大き過ぎるが故に小ネタに成ってしまいそう「崇神天皇陵墓」 - 「高天原の縁側日記」
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2017/05/27

大き過ぎるが故に小ネタに成ってしまいそう「崇神天皇陵墓」

周囲を小高い山に囲まれた奈良盆地、古代東に連なる美しい青垣の山裾を縫うように、三輪山の麓から石上布留を通り、奈良へと通じる道がありました。
「日本書紀」にその名が残る、「山の辺の道」です。
山の辺の道沿いには、今も「記紀・万葉集」ゆかりの地名や伝説が残り、数多くの史跡に出遭え、訪れる人を「古代ロマンの世界」へと誘います。

P5190258.jpg(こちらが宮内庁が比定する、崇神天皇陵です。)

今日は、山の辺の道途中に在る10代天皇の陵墓「崇神天皇山邊道勾岡上陵」を御紹介します(ちょとひつこいけど汚名挽回に必死な市郎右衛門ですf(^_^;)。

其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいねm(__)m。
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【崇神天皇山邊道勾岡上陵データ】

P5190263.jpg(拝所から眺める前方部)
P5190253.jpg(左括れ部分位から拝所を眺めています。)
P5190268.jpg(拝所左から前方部)
P5190275.jpg(拝所右~前方部右コーナーがわかりますね)

別名 行燈山古墳
所属 柳本古墳群
所在地 奈良県天理市柳本町字行燈
形状 前方後円墳
規模 墳丘長242m
高さ 31m(後円部)
築造年代4世紀前半
埋葬施設(推定)竪穴式石室
被葬者(宮内庁治定)第10代崇神天皇
出土品 銅板・円筒埴輪・土師器・須恵器
全国 第16位の規模

『行燈山古墳(あんどんやまこふん、行灯山古墳)』は、奈良県天理市柳本町にある古墳です。

実際の被葬者は明らかではありません。
宮内庁により「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ、山邊道勾岡上陵)」として第10代崇神天皇の陵に治定されています。

全国では第16位の規模の古墳で、4世紀前半頃(古墳時代前期)の築造と推定されます。

奈良盆地東縁において、丘陵先端部を切断して築造された巨大前方後円墳です(このパターン結構多いんですよね~造るのが簡単なのかな?)。
江戸時代末期に柳本藩による修陵事業が実施され、周濠等に改変が加えられています。

現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあります。

墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向けています。
墳丘は3段築成で、墳丘長は242メートルを測るが、これは全国では第16位、柳本古墳群では渋谷向山古墳(天理市渋谷町、300メートル)に次ぐ第2位の規模になります。
墳丘表面では葺石・埴輪が検出されています。
墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており、周濠を含めた全長は360メートルにも及ぶほか(周濠の一部は後世の改変でしたね)、陪塚的性格を持つ古墳数基の築造も認められます。
主体部の埋葬施設は、後円部における竪穴式石室と推定されます。

出土遺物としては、円筒埴輪・土師器・須恵器(以上宮内庁書陵部の調査時)のほか、江戸時代の修陵の際に出土した銅板1枚があります。

この行燈山古墳は、出土埴輪・出土銅板から古墳時代前期後半の4世紀前半頃の築造と推定されます。
柳本古墳群では「渋谷向山古墳(景行天皇陵、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇。日本武尊の父」)に先行する時期の築造とされ、渋谷向山古墳とともに初期ヤマト王権の大王墓と考えられます。

【崇神天皇陵に治定された流れ】

江戸時代の寛政9~享和元年(1797-1801年)、蒲生君平が『山陵志』で景行天皇陵に比定します(地図で見て頂きますと直ぐ南に、渋谷向山古墳「景行天皇陵」が有ります。)。
安政2年(1855年)、景行天皇陵に治定されます(誰が?幕府ですかね?)。
元治元年(1864年)9月~慶応元年(1865年)4月、柳本藩による修陵、銅板が出土しています。
慶応元年(1865年)、崇神天皇陵に治定変更(^_^;)。
慶応3年(1867年)、谷森善臣が『山陵考』で崇神天皇陵に比定。
明治期、宮内省(現・宮内庁)により崇神天皇陵に治定されました。


