この大きさになると古墳なのか山なのか分かります?「景行天皇天皇陵」
奈良の取材旅行の残りが少し?有りますので、お城の後は古墳廻りということで、崇神天皇の孫にあたります、景行天皇(第12代天皇)の陵墓を御紹介いたします。
とはいっても、題名にも付けましたように、300mを越える陵墓を近くから見ても山なのか、何なのか良く解りません(笑)、不遜な話ですが、灌漑様の池の向こう側が山に成ってる?位の感じですね。古墳拝所がなければ、いえカーナビと看板が無ければ本当に分からないのです。
其では、景行天皇の陵墓、山邊道上陵(奈良県天理市)を御紹介致しますm(__)m景行天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県天理市渋谷町にある山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ、山辺道上陵)に治定されています。公式形式は前方後円で考古学名は「渋谷向山古墳」(墳丘長300m国内第7位の大きさ)。
『古事記』には「御陵は山邊の道上にあり」とあります。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね(人´ω`*).☆.。




【景行天皇ってどんな天皇?】
景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年~景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇です(在位:景行天皇元年7月11日~同60年11月7日)。記紀によれば第11代垂仁天皇と丹波道主王の娘日葉酢媛(ひばすひめのみこと)の子、垂仁天皇の第三皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父として有名です。『日本書紀』には自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を征伐し、東国には日本武尊を遣わして蝦夷を征討させたと伝わっています。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)と記載され。「常陸風土記」には大足日足天皇と「播磨風土記」には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇と多くの名前が有りますね~(記紀も風土記も発音を漢字に当てはめるのに苦労した様子がうかがえます)。
皇后は播磨稲日大郎姫、その死後は八坂入姫。子に第13代成務天皇、日本武尊がいます。都は纏向日代宮(桜井市穴師付近)。自ら日向(九州南部)の熊襲を討ち、日本武尊をして熊襲、出雲、東国を征討させたといわれています。子は80人におよび、その多くは地方に分封したと伝えられます。また九州関係の『風土記』には多様な巡行、活動が描かれる。伝承上の事績は事実としては疑わしいですが、地方伝承への強い浸透を念頭におくと、実在の人物としの可能性が有ります。
【物語、景行天皇熊襲を征伐する】
第12代景行天皇は、日本書紀によると、6年間にわたって、日向(ひむか)に滞在したと記され、熊襲征伐の伝承が伝えられています。ある年、九州南部の熊襲一族が朝廷に反抗し、みつぎ物を差し出しませんでした。景行天皇は熊襲を討つことを決め、みずから軍を率いて、九州へ向かいます。そして、豊後の国(今の大分県)を通って、日向の国に入ると、「高屋宮(たかやのみや)」という仮の住まいを建てました。ある日、天皇は熊襲討伐作戦を考えます。
「聞くところによると、熊襲には熊襲梟帥(くまそたける)という強者がいるらしい。何かうまく攻略する方法はないものか」景行天皇の臣の一人が、「熊襲梟帥には姿は美しく、心は雄雄しい2人の娘がいるので、その娘たちを傍に召し、利用すれば、自らの手を汚さずに、熊襲を滅ぼすことが出来るでしょう。」と天皇に奏上しました。それはいい考えということで、2人の娘は財宝を与えられ、天皇の下に召しだされます。そして景行天皇は、その姉のイチフカヤを寵愛しました(その愛は勿論偽りだったのですが)。懐柔されたイチフカヤは策を話します。「私に良い考えがあります」イチフカヤは家に帰ると強いお酒をたくさん用意して父親の熊襲梟帥にそれを飲ませると、熊襲梟帥は酔ってぐっすり寝てしまい、その間に天皇の兵によって殺されてしまいました。熊襲梟帥を失った熊襲一族は勢力を失い、その半年後には天皇によってほろぼされてしまいました。
襲国を平定し、高屋宮に滞在する事6年、景行天皇は御刀媛(ミハカシヒメ)という美しい女性を妻に迎え、豊国別皇子(トヨクニワケノミコ)という名の男の子をもうけました。豊国別皇子は日向を支配した「日向国造(ヒムカノクニノミヤツコ)」の先祖といわれています。
また、あるとき、天皇は児湯(こゆ)地方に出かけ、そのとき、東の方を見て、こう言いました。「この国はまっすぐに日の出る方に向かっている」それでこの地方を名付けて「日向(ひむか)」というようになったそうです。皆さんおかしい?と思いませんでしたか?初代天皇の神武天皇が東征に出発したのが日向ですよね~12代景行天皇が日向に名前を付けたのなら~?神武天皇の出発点は現在の日向ではないことに成りませんか(あら~やっちまったよ!大足彦忍代別天皇)?
