京都五山第三位(私的には俵屋宗達の風神雷神図だけで一位!)『建仁寺』
京都五山の第3位『建仁寺』を御紹介するのですが、何時も言っていますように、京都と言う場所は私の様な「えせ歴男」には、落とし穴🕳️が一杯で怖いのですが頑張って行ってみましょうo(^o^)o
琳派の創始者(勿論名前は尾形光琳ですが)ともいえる、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が一度見てみたくて、お伺いしました。
勿論本物は、京都国立博物館に寄託保存されているのですが、キャノンさんの陶板複製?が素晴らしく、基の場所(空間)で見られた事に心が震えました~。
其では、『市郎右衛門』の日本歴史ブログをお楽しみくださいね。




『建仁寺』
京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584。
山号は東山(とうざん)宗派臨済宗建仁寺派寺格大本山の寺院です。
京都五山の第3位に列せられています。
本尊は釈迦如来
創建年は建仁2年(1202年)
開基(創立者)は源頼家(頼朝の息子、鎌倉幕府二代将軍)、開山は栄西です(開基と開山が違うって今知った、よく歴史Blog書いてるな~(^^;)。
正式名称は「東山 建仁禅寺」です。
【京都五山ってなに?】
京都五山とは、五山の制のうち京都の禅宗(臨済宗)の寺格、官寺制度です。
鎌倉時代末期頃から北条氏は南宋にならい五山制度を導入し鎌倉の寺院を中心とする五山を選定しました。
その構成は定かでは有りませんが、京都の寺院では建仁寺が当初の五山に含まれていたとされています。
鎌倉時代後期に後醍醐天皇が討幕運動を起し、幕府滅亡後に後醍醐による建武の新政が開始されると五山も南禅寺と大徳寺を筆頭とする京都本位に改められました。
足利尊氏が建武政権から離れて南北朝時代となると、尊氏や弟の足利直義などは禅宗を信仰したため、五山も足利将軍家が帰依していた夢窓疎石が中心となって京都の寺院から新たに制定されました。
(方丈、慶長四年(1599)あの、安国寺恵瓊(えけい)が安芸の安国寺から移築したもので、優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築。本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。また前庭に枯山水様式の「大雄苑(だいおうえん)」を有します。)
数回の選定変更がありましたが、室町時代の1386年(至徳3年)には三代将軍足利義満が相国寺を創建した後に五山を京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺(京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最高位の格式を持ちます。)を置くという改革が行われました。
僧録司制なども定めて住職の任命権などを掌握し、寺社の統制を行い幕府権威に宗教的側面を付加させました(義満の力は天皇をもしのぐ程で、1399年に京都相国寺に完成した八角七重塔は、塔の高さ360尺「約109m」にも及ぶ高層建築物であり、以後500年以上、日本最高記録となっています。それも御所の直ぐ北ですからね~(^^;)。
先日、京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)での発掘調査で、義満が北山殿に建立した七重塔「北山大塔」の頂部分を飾る「相輪」とみられる破片が見つかりました。
国内で最も高かった相国寺の七重塔(約109m、四年で落雷によって焼失!)のような巨大な塔の姿が見えて来ましたね~!建築技術は凄いけど、落雷対策は出来なかったのかな?
現在、京都五山は南禅寺(別格)、天龍寺(第一位)、相国寺(第二位)、建仁寺(第三位)、東福寺(第四位)、万寿寺(第五位)の順位に成っています。
(因みに、足利義満のが作った相国寺は義満の力が全盛期の頃に一位に上がった事が有ります。死後二位に戻りました。)
私は、天龍寺(第一位)万寿寺(第五位)はまだ訪れておりません。
一時別格扱いの、大徳寺はどうなったかと言いますと、後醍醐天皇が当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発しています。
しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまいました(ToT)。
至徳3年(1386年)には、五山十刹の最下位に近い十刹第9位となってしまいます。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとりました。
さて「建仁寺」ですが、私の目的の一つ、俵屋宗達の「風神雷神図」や、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝えます。
豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂さの塔」のある法観寺は建仁寺の末寺なんです。
寺号は「けんにんじ」と読みますが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれているそうです。
なお、しばしば日本最初の禅寺と言われますが、そちらは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である事もうんちく話として一言付け加えます。
【さあて国宝「風神雷神図屏風」です!】
金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神が描かれています。
たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせられます。
私的には、両神の周りの雲や太鼓?が屛風からはみ出していることで、二神が空間を飛び出て部屋全体をも画面の一部と成っているように見えます(イメージわかります?)。
印も落款も無いのですが、俵屋宗達の代表作として名高いものです。
原本は京都国立博物館に寄託され、常時の公開はされていないのですが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができるんです。
元々は京都の豪商「打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)」が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈されました。
後に尾形光琳が模写してしています。
二つの屏風を比べるのは次の機械にしたいと思います。
僭越ですが、私の意見もその時に(笑)
本当に説明が長く成って申し訳ないです(^人^)。
京都の歴史が私にこんな事をさせるのです・・・(;^_^A
最初に申しました様に、太っ腹な『建仁寺』さん!
