丹波の赤鬼『悪右衛門』死す!「第二次黒井城戦」光秀面目躍如?
前回、「丹波の赤鬼」こと赤井悪右衛門直正の活躍を御紹介しました。
第一次黒井城攻防戦では、明智光秀を取り囲み、光秀に「もはやこれまで」と死を覚悟させるほどに撃ち破った直正ですが、第二次黒井城の戦いでは織田軍トップの精鋭部隊明智光秀の反撃が始まります。
今回は、直正の最後と黒井城落城、彼の末裔のその後について御紹介します。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。




【丹波の赤鬼・赤井直正・悪右衛門死す!光秀に勝って病魔に敗北!!Σ(×_×;)!】
この時に赤井方では、主将である赤井(荻野)直正が3月9日に病没するという大事件がおきています。
数十年に亘り実質的な赤井氏の指導者であった直正の死去は丹波の国人衆に大きな影響を与え、一旦光秀を裏切った丹波国人衆も八上城が包囲されるのを見ると再び光秀に降っていきました。
黒井城と赤井家は息子の赤井悪右衛門直義(9歳)が継ぎ、弟の幸家が後見と成り統率することになります。
更に信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、山垣城・細工所城・栗住野城・玉巻城・岩屋城・霧山城、等の「八上城」「黒井城」の支城は次々と落城していきました。
光秀は攻囲中に、軍勢を八上城周りに置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処しています(三木合戦・有岡城の戦い!光秀の能力は流石といえます。)。
翌天正7年(1579年)3月に八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城します。
各支城が落城し、金山城の効果も出始めたのか、5月5日には氷上城が落城します。
極度の飢餓状態になった八上城に対して、『信長公記』によると「調略をもって」という記載がある事から、八上城兵に対して働きかけがあったと思われますが、遂に6月1日 八上城が落城、捕えられた波多野三兄弟は光秀護送の元、洛中を引き回され安土城に出向き信長の命により磔になります。
光秀は7月に再び丹波に入国し、最後の城、黒井城の攻略にとりかかります。
最初の戦いから約1年半後、再び光秀が黒井城の攻撃を開始したのは天正7年(1579年)8月でした。
両軍の戦力は、明智軍約10,000赤井軍約1,800でした。
明智光秀軍は明智光秀・明智秀満・細川藤孝・細川忠興・羽柴秀長と丹波の山城一つ落とすのに、ある意味オールスターです(#^.^#)。
赤井忠家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、波多野家からの援軍もなく黒井城の支城もほとんどが落城してしまい、兵力も激減していたと思われます(五分の一以外ですからねぇ(^^;)。
戦いは8月9日早朝開始、光秀は第一次黒井城の戦いの反省をいかし慎重に攻め込み、仮想陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いに乗って追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりしました。
そんな中、明智軍の四王天政孝隊が手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けます。
明智軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず忠家も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走しました。
この黒井城の落城により丹波の組織的反抗は終止符をうったのでした。
若干の反対勢力との小競り合いや和睦などを片付けて、明智光秀、細川藤孝らは10月24日に安土城に凱旋し、信長に拝謁し丹波が平定できたことを報告します。
翌天正8年(1580年)に信長は丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えることになりました。
黒井城落城から三年、天正10年の5月25日、愛宕百韻と言われる、連歌師・里村紹巴を招いて京都・愛宕神社で光秀が設けた連歌会で「時は今 あめが下しる 五月かな」と発句、本能寺の変~天王山の戦いで自身が破滅への道を進むとは、光秀も考えてはいなかったでしょうね(-""-;)。
余談ですが、直正の嫡男、赤井直義(9歳)は後見の叔父の赤井幸家によって落城寸前の黒井城のから脱出します。
のちに京都に隠棲し、荻野金左衛門と名前を改名しました。
1610年、山口直友を介して藤堂高虎に仕え1000石を賜ると同時に旧姓赤井に復しています。
大坂の役では藤堂軍の足軽大将として活躍しました(子孫は藩士として続きます)。
直正の妻・桂光院は、大和国駒崎城主・古市胤栄へ再嫁し、三男・赤井弥七郎を生みます。
弥七郎は、大坂の陣にて豊臣方として参戦した後、元和2年(1616年)にやはり藤堂家に500石で召し抱えられています。
先日NHKのファミリーヒストリーと言う番組を見ていたところ、俳優の赤井英和さんが、赤井(悪右衛門)直正の嫡男・直義を守って落ち延びた、弟・赤井幸家の子孫だと知りました(驚!)。