色々な出来事が有りましたが、気がつけば景行天皇が日向にきてから、はや六年の月日が過ぎていました。天皇はいよいよ都に帰ることになり、出発した翌年に無事に都に着いたということです。
【景行天皇九州巡幸記】
景行12年熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺します。筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設けます。豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛を誅して、11月ようやく日向国に入ることが出来ます。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18年3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に還御しました。なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていません。
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が持たれています。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在と仮定すれば、その年代は4世紀前半だと考えられています。
【垂仁天皇の業績と羨ましいくらいの子だくさん!】
『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、記録に残ら無い御子が59人、合計80人もの御子がいたことになっています。
垂仁天皇37年1月1日に立太子。景行天皇元年7月に即位、翌2年3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てます。
景行4年、美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在します。八坂入媛命を妃とします。
景行51年8月4日、八坂入媛命との間の皇子・稚足彦尊(後の成務天皇)を皇太子に立てます。
景行52年5月4日に播磨稲日大郎姫が崩御されたので、同年7月7日に八坂入媛命を新たな皇后としました。
景行25年7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させます。
【日本武尊の活躍に涙しない者はいない!】
景行27年8月、熊襲が再び叛旗を翻す。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させます。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命します。
景行40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じます。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かっっています。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定します(常陸は蝦夷)。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚します。その後近江国に出向来ますが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調に陥ります。そのまま伊勢国に入りますが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御しました(景行43年)。白鳥陵に葬られました。なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、太平洋戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったといわれます。
『倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)』
景行53年、息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出る。東国から戻って伊勢に滞在し、翌年9月に纒向宮に帰ります。
景行58年、近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること3年、60年11月に崩御143歳でした。『古事記』では137歳でした(あと90年は生きられるな)。
【宮はどこだ編】
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)といわれます。伝承地は現在の奈良県桜井市穴師です。
また晩年の景行天皇58年には、近江国に行幸して、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太か)に滞在したと考えられます。
現実と虚像が入り混じるこの時代、真実は何処に在るのか?140歳の天皇が居たとはとても思えませんが、だからといって景行天皇の業績や、日本武尊の活躍が全くの夢物語とも思えません。さて皆さんはどう思われますか?
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とはいっても、題名にも付けましたように、300mを越える陵墓を近くから見ても山なのか、何なのか良く解りません(笑)、不遜な話ですが、灌漑様の池の向こう側が山に成ってる?位の感じですね。古墳拝所がなければ、いえカーナビと看板が無ければ本当に分からないのです。
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景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年~景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇です(在位:景行天皇元年7月11日~同60年11月7日)。記紀によれば第11代垂仁天皇と丹波道主王の娘日葉酢媛(ひばすひめのみこと)の子、垂仁天皇の第三皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父として有名です。『日本書紀』には自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を征伐し、東国には日本武尊を遣わして蝦夷を征討させたと伝わっています。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)と記載され。「常陸風土記」には大足日足天皇と「播磨風土記」には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇と多くの名前が有りますね~(記紀も風土記も発音を漢字に当てはめるのに苦労した様子がうかがえます)。
皇后は播磨稲日大郎姫、その死後は八坂入姫。子に第13代成務天皇、日本武尊がいます。都は纏向日代宮(桜井市穴師付近)。自ら日向(九州南部)の熊襲を討ち、日本武尊をして熊襲、出雲、東国を征討させたといわれています。子は80人におよび、その多くは地方に分封したと伝えられます。また九州関係の『風土記』には多様な巡行、活動が描かれる。伝承上の事績は事実としては疑わしいですが、地方伝承への強い浸透を念頭におくと、実在の人物としの可能性が有ります。
【物語、景行天皇熊襲を征伐する】
