
私(市郎右衛門)の前回ブログですが、大きな勘違いをしておりました~m(__)m。
歴史好きの皆様は前回UPの時に直ぐに気付かれたと思いますが、垂仁天皇陵墓と崇神天皇陵墓を勘違いしておりました。
まことにお恥ずかしいですが、勉強不足とお許し下さい。
冷や汗の究明を少しさせていただきたいと思います(^人^)。
以前に実家の兵庫県豊岡市に有る、「お菓子の神様」『田道間守の中島神社』をブログで御紹介しました。
当時心残りだったのは、垂仁天皇に忠義を尽くして亡くなった「田道間守」の墓(伝、垂仁天皇陵墓側)を御紹介できなかった事でした。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史反省ブログをお楽しみくださいねm(__)m。




歴史好きの皆様は前回UPの時に直ぐに気付かれたと思いますが、垂仁天皇陵墓と崇神天皇陵墓を勘違いしておりました。
まことにお恥ずかしいですが、勉強不足とお許し下さい。
冷や汗の究明を少しさせていただきたいと思います(^人^)。
以前に実家の兵庫県豊岡市に有る、「お菓子の神様」『田道間守の中島神社』をブログで御紹介しました。
当時心残りだったのは、垂仁天皇に忠義を尽くして亡くなった「田道間守」の墓(伝、垂仁天皇陵墓側)を御紹介できなかった事でした。
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今回の旅行で目的地の取材が出来たと勘違いして、御紹介致してしまいました(^人^)。
【伝承によると】
田道間守の逸話、垂仁天皇の家臣で、『日本書紀』によると、天皇から「常世の国へ行って、不老不死の霊菓、非時(ときじく)の
香菓(かぐのみ)を探してくるように」と命じられ、苦難の末にやっと常世の国に到達し、命令通り香菓を持ち帰ったのは、10年後のことでした。
しかし彼が帰国する1年前に垂仁天皇は崩御しており、「ご命令を受けて遠く遥かな国へ行き、万里の波濤を越えて帰国したのに、天皇は既にお亡くなりになり復命することも叶いません。自分は生きていても何のためにもならない」と嘆き悲しみ、天皇の陵に参拝し、その前で泣き叫んで死んでしまいました。
群臣たちは、これを聞いて皆泣き、その亡骸を陵の傍らに葬ったといわれています。
【記紀の記載では】
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘当初は何なのか分からなかったと思いますが)を求めに常世国に派遣されました。
苦労に苦労を重ねてやっと見つけた果物を天皇に届けに帰途に着きます。
十年後(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香を持って常世国から帰ってきましたが、前年垂仁天皇99年7月1日に天皇は田道間守の帰りを待たずして、崩御されてしまいます。
天皇がすでに崩御したことを聞き、垂仁天皇陵墓の前で泣き叫んで、そのまま亡くなった田道間守を 当時の人々が不憫に思い、天皇のお傍に墓を作って、永遠に仕えていただく事にしたといわれます。
涙無くしては語れないお話ですね~!(その涙が私の思い込みで台無しですが( ノД`)…)。
(此方の地図は本当の垂仁天皇陵墓です、グーグルアースで拡大したときに、拝所への通路が少し違う?変だな~と思って気が付きました~(;゜∇゜))
(崇神天皇陵は箸墓古墳のすぐ傍です。箸墓にも同じような島らしき物が有るんですよ~?)
【何故勘違いが起こったのか~?】
① 今回取材旅行の事前計画が不足していた(行き当たりばったりで旅行本も買わず。)。
京都でもそうですが、文化財が多すぎて行き先が絞り込めない(何処にも行きたいですしね~(;^_^A)。
② 垂仁天皇は崇神天皇の王子で親子関係にある上に、名前も似ている(私の勉強不足ですがf(^_^;)。
③ 崇神天皇が10代、垂仁天皇が11代とこれまた、間違えやすくなっています。
④ カーナビゲーションを頼りすぎた。
ナビが悪いのでは無いですが、自分で思考を止めていたと思えます(新車でつい嬉しくて、笑)。
⑤ 崇神天皇陵にタイミング良く(悪くf(^_^;)、小島が有った(これ一番だな!)。
等の条件が重なって、私の勘違いが起こったと考えます。
【崇神天皇陵の小島は何?】
これはですね~ 、農地用水の池として濠の利用を考えた時に、絶対量の不足が起こり、濠の拡張をはかる時に、残った濠外側の遺構の様です(何でこの部分だけ?不思議ですけどね。)。
【新しい事実が見え隠れ!】
神武東征を全くの神代と仮定します。
もしくは、欠史八代を正しいと考えて、神武天皇と崇神天皇は同一人物とする!