写真取り放題なので、次回『建仁寺②』では、お寺の中を写真でゆっくり見て頂きます。
いつも応援、ありがとうございますm(__)m。
歴史って本当に面白いですよね~!
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思いますので宜しくお願い致します(^人^)
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琳派の創始者(勿論名前は尾形光琳ですが)ともいえる、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が一度見てみたくて、お伺いしました。
勿論本物は、京都国立博物館に寄託保存されているのですが、キャノンさんの陶板複製?が素晴らしく、基の場所(空間)で見られた事に心が震えました~。
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|o´艸)。oO(Thank you)。
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(建仁寺裏門?生憎の雨!桜も三分咲き?)
『建仁寺』
京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584。
山号は東山(とうざん)宗派臨済宗建仁寺派寺格大本山の寺院です。
京都五山の第3位に列せられています。
本尊は釈迦如来
創建年は建仁2年(1202年)
開基(創立者)は源頼家(頼朝の息子、鎌倉幕府二代将軍)、開山は栄西です(開基と開山が違うって今知った、よく歴史Blog書いてるな~(^^;)。
正式名称は「東山 建仁禅寺」です。
【京都五山ってなに?】
京都五山とは、五山の制のうち京都の禅宗(臨済宗)の寺格、官寺制度です。
鎌倉時代末期頃から北条氏は南宋にならい五山制度を導入し鎌倉の寺院を中心とする五山を選定しました。
その構成は定かでは有りませんが、京都の寺院では建仁寺が当初の五山に含まれていたとされています。
鎌倉時代後期に後醍醐天皇が討幕運動を起し、幕府滅亡後に後醍醐による建武の新政が開始されると五山も南禅寺と大徳寺を筆頭とする京都本位に改められました。
足利尊氏が建武政権から離れて南北朝時代となると、尊氏や弟の足利直義などは禅宗を信仰したため、五山も足利将軍家が帰依していた夢窓疎石が中心となって京都の寺院から新たに制定されました。

数回の選定変更がありましたが、室町時代の1386年(至徳3年)には三代将軍足利義満が相国寺を創建した後に五山を京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺(京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最高位の格式を持ちます。)を置くという改革が行われました。
僧録司制なども定めて住職の任命権などを掌握し、寺社の統制を行い幕府権威に宗教的側面を付加させました(義満の力は天皇をもしのぐ程で、1399年に京都相国寺に完成した八角七重塔は、塔の高さ360尺「約109m」にも及ぶ高層建築物であり、以後500年以上、日本最高記録となっています。それも御所の直ぐ北ですからね~(^^;)。
先日、京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)での発掘調査で、義満が北山殿に建立した七重塔「北山大塔」の頂部分を飾る「相輪」とみられる破片が見つかりました。
国内で最も高かった相国寺の七重塔(約109m、四年で落雷によって焼失!)のような巨大な塔の姿が見えて来ましたね~!建築技術は凄いけど、落雷対策は出来なかったのかな?
現在、京都五山は南禅寺(別格)、天龍寺(第一位)、相国寺(第二位)、建仁寺(第三位)、東福寺(第四位)、万寿寺(第五位)の順位に成っています。
(因みに、足利義満のが作った相国寺は義満の力が全盛期の頃に一位に上がった事が有ります。死後二位に戻りました。)
私は、天龍寺(第一位)万寿寺(第五位)はまだ訪れておりません。
一時別格扱いの、大徳寺はどうなったかと言いますと、後醍醐天皇が当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発しています。
しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまいました(ToT)。
至徳3年(1386年)には、五山十刹の最下位に近い十刹第9位となってしまいます。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとりました。
さて「建仁寺」ですが、私の目的の一つ、俵屋宗達の「風神雷神図」や、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝えます。
豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂さの塔」のある法観寺は建仁寺の末寺なんです。
寺号は「けんにんじ」と読みますが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれているそうです。
なお、しばしば日本最初の禅寺と言われますが、そちらは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である事もうんちく話として一言付け加えます。
【さあて国宝「風神雷神図屏風」です!】
金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神が描かれています。
たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせられます。
私的には、両神の周りの雲や太鼓?が屛風からはみ出していることで、二神が空間を飛び出て部屋全体をも画面の一部と成っているように見えます(イメージわかります?)。
印も落款も無いのですが、俵屋宗達の代表作として名高いものです。
原本は京都国立博物館に寄託され、常時の公開はされていないのですが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができるんです。
元々は京都の豪商「打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)」が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈されました。
後に尾形光琳が模写してしています。
二つの屏風を比べるのは次の機械にしたいと思います。
僭越ですが、私の意見もその時に(笑)
本当に説明が長く成って申し訳ないです(^人^)。
京都の歴史が私にこんな事をさせるのです・・・(;^_^A
最初に申しました様に、太っ腹な『建仁寺』さん!
写真取り放題なので、次回『建仁寺②』では、お寺の中を写真でゆっくり見て頂きます。
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