吉備国の立地は、戦国~江戸期に岡山城に何をもたらしたのか? - 「高天原の縁側日記」
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2017/04/15

吉備国の立地は、戦国~江戸期に岡山城に何をもたらしたのか?

前回の続きですが、今日は吉備国の立地についても少し考察してみましょう。

吉備の国・岡山(岡山城)は古代から大きな勢力の間で、時代と供に東西どちらの味方と成るべきかの選択を迫られる事を繰り返してきたとのかも知れません。
古代には、大和と九州もしくは出雲国(山陰勢力)との間で戦国時代は毛利VS織田(羽柴)、のどちらに付くべきか選択を迫られたのではないでしょうか?

PB230070.jpg(天守閣を後楽園方面から望む。)

海上交通の観点からも、岡山県中南部の港は古代・中世から海運・軍事の要衝であり、江戸時代、風待ち潮待ちの場所として繁栄してきました。
瀬戸内海航路の要所であり、北前船や参勤交代の御座船も寄港し、人や物が集まる港として繁栄は幕末まで続きました。

吉備津彦?宇喜田直家も時代は違えど、同じ様に悩んだのかも知れませんね(笑)

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岡山城は戦国~安土桃山時代に、備前東部から興り美作・備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。

【池田家の治世の始まりと岡山城】
「池田輝政」は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため家督を相続(家康は親と兄の仇なんですけどね~(^^;)、関ヶ原の戦いでは東軍に付き岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となりました。

慶長16年(1611年)3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席しています。
慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」などと称されます(失礼ながら家康の飼い犬に成っちゃた。)。
また、次男・忠継の備前国岡山藩28万石、三男・忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有しました。
徳川家との縁組、(家康の次女督姫を継室にしています。)は家格を大いに引き上げ、明治に至るまで池田家が繁栄する基盤となったのです。

さて岡山藩ですが、慶長8年、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられましたが、幼少(5歳)であったので兄の利隆「備前監国」として代政します。
利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われています。
慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入りましたが、慶長20年(1615年)に死去してしまいます。

PB230022.jpg(天守閣がこちらに在ったと考えていましたが、こちらで配置だけ再現していたようです。(;^_^A)
PB230037.jpg(天守閣から金鯱越しに後楽園を望む。)
PB230065.jpg(本丸と表書院の説明版ですね~空襲で燃えてます、残念ですね~涙。)
PB230058.jpg(西から天守への階段は味がありますね。下にはライトが有って夜はライトアップされているようです。)
PB230064.jpg(廊下門!蝶の家紋は池田家の物ですが、種類が結構あるようです。)

元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5千石で入封します。
幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。
また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなどし、ここに岡山城の縄張りが完成したのでした。
PB230027.jpg
(元禄~宝永期の岡山の町割りです、南北に長い事と無理やりの河川工事は洪水が起きやすそうですね~。)

重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てです。
城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見えます。

江戸期の縄張は「岡山」に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、「石山」付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれそれらの南に二之丸、その西南に三之曲輪、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内という配置です。

本丸には天守の他に3つの御殿、大納戸櫓を含む高層(3層以上)の櫓が9棟(城全体では11棟)、さらに2層の櫓、櫓門が多数ありました。

石山の二之丸内郭には池田家祖廟、西之丸に前藩主の隠居所がおかれ、二之丸内郭(東南の郭)、二之丸は上級武士の屋敷地に成ります。
三之曲輪と三之曲輪の内の北側には西国往来が通り、町人地として領国経済の中心となっていました。

三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地であり、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていたようです。

寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲が鳥取へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入封します。
光政は利隆の子であり、姫路城で生まれたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていました。
以後、幕末まで光政系池田氏の居城となりました(鳥取城も同じように池田氏が幕末迄居城としています。鳥取藩池田家の最後の城主は15代将軍慶喜の兄です。)。

明治2年(1869年)の版籍奉還により藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて兵部省管轄、つまり存城となりました。
明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われていき、明治15年(1882年)頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなってしまいました(残念)。
明治23年(1890年)、旧藩主池田章政に払い下げられた後、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896年)には本丸趾に県立岡山中学校が建てられました。

PB230019.jpg(岡山中学校の跡)


ちなみに我が母校の兵庫県立豊岡高校ですが、なんと同じく明治29年兵庫県立豊岡尋常中学校として創立されています。
現岡山高校かな?兄弟校と言えますね~。

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