更には、神武天皇も想像の人物と考えて、崇神天皇が最初のヤマトの大君と考えた場合、二代に当たる垂仁天皇に忠義を尽くした、田道間守命の行動力は的を射たものといえますし、先見の明が有ったと考えて良いのではないでしょうかね(#^.^#)。
「勘違いが実に成る」とはこの事か?
私の頭の中に美味しい橘の実が成りましたね~o(^o^)o。
めでたしめでたし(笑)。
最後に、勘違いのいい加減なブログ記事にも関わらず、夜の修正版がこれまでで一番のポイントを獲得いたしました。
ひとえに皆様のおかげと感謝しておりますと共に、「もっと頑張れ~」の励ましと心を戒めましめて、これからも頑張りたいと思いますので今後とも応援をよろしくお願いいたします(本当にありがとうございました)。
いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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【伝承によると】
田道間守の逸話、垂仁天皇の家臣で、『日本書紀』によると、天皇から「常世の国へ行って、不老不死の霊菓、非時(ときじく)の
香菓(かぐのみ)を探してくるように」と命じられ、苦難の末にやっと常世の国に到達し、命令通り香菓を持ち帰ったのは、10年後のことでした。
しかし彼が帰国する1年前に垂仁天皇は崩御しており、「ご命令を受けて遠く遥かな国へ行き、万里の波濤を越えて帰国したのに、天皇は既にお亡くなりになり復命することも叶いません。自分は生きていても何のためにもならない」と嘆き悲しみ、天皇の陵に参拝し、その前で泣き叫んで死んでしまいました。
群臣たちは、これを聞いて皆泣き、その亡骸を陵の傍らに葬ったといわれています。
【記紀の記載では】
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘当初は何なのか分からなかったと思いますが)を求めに常世国に派遣されました。
苦労に苦労を重ねてやっと見つけた果物を天皇に届けに帰途に着きます。
十年後(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香を持って常世国から帰ってきましたが、前年垂仁天皇99年7月1日に天皇は田道間守の帰りを待たずして、崩御されてしまいます。
天皇がすでに崩御したことを聞き、垂仁天皇陵墓の前で泣き叫んで、そのまま亡くなった田道間守を 当時の人々が不憫に思い、天皇のお傍に墓を作って、永遠に仕えていただく事にしたといわれます。
涙無くしては語れないお話ですね~!(その涙が私の思い込みで台無しですが( ノД`)…)。
(此方の地図は本当の垂仁天皇陵墓です、グーグルアースで拡大したときに、拝所への通路が少し違う?変だな~と思って気が付きました~(;゜∇゜))
(崇神天皇陵は箸墓古墳のすぐ傍です。箸墓にも同じような島らしき物が有るんですよ~?)
【何故勘違いが起こったのか~?】
① 今回取材旅行の事前計画が不足していた(行き当たりばったりで旅行本も買わず。)。
京都でもそうですが、文化財が多すぎて行き先が絞り込めない(何処にも行きたいですしね~(;^_^A)。
② 垂仁天皇は崇神天皇の王子で親子関係にある上に、名前も似ている(私の勉強不足ですがf(^_^;)。
③ 崇神天皇が10代、垂仁天皇が11代とこれまた、間違えやすくなっています。
④ カーナビゲーションを頼りすぎた。
ナビが悪いのでは無いですが、自分で思考を止めていたと思えます(新車でつい嬉しくて、笑)。
⑤ 崇神天皇陵にタイミング良く(悪くf(^_^;)、小島が有った(これ一番だな!)。
等の条件が重なって、私の勘違いが起こったと考えます。
【崇神天皇陵の小島は何?】
これはですね~ 、農地用水の池として濠の利用を考えた時に、絶対量の不足が起こり、濠の拡張をはかる時に、残った濠外側の遺構の様です(何でこの部分だけ?不思議ですけどね。)。
【新しい事実が見え隠れ!】
神武東征を全くの神代と仮定します。
もしくは、欠史八代を正しいと考えて、神武天皇と崇神天皇は同一人物とする!
更には、神武天皇も想像の人物と考えて、崇神天皇が最初のヤマトの大君と考えた場合、二代に当たる垂仁天皇に忠義を尽くした、田道間守命の行動力は的を射たものといえますし、先見の明が有ったと考えて良いのではないでしょうかね(#^.^#)。
「勘違いが実に成る」とはこの事か?
私の頭の中に美味しい橘の実が成りましたね~o(^o^)o。
めでたしめでたし(笑)。
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ひとえに皆様のおかげと感謝しておりますと共に、「もっと頑張れ~」の励ましと心を戒めましめて、これからも頑張りたいと思いますので今後とも応援をよろしくお願いいたします(本当にありがとうございました)。
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