戦国時代の『烏城』を訪ねて岡山へ! - 「高天原の縁側日記」
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2017/04/13

戦国時代の『烏城』を訪ねて岡山へ!

今日のご紹介は引き続き岡山県、『岡山城』です。

別名烏城、金烏城城郭構造梯郭式平山城
天守構造は、複合式望楼型4重6階
(1597年築)(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主は上神高直とされます。
築城年1346年~1369年(正平年間)ですが、主な改修者は宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄等です。
明治6年(1873年)に残念ながら廃城となります。
遺構としては、櫓、石垣、堀
国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)です。

PB230024.jpg
(複合式望楼型4重6階のコンクリート天守閣です(;^_^A)

別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)と呼ばます。

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簡単な概要は戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。



PB230008.jpg
(本丸地図ですこの地図に沿ってご紹介して行きます。)

岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設されています。

当時(戦国時代ですが)、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されていた様です。

その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に、子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造されました。

城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっています。
言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張と成っています。
そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用した様です。
さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたとも言われます。

天守は4重6階の複合式望楼型で、特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかとも言われていますが、羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もあり意見が別れています(現在の天守の前に礎石が配置されて居ました。)。

その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう・カラスじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県勿論ご存知兵庫県の「白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもあります(岡山県民の皆様には(^人^)ですが、兵庫県民としては、心外かも(-""-;))。

元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺えます。

明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊されました(これに関しては、明治政府の政策は本当に腹立たしいです。)。
堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められましたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多いようです。

さらに第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失してしまいました。
現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建されています。

現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されています。

その他、京橋御門が岡山市南区小串に移築され現存しています。
城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡に山陽放送、林原美術館、岡山市民会館が、三之丸跡に岡山県庁、岡山県立図書館などの公共機関があります。
近年本丸御殿の再建が検討されましたが、今のところ目処は立っていません(名古屋城の建て替えも決まった事ですし、頑張れ岡山県?)。

また隣接する大名庭園「後楽園」は、水戸・偕楽園金沢・兼六園とともに、日本三名園として並び称されていますね。

PB230001.jpg(内下馬橋を渡って城内に?ここも本来城内なのですがね。)
PB230009.jpg(巨石が使われていますね~とても守備が弱いとは思えませんが?此方は南側です。)
PB230011.jpg(不明門を横から見ています。高い石垣やはり南側ですが?)
PB230015.jpg(同じく不明門を横から、天守までもう少しです。)

【今回は城の築城~小早川家迄の歴史を御紹介】

南北朝時代の正平年間(1346年~1369年)に、名和氏(南朝の武将の一族)が「上神高直」石山台(岡山)に城を築いたと、「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられています。

その後およそ 150年間の城主は記録が有りません。
なおこの付近には摂関家領・鹿田荘の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていた様です。
戦国時代の大永年間(1521年~1528年)には、金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていました。

元亀元年(1570年)、「宇喜多直家」が金光宗高を謀殺しこの地を支配します。
直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸ばしていました。
天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行ないます。
この頃の石山城(岡山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されており、直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導来ました。
そして備前福岡、備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとりました。
これは、信長が安土城を築城する3年前のことで、直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたと言われていることも無縁ではないとみられていますが、武人としても行政官としても宇喜多直家は非凡な人物では無かったことがわかりますね(大河ドラマdと結構な悪役でしたが(;^_^A)。
なお主家である宗景の居城の天神山は巨大ではありますが天神山にある山城で、直家の水辺に近い小高い丘の石山城とは対照的です。

喜多直家は天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置きました。

直家の子「宇喜多秀家」は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となりました。
これに相応した城とするため天正18年~慶長2年(1590年~1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えます。
秀家は「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭に、二之丸を西之丸とし、そして内堀を挟んで二之丸、その西に三之丸の郭を整備します。
これらは織豊系城郭に特徴的な高石垣の積まれた城に成ります。
本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てました。
そしてそのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としています。
ただしこの付け替えによる明らかに不自然な形の流路は、城下に洪水を多発させる原因となり、やがて放水路としての百間川の整備へとつながります。
そして城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めました。
築城には義父となった「豊臣秀吉」の意向が大いに働いていたのは間違いないでしょう
こののち城は「岡山城」城下町は「岡山」の呼称が定着しました。

PB230018.jpg(不明門正面中が天守台ですが、場所は少し違っています。)
PB230026.jpg
(金の鯱ですね~天守にもあります。)
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(烏城のいわれ~カラス!見たまんまですけどね。笑)
PB230062.jpg(宇喜多秀家の頃の石垣が天守台のそばに埋まっているようです。)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。
代わって「小早川秀秋」が備前・美作52万石の領主として入城した。
秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。
この外堀工事に農民だけでなく武士も使役し20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれている。
慶長六年には、中の段南隅に沼城天守を移築したとされ、これは大納戸櫓と呼ばれ、岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった。
秀秋は2年後の慶長7年(1602年)10月に岡山で急死し(勿論関ケ原の裏切りの恨みの噂が絶えなかったのはしょうがないですね)、嗣子がなく小早川家は断絶しました。

次回は池田家の岡山城をご紹介できますか?ご期待ください。

いつも応援、ありがとうございます(^人^)。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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