イメージを凌駕した飛鳥『石舞台古墳』の凄さ! - 「高天原の縁側日記」
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2017/05/29

イメージを凌駕した飛鳥『石舞台古墳』の凄さ!


「山辺の道」を少し離れて、古墳は古墳ですが、少し(300年程)新しい古墳を御紹介致します。


飛鳥に有る『石舞台古墳』です(教科書にも必ず出てますよね~今もかな?色々変わってますからね)。

P5200485.jpg
(何をかいわんや!とにかく凄い。インパクトならこれですね。)

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳です。
勿論!国の特別史跡に指定されています。

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【石舞台古墳データ】

P5200482.jpg(とにかくでかいです。確かに石舞台。)
P5200515.jpg(説明版、特別史跡、確かに特別だね。)



露出する横穴式石室で有名な石舞台古墳ですが!
所在地: 奈良県高市郡明日香村島庄
形状: 不明
築造年代: 7世紀初頭
被葬者:(推定)蘇我馬子
指定文化財: 国の特別史跡「石舞台古墳」

元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていた筈ですが、その土が失われて巨大な石を用いた横穴式石室が露出しています。
埋葬者としては蘇我馬子が有力視されています。

墳丘は現在失われているが、下部は方形で、20-50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられてい様です。
墳丘の周りに幅5.9~8.4メートルの空堀がめぐり、幅約7.0メートルの外堤が設けられています。
外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルです。

P5200478.jpg(斜面の葺石ですが再現されたものかな?)
P5200507.jpg(入り口が見えてきました。)
P5200512.jpg(方墳の斜面は本当に綺麗です。)


封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確では有りません。
2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されています(台座を考えて階段ピラミッドも有るかも(^_^;))。
また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳であるとも考えられています。
これまでの、円墳や前方後円墳から仏教寺院の基台を取り入れた方形という考えも有るようです。

埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口しています(花崗岩で作られた石組みです。)。

玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を誇ります(大いです。)。
石室内部には排水施設もありました。
約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されており、石は古墳の側を流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれたと推定されています。

P5200492.jpg
(横穴の入り口です。花崗岩ね~どうでもいい凄さ!)
P5200495.jpg
(奥まで8メートル近い長さです。)
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(天井は落ちてこんかな、笑。)
P5200503.jpg
(出口?入り口175㎝の私がかがむ必要なく入れます。)

石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まりました。
羨道部と外堤から土師器と須恵器や銅の金具などが見つかり、時代が下る宋銭や寛永通宝も出土(昔から日本人はお賽銭を置きたがる?)。

1952年(昭和27年)3月29日、国の特別史跡に指定されました。

【被葬者は誰だ?】

被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力です。
『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指していると考えられます。
封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説も在ったようです(勝ったものが歴史を作る!)。

ただし、異説もあり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えています。

また、三重中京大学名誉教授の上野利三は石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれており、肉眼でも確認可能との説を主張しておられます(私にはじぇんじぇん見えませんでした、笑)。

石舞台古墳が文献に記されるのは、江戸時代になってからです。
延宝9年(1681年)の林宗甫『大和名所記』(和州旧跡幽考)に、石太屋という陵があると記しており、陵とは前後の文脈から天武天皇の陵と了解できるようです。
「石太屋」(いしふとや)は大きな石で造った屋の意味で、これが「石舞台」と転訛したのではないかとの意見がある様です。
嘉永元年(1848年)の『西国三十三所名所図会』にも、石舞台を天武天皇の殯のあとという記述がありますが、現在では天武天皇の墓とする説を支持する学者はいない様です。

【もう一度蘇我氏の系図を確認しましょう。】

武内宿禰→(4代)→蘇我稲目→馬子→蝦夷→入鹿となっています(武内宿禰の子孫なんですね~知らんかったわ~、笑)。

さて皆さん、蘇我氏の滅亡を「大化の改新(645年)」と覚えて居られる方はおられませんか?
違うんですよ~!(歴史ファンには常識でもそうでない方にも解りやすく説明しますね(#^.^#))。
中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変は「乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)」と言います。

その後、中大兄皇子(天智天皇)は体制を刷新して「大化の改新」と呼ばれる改革を断行ししました。
俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともありますが、厳密にはクーデターでの「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」なんですよ。

【石舞台古墳伝説】

地元では他に「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。
「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としています。

明治時代に喜田貞吉が『日本書紀』にみえる桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表し、以後これが有力になりました。

1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。
これより前には前方後円墳ではないかという説もあったが、貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、方形であることが判明しました。
発掘調査で古墳周囲の堀が見つかったのはこれが初めてのことでした。

1954年(昭和29年)から1959年(昭和34年)にかけて古墳の復元整備事業が行われました。

巨石が組み上げられた基本的な外観は江戸時代から変わっていないが、石室と羨道部はかなり崩れてい様です。
現在は修復され、内部が公開されているので玄室内に入ることも可能です。

【入場時間・料金】

8時から17時まで
大人・大学生:250円
高校生:200円
中学生:150円
小学生:100円

【今年三月発表の方墳のお話】

先日、方墳の濠(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村の小山田遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかったと県立橿原(かしはら)考古学研究所が発表しました。
一辺約70メートルと推測され、飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定しました。
研究所は「出土した瓦片などから640年ごろの築造とみられますが。
当時の最高権力者の墓」と指摘、被葬者は「舒明天皇初葬墓」か大臣の「蘇我蝦夷の大墓」に絞られたようです。

曽我氏って悪役のイメージが在りませんか?私もそんな風に考えていました。
石舞台古墳を見て、こんな凄い物をいくら強制されたとしても、尊敬や敬愛もしないで作ろうとするのだろうかと?
悪いのは、天智天皇をそそのかした中臣鎌足(天皇を悪く言うのは気が引けるので…)ではないかと、中臣鎌足は藤原に氏を変えてこの後長きにわたって日本の政治の中枢で我が世の春を謳歌するのですからね~(笑)

P5200521.jpg
(復元石室「曽我馬子」が本当に眠っていたのでしょうか?)
P5200526.jpg
(本当に綺麗な方墳でした。どうやらこれよりも大きな方墳が発見されたようですね~!楽しみです。奈良に住みたいわ)

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