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第一次黒井城攻防戦では、明智光秀を取り囲み、光秀に「もはやこれまで」と死を覚悟させるほどに撃ち破った直正ですが、第二次黒井城の戦いでは織田軍トップの精鋭部隊明智光秀の反撃が始まります。
今回は、直正の最後と黒井城落城、彼の末裔のその後について御紹介します。
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【光秀汚名挽回に奔走する!】
明智光秀は第一次黒井城攻略戦失敗の後、第三次信長包囲網を破るべく、畿内を転戦します。
「石山本願寺攻め(天王寺の戦い)」、「紀州征伐」、「加賀攻め」、「信貴山城の戦い」、など休む暇もなく戦場を往来し、丹波攻略に集中出来る状況では有りませんでした。
明智軍は必要に応じて駆り出される「遊撃軍」を担っていたと思われます。
【第二次黒井城の戦い】
明智光秀は、加賀の一向一揆が終息に向かい、信貴山城の戦い(松永久秀は、上杉謙信・毛利輝元・石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱します。織田軍は信忠を総大将とし、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、信貴山城を包囲させます。佐久間信盛は名器・「平蜘蛛茶釜」を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、火薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答、織田軍の攻撃が始まると平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害、享年68。)が終了する天正5年(1577年)10月、第二次丹波征討戦を開始します。
一方、赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていました。
足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者跡部勝資や長坂光堅、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っています。
特に石山本願寺からは信長の動向、その対抗策、返信の要請など緊密に連絡が行き来されていたと考えられます。
また、直正と弟の幸家は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と丹波への急援を要望しています。
明智光秀は吉川元春の援軍が到着する前に、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城を攻略、この二城を丹波征討戦の本拠地としました。
第一次丹波征討戦と違い光秀は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく各個撃破戦略をとります(大軍による各個撃破は兵法の常道ですね(#^.^#))。
その上に信長は細川藤孝・忠興父子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させます。
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明智光秀は第一次黒井城攻略戦失敗の後、第三次信長包囲網を破るべく、畿内を転戦します。
「石山本願寺攻め(天王寺の戦い)」、「紀州征伐」、「加賀攻め」、「信貴山城の戦い」、など休む暇もなく戦場を往来し、丹波攻略に集中出来る状況では有りませんでした。
明智軍は必要に応じて駆り出される「遊撃軍」を担っていたと思われます。
【第二次黒井城の戦い】
明智光秀は、加賀の一向一揆が終息に向かい、信貴山城の戦い(松永久秀は、上杉謙信・毛利輝元・石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱します。織田軍は信忠を総大将とし、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、信貴山城を包囲させます。佐久間信盛は名器・「平蜘蛛茶釜」を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、火薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答、織田軍の攻撃が始まると平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害、享年68。)が終了する天正5年(1577年)10月、第二次丹波征討戦を開始します。
一方、赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていました。
足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者跡部勝資や長坂光堅、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っています。
特に石山本願寺からは信長の動向、その対抗策、返信の要請など緊密に連絡が行き来されていたと考えられます。
また、直正と弟の幸家は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と丹波への急援を要望しています。