第12代景行天皇は、日本書紀によると、6年間にわたって、日向(ひむか)に滞在したと記され、熊襲征伐の伝承が伝えられています。ある年、九州南部の熊襲一族が朝廷に反抗し、みつぎ物を差し出しませんでした。景行天皇は熊襲を討つことを決め、みずから軍を率いて、九州へ向かいます。そして、豊後の国(今の大分県)を通って、日向の国に入ると、「高屋宮(たかやのみや)」という仮の住まいを建てました。ある日、天皇は熊襲討伐作戦を考えます。
「聞くところによると、熊襲には熊襲梟帥(くまそたける)という強者がいるらしい。何かうまく攻略する方法はないものか」景行天皇の臣の一人が、「熊襲梟帥には姿は美しく、心は雄雄しい2人の娘がいるので、その娘たちを傍に召し、利用すれば、自らの手を汚さずに、熊襲を滅ぼすことが出来るでしょう。」と天皇に奏上しました。それはいい考えということで、2人の娘は財宝を与えられ、天皇の下に召しだされます。そして景行天皇は、その姉のイチフカヤを寵愛しました(その愛は勿論偽りだったのですが)。懐柔されたイチフカヤは策を話します。「私に良い考えがあります」イチフカヤは家に帰ると強いお酒をたくさん用意して父親の熊襲梟帥にそれを飲ませると、熊襲梟帥は酔ってぐっすり寝てしまい、その間に天皇の兵によって殺されてしまいました。熊襲梟帥を失った熊襲一族は勢力を失い、その半年後には天皇によってほろぼされてしまいました。
襲国を平定し、高屋宮に滞在する事6年、景行天皇は御刀媛(ミハカシヒメ)という美しい女性を妻に迎え、豊国別皇子(トヨクニワケノミコ)という名の男の子をもうけました。豊国別皇子は日向を支配した「日向国造(ヒムカノクニノミヤツコ)」の先祖といわれています。
また、あるとき、天皇は児湯(こゆ)地方に出かけ、そのとき、東の方を見て、こう言いました。「この国はまっすぐに日の出る方に向かっている」それでこの地方を名付けて「日向(ひむか)」というようになったそうです。皆さんおかしい?と思いませんでしたか?初代天皇の神武天皇が東征に出発したのが日向ですよね~12代景行天皇が日向に名前を付けたのなら~?神武天皇の出発点は現在の日向ではないことに成りませんか(あら~やっちまったよ!大足彦忍代別天皇)?
色々な出来事が有りましたが、気がつけば景行天皇が日向にきてから、はや六年の月日が過ぎていました。天皇はいよいよ都に帰ることになり、出発した翌年に無事に都に着いたということです。
【景行天皇九州巡幸記】
景行12年熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺します。筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設けます。豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛を誅して、11月ようやく日向国に入ることが出来ます。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18年3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に還御しました。なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていません。
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が持たれています。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在と仮定すれば、その年代は4世紀前半だと考えられています。
【垂仁天皇の業績と羨ましいくらいの子だくさん!】
『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、記録に残ら無い御子が59人、合計80人もの御子がいたことになっています。
垂仁天皇37年1月1日に立太子。景行天皇元年7月に即位、翌2年3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てます。
景行4年、美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在します。八坂入媛命を妃とします。
景行51年8月4日、八坂入媛命との間の皇子・稚足彦尊(後の成務天皇)を皇太子に立てます。
景行52年5月4日に播磨稲日大郎姫が崩御されたので、同年7月7日に八坂入媛命を新たな皇后としました。
景行25年7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させます。
【日本武尊の活躍に涙しない者はいない!】
景行27年8月、熊襲が再び叛旗を翻す。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させます。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命します。
景行40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じます。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かっっています。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定します(常陸は蝦夷)。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚します。その後近江国に出向来ますが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調に陥ります。そのまま伊勢国に入りますが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御しました(景行43年)。白鳥陵に葬られました。なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、太平洋戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったといわれます。
『倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)』
景行53年、息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出る。東国から戻って伊勢に滞在し、翌年9月に纒向宮に帰ります。
景行58年、近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること3年、60年11月に崩御143歳でした。『古事記』では137歳でした(あと90年は生きられるな)。
【宮はどこだ編】
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)といわれます。伝承地は現在の奈良県桜井市穴師です。
また晩年の景行天皇58年には、近江国に行幸して、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太か)に滞在したと考えられます。
現実と虚像が入り混じるこの時代、真実は何処に在るのか?140歳の天皇が居たとはとても思えませんが、だからといって景行天皇の業績や、日本武尊の活躍が全くの夢物語とも思えません。さて皆さんはどう思われますか?
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