【古墳規模「国土交通省 国土画像情報より」】

cimg03598743.jpg
(拝所の前の濠が広すぎると思いませんか?ちょうど小島辺りが基の濠でピッタリかと思います。)



古墳総長:360メートル 周濠を含めた全長。
古墳最大幅:230メートル 周濠を含めた最大幅。
墳丘長:242メートル
後円部:3段築成。
後円部直径:158メートル
後円部高さ:31メートル
前方部:3段築成。
前方部幅:100メートル
前方部高さ:13.6メートル

墳丘周囲には周濠が巡らされており、この周濠は3ヶ所で渡堤によって区切られる(傾斜地での湛水のため)、そのうち前方部南側、後円部南側・東・北側の部分が築造当初の形状とされ、前方部側の他の部分は江戸時代末の柳本藩の修営により農業用溜池として拡張を受けたとされます(私が勘違いした小島も拡張部分に入ります。)。

【出土品はどないなん?】

行燈山古墳からの出土品としては、特に銅板1枚が知られています。
この銅板は、江戸時代の修陵の際に後円部南側から出土したもので、現在は所在不明に成っていますが(誰かが隠してるな!)、拓本が残されているそうです。
拓本によれば銅板は長方形で、長辺70センチメートル・短辺53.8センチメートルです(盾みたいな感じかな?)。
片面には内行花文鏡に似た文様を、他面には田の字形の文様を有する点が注目されています。
そのほかの出土品としては、宮内庁書陵部による調査時に出土した円筒埴輪・土師器・須恵器等が有ります。

【本当の被葬者はだ~れ?】

行燈山古墳の実際の被葬者は明らかではありませんが、宮内庁では第10代崇神天皇の陵に治定しています。
崇神天皇の陵について、『古事記』では「山辺道勾之岡上」の所在とあり、『日本書紀』では「山辺道上陵」と記載されています(景行天皇陵と同名)、『延喜式』では、大和国山辺郡の衾田墓(手白香皇女墓)の条において、「山辺道匂岡上陵」の陵戸が衾田墓の守戸を兼ねることが記されています(衾田墓と山辺道上陵が隣り合わせという事ですかね?景行天皇陵と同名ならわからないじゃないですか~)。

江戸時代後期に蒲生君平は『山陵志』で本古墳を景行天皇陵に比定しましたが、江戸時代末期に谷森善臣は『山陵考』で崇神天皇陵に比定し、その説が現在まで踏襲されています。
この説の根拠の1つとしては、上述の衾田墓(衾田陵。現陵は西殿塚古墳、真陵は西山塚古墳)には行燈山古墳の方が近いことがあった様です。

P5190276.jpg
(10代崇神天皇陵と12代景行天皇陵の可能性があるようです。ちなみに景行天皇陵は地図の少し右に在ります。)
P5190242.jpg(「衾田陵」(すまだのみささぎ)」西殿塚古墳「にしとのづかこふん」第26代 継体天皇皇后の手白香皇女の陵)

【陪冢もでかいので一寸ご紹介】

P5190271.jpg(綺麗な前方後円墳が拝所裏手向かって左に在りました。でかい!こちらが陪塚なのが凄い。)


通称「アンド山」、位置は山辺道勾岡上陵拝所の北側に位置し、古墳名は「アンド山古墳」。
前方後円墳で、墳丘長120メートル、段築は認められず、葺石・埴輪は不明、周濠は本来存在しないと推測され、主体部の埋葬施設は竪穴式石室と見られ、築造時期は行燈山古墳と同時期と推定されます。

P5190273.jpg(こちらも小さい?けど綺麗なR線の前方後円墳です。)


通称「南アンド山」、山辺道勾岡上陵拝所の南側に位置し、古墳名は「南アンド山古墳」です。
前方後円墳で、墳丘長65メートル、段築は認められず、葺石・埴輪は不明、周濠は本来存在しないと推測され、築造時期は行燈山古墳と同時期と推定されます。

山の辺の道の周辺は小高い森や岡、林や山は全て古墳です。
歴史好きにはたまりませんねぇ~。
前方後円墳が女性に人気だとか?抱き枕やクッショングッズが数か月待ちですって(笑)

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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