明智光秀は吉川元春の援軍が到着する前に、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城を攻略、この二城を丹波征討戦の本拠地としました。
第一次丹波征討戦と違い光秀は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく各個撃破戦略をとります(大軍による各個撃破は兵法の常道ですね(#^.^#))。
その上に信長は細川藤孝・忠興父子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させます。
【丹波の赤鬼・赤井直正・悪右衛門死す!光秀に勝って病魔に敗北!!Σ(×_×;)!】
この時に赤井方では、主将である赤井(荻野)直正が3月9日に病没するという大事件がおきています。
数十年に亘り実質的な赤井氏の指導者であった直正の死去は丹波の国人衆に大きな影響を与え、一旦光秀を裏切った丹波国人衆も八上城が包囲されるのを見ると再び光秀に降っていきました。
黒井城と赤井家は息子の赤井悪右衛門直義(9歳)が継ぎ、弟の幸家が後見と成り統率することになります。
更に信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、山垣城・細工所城・栗住野城・玉巻城・岩屋城・霧山城、等の「八上城」「黒井城」の支城は次々と落城していきました。
光秀は攻囲中に、軍勢を八上城周りに置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処しています(三木合戦・有岡城の戦い!光秀の能力は流石といえます。)。
翌天正7年(1579年)3月に八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城します。
各支城が落城し、金山城の効果も出始めたのか、5月5日には氷上城が落城します。
極度の飢餓状態になった八上城に対して、『信長公記』によると「調略をもって」という記載がある事から、八上城兵に対して働きかけがあったと思われますが、遂に6月1日 八上城が落城、捕えられた波多野三兄弟は光秀護送の元、洛中を引き回され安土城に出向き信長の命により磔になります。
光秀は7月に再び丹波に入国し、最後の城、黒井城の攻略にとりかかります。
最初の戦いから約1年半後、再び光秀が黒井城の攻撃を開始したのは天正7年(1579年)8月でした。
両軍の戦力は、明智軍約10,000赤井軍約1,800でした。
明智光秀軍は明智光秀・明智秀満・細川藤孝・細川忠興・羽柴秀長と丹波の山城一つ落とすのに、ある意味オールスターです(#^.^#)。
赤井忠家軍は、第一次黒井城の戦いの時とは違い、波多野家からの援軍もなく黒井城の支城もほとんどが落城してしまい、兵力も激減していたと思われます(五分の一以外ですからねぇ(^^;)。
戦いは8月9日早朝開始、光秀は第一次黒井城の戦いの反省をいかし慎重に攻め込み、仮想陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いに乗って追う黒井城兵を誘い込み挟撃したりしました。
そんな中、明智軍の四王天政孝隊が手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けます。
明智軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず忠家も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走しました。
この黒井城の落城により丹波の組織的反抗は終止符をうったのでした。
若干の反対勢力との小競り合いや和睦などを片付けて、明智光秀、細川藤孝らは10月24日に安土城に凱旋し、信長に拝謁し丹波が平定できたことを報告します。
翌天正8年(1580年)に信長は丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えることになりました。
黒井城落城から三年、天正10年の5月25日、愛宕百韻と言われる、連歌師・里村紹巴を招いて京都・愛宕神社で光秀が設けた連歌会で「時は今 あめが下しる 五月かな」と発句、本能寺の変~天王山の戦いで自身が破滅への道を進むとは、光秀も考えてはいなかったでしょうね(-""-;)。
(別名・保月城跡!是非お出かけください~笑)
余談ですが、直正の嫡男、赤井直義(9歳)は後見の叔父の赤井幸家によって落城寸前の黒井城のから脱出します。
のちに京都に隠棲し、荻野金左衛門と名前を改名しました。
1610年、山口直友を介して藤堂高虎に仕え1000石を賜ると同時に旧姓赤井に復しています。
大坂の役では藤堂軍の足軽大将として活躍しました(子孫は藩士として続きます)。
直正の妻・桂光院は、大和国駒崎城主・古市胤栄へ再嫁し、三男・赤井弥七郎を生みます。
弥七郎は、大坂の陣にて豊臣方として参戦した後、元和2年(1616年)にやはり藤堂家に500石で召し抱えられています。
先日NHKのファミリーヒストリーと言う番組を見ていたところ、俳優の赤井英和さんが、赤井(悪右衛門)直正の嫡男・直義を守って落ち延びた、弟・赤井幸家の子孫だと知りました(驚!)。
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